いつまでも美しくありたい。
そのために日々入念にスキンケアをおこなったり、食生活や運動にも気をつける。
でもときどき、誰かがつくった「美の基準」を追い求めていることにふと気づき、疑問を感じる。
ありのままでいいと言われる時代に、人の目を気にして頑張る必要があるのか、そんな想いがよぎることもあるでしょう。
または多様性が認められる一方で、これまで軸にしていたものが揺らいだように感じる人もいるかもしれません。
風の時代を生きる私たちは「美しさ」とどう向き合えばいいのでしょうか。
日本における美の基準
ありのままで美しいという考えが急速に広まりつつも、依然、何らかの「美の基準」が存在していることは確かです。
たとえば「ボディポジティブ」に共感はしていても、どこか言い訳や諦めにも思えて飲み込みきれなかったり。
たとえば「適正体重」が統計的に病気になりにくいと証明されていても、「実際太めに見える体重だから…」と受け入れられなかったり。
無意識に刷り込まれた「美の基準」というのは、なかなか脱ぎ捨てられないものです。
美の基準は国や地域によっても様々ですが、日本で言えば、細身で色白、あるいは目鼻立ちがくっきりした人をいわゆる美人と定義する傾向にあります。
もう一歩踏み込むと、ただ細身ならいいという訳でもなく、ほどよい肉付きで健康的に引き締まったボディラインといった感じでしょうか。
ごく一部ですがこうして羅列してみると、なんとも細かい注文ですよね。
もし「これらを全て兼ね備えた美人と結婚したい!」と声高に言う人が身近にいたら、つい「それは贅沢だよ」と諭したくなるかもしれません。
でも世間では、こうした特徴を兼ね備えたタレントやモデルが、街中の広告塔を飾っているのも事実です。
一方で、当然こうした「一般的な美の基準」に当てはまらなくても、美しいと言われる人もたくさんいます。
ただ、よくよく思い返してみると、それを形容するのに単に「美しい」ということばだけではなく、何かしら違うことばをくっつけることも多い気がするのです。
例えば、個性的とか、エキゾチックとか、あるいは素朴な顔立ちとか。
たしかに「美しい」ということばだけでは、あまりに漠然とするため、キャッチーにしたいのが主な理由だとは思います。
ただ、何となくその裏側に「いわゆる「美の基準」とは少し違うけれど…」というニュアンスも含まれる気がするのは、筆者がひねくれすぎでしょうか。
いずれにせよ、私たちのマインドの奥底に何かしらの「美の基準」が刷り込まれていることは、それに従うかどうかは別としても多くの人が同意することでしょう。
厄介なのは、それを誰が決めたのかも、その根拠も大してはっきりしないことです。
“なんとなく”美しいと思ったから、あるいは”みんな”が美しいと言っているし、たしかにそんな気もするから。
美しさの定義とは、それくらいとてつもなく「ぼんやりしたもの」です。
頭ではそう分かっているのに、ついつい引っ張られて、がんじがらめになってしまう。
ありのままを肯定する「ボディポジティブ」という考えが現れたのも、実体の見えない「美の基準」に振り回され、疲れ果てた結果なのかもしれません。
美しさを追い求めることも肯定されるべき
多様性が叫ばれるようになった一方で、今度は逆に「美の基準」を追い求める人が揶揄されることもあります。
「ありのままで良いのに、なぜそこまで必死になるの?」と。
スキンケアや生活習慣に細かいこだわりがある人、いついかなる時もメイクやファッションに手を抜かない人。
あるいは、年を重ねてもダイエットや体型維持に励み続ける人を見て「若作りして、みっともない」という風潮だってあります。
だけど、必死に美を求めて何が悪いのでしょう。
筆者は、ありのままを受け入れるのと同じくらい、美を追い求めることだって肯定されるべきだと思うのです。
それが本当の意味での多様性ではありませんか?
正直、筆者は、できれば人から綺麗とか、美人とか、可愛いとか、言ってもらえるならどしどし言ってもらいたいタイプです。
他人の評価を求めたくなるのは、自己肯定感が低い証拠と思う人もいるかもしれませんが、美しさを求める理由は必ずしもそれだけとは限りません。
きっかけは「人の目」でも、そうして小ぎれいにした自分がふとショーウィンドウ越しに目に入ると、純粋にテンションが上がるのです。
それでさらに人からも褒めてもらえるなら、これほど自分のご機嫌取りにぴったりな方法はないなと思うのです。
もちろん、疲れていたり気分がのらなければ、徹底的に手を抜いて外出することもあります。
ただ、そんなぼさぼさ姿の自分が目に入ると、さっきとは反対にパッと目をそむけたくなる。
なんとなく堂々とできなくて表情は曇るし、誰に何か責められたわけでもないのに、自分がどんどん惨めに思えて、そそくさと逃げ帰りたくなる。
そのたびに「美しさ」とは、誰のためでもなく自分のためにあるのだと実感するのです。
傍からみたら理解できないこだわりがあったって、常に抜かりなく着飾ったって、いくつになってもストイックに美を追求したっていい。
どうしても手に入れたい理想のパーツや体型があるなら、メスを入れてもらったっていいのかもしれない。
だってそれは全部、自分が「ご機嫌」になるためにやっているのだから。
一見、外見の美しさを追い求めているだけに見えても、これらの行動は「内面」にも大きな変化をもたらします。
それは単に美しくなったから自信がつく、という話だけではありません。
自分の理想に近づくためには、何かしら行動を変える必要があって、さらにそれには「マインド」の改革が必要です。
たとえば運動の時間を増やす、間食や夜更かしを控える、ちょっとした外出でも身なりを整えるように意識する。
あるいは、食品やコスメをちょっと良いものに変える、そのぶん他の支出はちょっと我慢する。
どれも今までとは違う方向へ舵を切ること、つまり負荷がかかるし、時には踏ん張らないといけないことばかりです。
そんなことせずに自分を甘やかしたって、誰も咎めません。
それでもあえて律するのは、そうして努力を積み重ねたという事実そのものが、何より自信につながり、気持ちも前向きになることを知っているからです。
もちろん人から美しいと言ってもらえるのは嬉しいことですが、そう思ってもらえるかはコントロールできないこと。
一方、自分で自分に美しいと言ってあげられるか、そのために努力できるかはコントロールできること。
ストイックに美を追求する人は、この辺りを身をもって実感しているのだと思うのです。
だからこそ自分のために努力している人を、周りが揶揄したり引き止めたりする権利はないと思うのです。
また、こういう文脈で「追い求める」のなら、筆者は実体や根拠のよく分からない「美の基準」ですら、効果的に機能すると考えます。
ぼんやりとでもスタンダードがあれば目指すものが分かって頑張れますし、もしくはそれを軸に自分にあった「美の基準」を相対的に見いだせたりするからです。
だから、必ずしも「美の基準」=悪いことではない。
当然、ひたむきに「美の基準」を追い求める人がいたっていい。
そういう人たちを時代遅れと揶揄していては、いつまでも本当の意味での多様性にはたどり着けません。
人の美の基準に茶々を入れない
誰でもない「自分のため」に美を追い求めるのであれば、同じように美を追い求めている「誰か」にあれこれ口出ししたり、首を突っ込むべきではありません。
自分の権利だけを主張して、周りの人にもそれを認めないのは不公平ですよね。
ただ、頭ではそう分かっても、これは意外と難しいことだったりします。
時代の風向きも相まって、誰かの外見に意見することは、場合によってはハラスメントと捉えられかねませんが、実は自分でも気づかないうちにやっているものです。
たとえば「あなたはこういう体型だから、こういう服のほうが似合う」とか「肌の色味的にこっちのアイシャドウのほうがいい」とか。
おそらく、その多くは「良かれと思って」口をついたことばでしょう。
もう一つ、個人的に例にあげたいのが、痩せ型の人に対することばです。
「ガリガリじゃない、もっとしっかり食べないと!」
「あなたは太るくらいがちょうどいい」
何を隠そう、筆者自身、これまでの人生で幾度となく言われてきたことばです。
そして、未だに肯定的に受け止められないことばでもあります。
自分のために美しさを求めることはいいことと言いましたが、求めたからといって全て手に入るかは別の話です。
筆者の場合、自分でももう少し肉付きが良いほうが美しく見えるし、そうなりたいと思っています。
けれど、体質的になかなか太れません。
でもそれを「太りたい」と口にすると、嫌味だとか贅沢な悩みだと叩かれ、かと思いきや、もっと食べないと不健康に見えるなんて言われるのです。なんともおかしな話ですよね。
「ボディポジティブ」とは、太っていても痩せていてもいい、そういう概念のはずです。
ですが「プラスサイズ」ということばが広まった一方で、その対義語と思われることばはあまり聞きません。
太っている人をみて、何かことば飲み込むよう意識する人は増えたかもしれませんが、痩せている人に対しても同じことをする人はどのくらいいるのでしょうか。
「太ったね、痩せなよ」というのはハラスメントと言われかねませんが、「痩せすぎだよ、ちゃんと食べてる?」というのもハラスメントと言われるとピンとこない人が多いのではないでしょうか。
ただ、かく言う筆者も、無意識に人の「美しさ」に関して口出しをしてしまうことがあります。
あろうことか、自分と同じように瘦せている人に対して、一番嫌う「もっと食べて!」という声をかけることすらあります。
それくらい人は、知らないうちに誰かの「美の基準」に茶々を入れていることがあるのではないでしょうか。
私たちは、自分のことには口を出されたくないくせに、他人のことには口を出したがる。
このことに意識的であるべきだと思うのです。
では外見に関することは、今後一切口にすべきではないのかというと、そういうわけではありません。
純粋に褒めたいときだってありますし、似合うと思うものをフラットに提案したいときだってあります。
実際、それが本人の自信に繋がったり、気づいていない魅力を引き出したり、プラスの面だって当然たくさんあります。
ただ、相手がそのことばをどんな形で受け取りそうか。
ことばを発する前に、それを想像する必要があります。
「美の基準」は、国や地域、時代によってだけではなく、私たち個々によっても異なります。
褒めたつもりが嫌味に捉えられたり、良かれと思っての提案が逆に自信を削いだりすることは、往々にして起こることです。
「相手のため」が必ずしも正しいとは限らないことを、忘れたくないものです。
まとめ
こうして二歩も三歩も引いて見てみると、私たちが振り回されがちな「美の基準」とは、他でもない「私たち」が作り上げているということがよく分かります。
だとしたら、そのしがらみから解放されるためには、やはり私たち自身が少しずつ変わるしかありません。
ただ、ありのままの自分を受け入れるのも、自分のなかに軸を持つのも、人の考えに口を出さないのも、全て聞こえはいいですが決して今すぐ簡単にできることではありません。
いろんな価値観に触れながら、たくさんもがきながら、ときに誰かと本音をこぼし合いながら、少しずつ変わっていけたら十分なのではないでしょうか。
ライター:プロフィール
とにかく「言語化」することを軸に、
心や頭に浮かぶ漠然とした不安やモヤモヤも「言語化」