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思い描く道へ。自分のチカラで切り拓く人生を【女優 中西悠綺のIt’s My Story】

世界で活躍する女優を夢見て、中国に渡った中西悠綺さん。現地の演劇大学に入学するも、何のつてもなく、映画の制作会社を一人でまわってチャンスを探す日々ーー。そんな中西さんの情熱が伝わったのか、中国での初仕事が映画の主演! しかも日本人女優が中国映画で主演を務めるのは前例のない快挙です。女優を目指すきっかけや、なぜ世界のなかで中国を選んだのか。これまでのキャリアと今後の展望を聞きました。

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アイドル戦国時代。センター兼メインボーカルとして活躍

芸能界でのスタートはアイドル。AKB48の選抜総選挙が話題となった2010年。アイドルグループ「Tokyo Cheer2 Party」の一員としてデビュー。13歳から18歳までの5年間、センター兼メインボーカルを務めた中西さん。

でも実は、幼いころ夢見たのは女優でした。小学3年生から名古屋にあるタレント養成所に通い、芝居や歌のレッスンを受けてきたというベースがあります。

「幼稚園くらいだったと思います。テレビを観ていたら、ついこの間、亡くなったと思っていた人が笑顔で話しをしているんです。え? 生きてたの!?とびっくりしてしまって。亡くなったのはドラマのなかのことで、この人は女優さんなんだよと母に教わりました。

そのときに、いろいろな人生を経験できる仕事って素敵だなと思い、将来は女優になりたいと思ったんです。その思いはずっと消えることがなく、私から両親にお願いをして名古屋のタレント養成所に通いはじめました。毎週末、三重の鈴鹿市から名古屋まで通っていました」

養成所に通いながら、オーディションに挑戦。13歳でチャレンジしたアイドルグループのオーディションで、見事合格。オーディションの主催社に、俳優が所属する事務所の名前があったため、女優になるきっかけになるかも・・・というのが動機でした。まずは、女優ではなくアイドルとして、芸能界への第一歩を踏み出すことに。

「ありがたいことに、グループ結成時から卒業するまでセンターとしてメインボーカルを務めました。当時は学生だったので、地元の三重で授業を受け、新幹線に乗って東京に通う毎日。13歳から18歳までの5年間、そんな多忙に日々が続き、青春のすべてを捧げたかんじです」

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Tokyo Cheer2 Party(トーキョーチアチアパーティー)でアイドルしていた時代の1カット。

当時はまさにアイドル戦国時代。数々のアイドルグループがしのぎを削っていました。アイドルが集まるイベントに出演しても、中西さんのグループはテレビで名前を取り上げられることもなく、厳しい現実を知ることに。

「デビューすれば有名になれると思っていたんですよね。でも、そんな甘い世界ではないということを痛感しました。一生懸命努力しても、それが報われるとは限らない世界で、悔しい思いもたくさんしました。センターなので、私がもっと頑張らないといけない、そんな責任とプレッシャーを感じながら闘っていました」

三重と東京の往復。帰りの新幹線の席に座ると、涙があふれてくる日も多かったのだとか。ライブを観に来てくれるファンも徐々に増え、感謝の気持ちでいっぱいだったけれど、「有名になりたい、テレビに出たい」という理想とはかけ離れた状況。

「現実と夢とのギャップが大きすぎて、辞めたいと思うこともありました。でも、結果を残すまでやりきりたい、ここで辞めて後悔はしたくないと、自分を奮い立たせていました」

辞めたいと思ったとき、中西さんの背中を押してくれたのは「どんなことも人生の通過点でしかないよ」という母からの言葉。今、一生懸命頑張っていることも、悔しいこともつらいことも、未来から振り返ったならば「そんなこともあったな」という通過点でしかない。そう思ったら気持ちが楽になったそう。

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アクションを身に着けるために香港へ。すべて自身で調べて、実行する。

女優として世界で羽ばたきたい。単身で中国へ

アイドル活動を続けながら、映画『柳生十兵衛~世直し旅~』、舞台『おかあちゃん~コシノアヤコ物語~』などに出演。

「歌ったり踊ったりすることも好きなので、アイドル活動も楽しかったけれど、女優になる夢は諦めていませんでした。当時の所属事務所には『お芝居をしたい』と事あるごとに伝えていたので、いくつかのチャンスをいただけたことは本当にうれしかったですね」

高校卒業後に「やりきった」とアイドルグループを卒業。本格的に女優への道を目指して動き始めることに。そんな彼女が向かった先はーー台湾。

「アイドルグループとして全力で活動し、その時点では、日本ではやりきったという思いがあったんです。ここからは海外で・・・、海外というと漠然としていますが、まずはアジアで活躍したい、そのなかでも中国を目指そうと決めました。調べるなかで、中国で活躍している日本人女優が少ないと知って、誰も成し遂げていないことをやりたいと。自分なりの戦略を立てました」

思い立ったらすぐに行動するタイプ。知っている中国語は「ニーハオ」と「シェイシェイ」だけというレベルだったので、まずは中国語を学ぶために台湾へ渡ります。朝から晩まで授業を詰め込み、日本人の友だちをつくらず、中国語漬けの日々。

「とにかく一刻も早く語学を習得したかったので、猛勉強しました。3ヵ月ほどで日常会話ができる程度になりました。語学が何とかなったときに、そうだ、中国で活躍するにはアクションができたほうがいいと気付き、香港へ。ワイヤーアクションや剣術、カンフーなど1日9時間、4ヵ月ほどみっちり学びました。自分で先生を見つけて、マンツーマンで指導を受けました。毎日、筋肉痛で大変でした(笑)」

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計画的のようで無計画。語学を学んだあとのことは、特に考えていなかったそう。アクションを学んでから、今度は演劇大学に入るため北京へ。この進路も、香港で決断。

「香港でアクションを習得するなかで、中国で俳優として活躍するには演劇の大学を卒業していないと難しいと知ったんです。“そうか、じゃあ行かなくては!”と、北京にある中央戯劇学院を受験しました。ここは中国で有名な俳優チャン・ツィイさんやコン・リーさんの出身大学なんです。試験はもちろんすべて中国語でしたが、無事に合格。同期では私が唯一の日本人でした」

思い立ったら即行動。バイタリティあふれる中西さんでしたが、北京での生活は孤独との闘いだったそう。

「早く結果を出したい気持ちが強くて、自分を追い込んでいました。台湾で語学を学んでいたときもそうですが、友だちをつくるよりも勉強、勉強!! 中国語がわかるようになったといっても、先生の話すスピードが速いと聞き取るのがやっと。専門用語はわからないので、授業後に質問してようやく理解できる。脇目も振らず、勉強一筋。そんな毎日でしたね」

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授業後には、自分で作成したプロフィールを手に、映像関係の制作会社巡りをスタート。中国映画のエンドロールをチェックし、制作会社を一覧表にして一つひとつまわっていきました。その数70社。アポなしの突撃訪問で、門前払いされることもしばしば。

「覚悟のうえで挑戦していましたが、やはりなかなかうまくはいきません。日本に帰りたいと思うこともあったけれど、何も結果を残さずに帰れないと、必死でした」

アイドル時代と同じく、中西さんを支えていたのは家族の存在でした。毎日のように家族とテレビ電話で会話をすることでパワーをもらっていたそう。

「母からの手紙も私のお守り。“もし、心が折れることがあったらいつでも帰っておいで。悠綺が有名になれなくても世界で一番愛しているから”と書いてあって。日本に帰りたいと思ったときは、この手紙を読み返して『まだ、やれる』と気持ちを高めることができたのです」

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突然のチャンス到来。中国で主演女優に抜擢

70社も制作会社をまわるも手応えはなし。大学卒業後のことは白紙状態でしたが、奇跡が舞い降りてきます。

「母が仕事で中国を訪れた際に、お世話になった通訳の方に娘が中国で女優を目指して頑張っているという話をしたら、自作のプロフィールをいろいろな制作会社に送ってくれたんです。その通訳の方は芸能関係の方ではなかったのに。そのなかの1社が、今まさに日本人女優を探しているということで、急遽、オーディションを受けることができました」

中国映画で、日本人役で主演をーー。合格の報せを受けたのは大学卒業後、北京から日本に帰国したばかりのタイミングでした。「3日後にはクランクインするので四川省に来て欲しい」という連絡で、中国にとんぼ返り。

「現地入りしたら盛大なセレモニーが開かれて、ようやく本当なんだと実感しました。それまでは、もしかしたらドッキリかも・・・と思っていましたから(笑)。日本人の女子大生役でしたが、もちろんセリフは全編中国語。発音だけでなく、役として感情をのせないといけない。撮影が終わったらホテルに戻り、全力で集中して台本に向き合いました」


その主演映画『ワンダフル旅行社』は中国では未公開ですが、2022年4月に第14回沖縄国際映画祭で特別招待作品として上映されました。

「誰も成しえていないことができたこともそうですが、それ以上に、中国での主演作が日本で上映されたことがとてもうれしくて。ファンの方だけでなく観てくれた方から『いい映画だね』とメッセージをたくさんいただけたことも励みになりました」

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沖縄国際映画祭にて。レッドカーペットを歩き、たくさんの取材を受けました。

コロナで帰国。日本での新たな活動がはじまる

主演映画に続き、中国で次の作品も決まった矢先に、新型コロナウイルス感染症のパンデミックに。やむを得ず中国での活動は一旦休止状態になり、帰国。そんななか、さらに殻を破るように日本で新たな挑戦に臨みました。『週刊ヤングジャンプ』の「ギャルコン2021」に参加し、グランプリを獲得。グラビアデビューを果たします。

「グラビアをやろうとは考えていなかったのですが、7年ぶりに開催されると知って。何事も挑戦、やってみようと思ったんです。これも直感でしょうか。あくまでも自分の軸は女優ですが、一つの経験としてやってみてよかったと思っています」

日本での活動も少しずつ広がりをみせ、7月スタートのドラマにも出演。今後は、日本をベースに海外でも活躍できる女優を目指す、というのが中西さんの現在のプラン。

「アジアで有名になることは変わらずの目標です。さらにいつかはハリウッドでも活躍したいという気持ちも芽生えています。そのために中国語と英語のレッスンは毎日続けていて。どこの国かは関係なく、誰かを励ましたり、落ち込んだ気持ちを奮い立たせたり、人の心に寄り添える作品に携わりたい。私も心が折れそうになったとき、たくさんの映画やドラマ、歌に救われました。インド映画『きっと、うまくいく』は、10代でアイドルをしていたときに何度も何度も観て励まされた作品。とっても前向きな気持ちになれるんです。誰かの心に響くような、記憶に残るような、そんな芝居を目指したいです」


悠綺という名前には「勇敢に勇気をもって人生を生き抜けるように」という両親の思いが込められているそう。自分の信念を軸に突き進んで行く中西さんの姿は、その名どおりの勇気に支えられ、人生を切り拓くチカラに満ちています。演技にも人生にも正解はないーー迷ったときは自分が楽しいと思えること、心がわくわくして、納得できるほうを選ぶという彼女。台湾、香港、北京での生活、四川省での撮影を通じてつかんだ、「自分で納得して、全力でやることが大切」という答え。自分らしい幸せの基準をつくり、失敗を恐れず進んでいく。そんな彼女が、日本のみならず、アジア、そして世界へと羽ばたく日が楽しみです。

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Profile
中西悠綺(なかにしゆうき)
1997年2月25日生まれ、三重県出身。2010年アイドルグループ「Tokyo Cheer2 Party」のメンバーとしてデビュー。アイドル活動と並行して女優として舞台や映画に出演。2015年にグループを卒業。20歳のとき、中華圏で女優として活動するための第一歩として台湾へ語学留学。さらに武術を学ぶために香港に渡り、その後、北京の国立演劇大学中央戯劇学院に入学。2019年中国映画『ワンダフル旅行社』の主演に抜擢される。2021年「ヤングジャンプ ギャルコン2021」でグランプリを獲得。映画『僕が君の耳になる』『ある家族』に出演し、日本でも活躍の場を広げている。現在、ドラマ『あなたはだんだん欲しくなる』(BS-TBS/毎週木曜23:00~)に、ヒロインの友人役で出演中。
https://www.yuukinakanishi.jp/
Instagram @nakanish_yuuki


PHOTO = 勝吉祐介(PEACE MONKEY)
TEXT = 岩淵美樹

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