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【映画レビュー】Minari | ミナリとアメリカン・ドリーム

Written by
條川純 (じょうかわ じゅん)

 

男であるとはどういうことか?

 

これは何世代にもわたって問い続けられてきたテーマであり、今でも議論を呼ぶ問いです。

 

私の父は20代前半に日本からアメリカへと移住し、成功と富を夢見て「アメリカン・ドリーム」を追いかけました。母はそのすぐ後に父のもとへ渡り、ふたりは結婚して家庭を築き、数年後に私は生まれました。

 

『ミナリ』は、同じように夢を追ってカリフォルニアに移住し、その後アーカンソーの田舎に落ち着いた韓国人家族の物語です。

 

でも、それは誰の「アメリカン・ドリーム」だったのでしょう?

 

 

私にとってこの映画の核となったのは、むしろ静かに描かれる「男性の自尊心」、特に「一家の大黒柱であること」に対する男性の誇りでした。

 

 

初めてこの映画について聞いたとき、私は、白人が多数を占めるコミュニティに溶け込もうとする韓国人家族の苦悩が描かれているのだろうと思いました。実際にそうしたテーマもありますが、それは控えめに描かれています。

 

例えば、教会の女性が母親に「かわいいわね」と微笑んだり、子どもが「なんで顔が平らなの?」と無邪気に聞いたりと、文化的な違いから起きる緊張感を示すシーンはありますが、それが物語の中心ではありません。

 

私にとってこの映画の核となったのは、むしろ静かに描かれる「男性の自尊心」、特に「一家の大黒柱であること」に対する男性の誇りでした。

 

 

夢を追う夫と、現実に疲れた妻――崩れゆく家族のはじまり

 

物語は、イ家がアーカンソーの農地にある古びたトレーラーハウスに引っ越してくる場面から始まります。母親のモニカは、最初からこの新しい生活に満足していない様子がはっきりと伝わってきます。カリフォルニアに移住した当初、彼女が想像していたものとはまったく違う、何もない風景がそこには広がっていたからです。

 

モニカは、韓国人コミュニティのあるアーカンソーの都市部に引っ越すことをヤコブに提案します。そこなら、子どもの世話を頼める人や買い物ができるモール、そして何よりも病院があります。幼い息子デビッドには深刻な心臓の病気があり、必要な時にすぐに医者に診てもらえるかどうかは重要な問題です。

 

しかしヤコブは、50エーカーの農場を築くという自身の夢に固執し、モニカの不安を軽くあしらいます。「ここは誰もいないから子どもたちも大丈夫」と言うのですが、その言葉にはデビッドの健康状態への配慮が感じられません。

 

 

「10年間も鶏の性別を判別する仕事をしてきたんだ。もっと良い人生に挑戦する権利がある」

 

 

そんなふたりの対立が最悪となったのが、竜巻が接近した夜でした。トレーラーハウスの屋根から水が漏れ、窓はガタガタと揺れ、風が唸り声をあげ、電気は点いたり消えたり。穏やかな気候に慣れたカリフォルニア育ちの家族にとっては、恐ろしい体験でした。

 

モニカは、恐怖に震えるデビッドとアンを抱きしめます。一方ヤコブはニュースに釘付けになりながら、「避難命令じゃないから大丈夫」と冷静な態度を崩しません。その無関心にも思える態度に、モニカは怒りを爆発させ、ついに激しい言い争いが始まります。

 

彼女は、夫が自分たちのすべてを夢のために無謀に賭けたと非難します。一方でヤコブは、それは家族のためだと主張します。「10年間も鶏の性別を判別する仕事をしてきたんだ。もっと良い人生に挑戦する権利がある」と。そして彼は懇願するように言います。「新しいスタートをしようって言っただろ。これがそれなんだ。」

 

でも、疲れ果てたモニカにとって、これが“新しいスタート”とは思えません。彼女は重い気持ちを込めてこう返します。「あなたが求めたスタートがこれなら、私たちに未来はないかもしれない。

 

すでに綻びかけていたふたりの結婚生活は、静かに崩れ始めます。

 

 

 

 

母の静かな孤独と、私のゆれるルーツ

 

私はよく、母が初めてアメリカに来たとき、どんな気持ちだったのだろうと考えます。私たちの家族は感情についてあまり話すことがなかったので、真実を知ることはもうないかもしれません。でも想像はできます。言葉も通じず、知り合いも誰もいない場所に来て、どれほど孤独で、どれほどもどかしかったか。すべては夫のそばにいるための決断だったのです。

 

もしかすると、父が自分のビジネスを築こうとしていた頃、母も同じような口論を何度も繰り返していたのかもしれません。

 

 

私はアメリカ人なのか?それとも日本人なのか?いつも心のどこかで葛藤していました。

 

 

『ミナリ』を観ながら、私は自分の幼少期を何度も重ねていました。両親の言い争いが止まるのを願いながら部屋の外を覗いていたデビッドとアン。私もまた、耳を塞ぎながら、早く静かになってほしいと願っていた子どもでした。ただの子どもだったけれど、大人になることがこんなにも大変だと知っていたら、もう少し違うふうに受け止められたのかもしれません

 

時間が経つにつれて、映画の中のトレーラーハウスは徐々にモニカの色に染まっていきます。韓国の装飾品が増え、彼女の心がまだ韓国にあることを静かに物語ります。それは私自身の記憶とも重なりました。

 

私の実家も日本を思わせるものでいっぱいでした。アメリカで生まれ育ちながら、私は常にふたつの文化の間で揺れていました。母はいつも日本のルーツを大切にし、事やテレビ番組、日々の習慣を通して、私に“自分がどこから来たのか”を思い出させてくれました。でも家の外に出ると、そこはまったく異なる世界が広がっていて——私はアメリカ人なのか?それとも日本人なのか?いつも心のどこかで葛藤していました。

 

 

祖母の優しさとミナリの教え――静かに根を張る強さ

 

イ家の末っ子であるデビッドも、その葛藤を抱えていました。モニカの母親が韓国から来て子どもたちの世話をすることになったとき、彼は反発します。「あの人は本当のおばあちゃんじゃない」と言い、彼女の匂いについて文句を言います。

 

その“匂い”という言葉は、移民家庭で育った者にしか分からない感覚かもしれません。私も子どものころ、両親が日本から持ち帰ってきたお土産や、日本から親戚が遊びに来たとき、どこか違う匂いを感じていました。嫌な匂いではありません。でもその“違い”が、私が他のアメリカの友達とはちょっと違う場所から来たことを、静かに教えてくれていたのです。

 

映画の中で、モニカはたびたび子どもたちが“韓国人であること”を強調します。ある場面では、「あの子はそんな子じゃない、韓国の子よ」とデビッドを擁護します。一方で、祖母は冗談混じりに彼を「ばかなアメリカ人」と呼んだりします。

 

 

「ミナリはどこでも育つのよ。お金持ちでも貧しくても、誰でも食べられるし薬にもなる」

 

 

そのやり取りの中にも、私は母の姿を重ねずにはいられませんでした。母もまた、自分を形作ってきた文化に必死でしがみつきながら、私の中に自然に日本の伝統を織り込んでいたのかもしれません。言葉や食事、しきたりを通して、私が知らぬうちに、そして私が望んだかどうかに関わらず——“あなたは日本人なんだよ”と静かに伝えていたのだと思います

 

デビッドやアンと違って、私は祖母と近くで過ごした記憶がほとんどありません。祖母と一緒に過ごす彼らを見て、少しうらやましくなりました。映画の中での彼女の存在は、とても力強く、そして地に足のついたものでした。家族が「アメリカン・ドリーム」の形をめぐってぶつかり合い、迷い続ける中で、祖母は終始、自分らしさを失わずにそこにいました。

 

彼女は孫たちを育てるために、はるばる韓国からアメリカへやってきました。息子の夢を支えるために、文句ひとつ言わずに家事をこなし、拒絶の言葉をささやかれながらも、デビッドの隣で床に寝るのです。

 

年長者を敬う文化の中で育った私にとって、デビッドの態度は少しショッキングでした。どこか「アメリカ的」な反応のように見えました——個人主義的で、遠慮のない振る舞い。彼はついには、祖母にイタズラを仕掛け、ソーダだと偽って自分のおしっこを飲ませるという酷いことまでするのです。祖母が「山の飲み物」と愛おしそうに呼んでいたものなのに。

 

両親は当然怒りますが、それでも祖母はデビッドをかばいます。ストレスや野心に目が曇っていた大人たちとは対照的に、祖母は愛情と忍耐で彼を包み込みます。

 

そして、映画のタイトルにもなっている「ミナリ」を紹介するのも祖母です。家のそばの小川にデビッドを連れて行き、「ミナリはどこでも育つのよ。お金持ちでも貧しくても、誰でも食べられるし薬にもなる」と言います。

 

この言葉は心に残ります。もしかしたら、祖母が伝えたかったのは、「しなやかさ」や「たくましさ」は必ずしも犠牲や苦しみから生まれるものではない、ということだったのかもしれません。本当に価値のあるものは、静かに、あまり多くを求めずに育つのです。

 

 

 

 

「役に立つ男」であろうとした父と、その背中に重ねた記憶

 

映画の序盤で、ヤコブは息子に雄のヒヨコが捨てられる理由を説明します。「卵を産まないし、肉も美味しくないからね」と。そしてこう続けます。「だから男は役に立たなきゃいけないんだ。」

 

この一言に、ヤコブの“男であること”への信念が凝縮されています。彼にとって「役に立つこと」は「生き残ること」と同義であり、自分の価値は、家族を養い、成功し、踏ん張り続けることによって証明されるのです——たとえ自分をすり減らしてでも。

 

 

きっと犠牲も後悔もあったでしょう。それでも、何よりもそこには“勇気”があった。それが私の心に残っているものです。

 

 

映画の中で、ヤコブは夢の農場にすべてのエネルギーを注ぎ込みます。彼が交流するのはほとんど息子のデビッドだけで、娘のアンにはほとんど目を向けません。モニカと同じように、彼女も脇に追いやられているのです。物語の中心にあるのは、ヤコブの執拗な成功への執着。その姿は痛々しいほどに必死で、見ていて辛くなるほどです。

 

水が確保できず、野菜を売ることもできない。それでも彼は諦めない。なぜなら、彼にとっての失敗」はすなわち「価値がない」ということ。つまり、ヒヨコのように「捨てられる存在」になってしまうのです。

 

ヤコブを見ていて、私は父の姿を思い出しました。

 

アメリカで最初に始めたビジネスは成功しましたが、二度目の挑戦は失敗に終わりました。両親は詳細を語ることはありませんでしたが、私はある程度、察していました。父は最初のビジネスを手放し、すべてを畳み、日本に帰ることになったのです。

 

その出来事が彼らにどれほどの影を落としたのか——それは言葉ではなく、顔に刻まれた深いしわや、目の下のクマが物語っていました。

 

それでも私は、父を「失敗した人」とは思いませんでした。むしろ、今でもずっと誇りに思っています。異国の地で、ゼロからビジネスを始め、未来に賭けるなんて、誰にでもできることではありません。

 

きっと犠牲も後悔もあったでしょう。それでも、何よりもそこには“勇気”があった。それが私の心に残っているものです。

 

 

夢を追う代償と、信じる心の終わり

 

物語が終盤に差し掛かる頃、祖母が脳卒中に倒れます。この出来事がモニカにとっての転機となり、彼女はついに、母と息子がより良い医療を受けられるようカリフォルニアへ戻る決心をします。

 

しかし、真に決定的な一撃はその後にやってきます。息子が入院している病院で、ヤコブが現れますが、心配そうな様子ではなく、市場で売るための野菜の入った木箱を抱えていました。モニカは呆然としながら彼を見つめます。この町への訪問は農場のためではなく、息子のためだと、彼女ははっきりと伝えていたのです。

 

 

成功を目指すことに罪はありません。誰だって安定した暮らしを望みます。でも、問いかけるべきなのは、「どこまでそれを追いかける覚悟があるか」、そして「そのために、どれだけの手を離してしまうのか」です。

 

 

モニカが彼にカリフォルニアへ一緒に戻るよう訴えると、ヤコブは拒みます。「たとえ失敗しても、始めたことはやり遂げなきゃいけない」と彼は言います。

 

その瞬間、モニカは痛切な現実を悟ります——ヤコブは家族よりも夢を選んだのです。家族と離れるリスクを冒してまで、自分の夢を追いかけることを選んだ。これまで静かに続いていたすれ違いが、激しい言葉の応酬へと変わります。そして、モニカはこう言い放ちます——まるで最後のとどめのように。「もうあなたを信じられない。

 

私はこれまでヤコブに対して厳しい目を向けてきましたが、それでも彼の気持ちがわかります。

 

長男として韓国を離れ、アメリカという異国で生活を始めたものの、喜びのない仕事——鶏の雌雄を見分ける職業に縛られ、彼は息が詰まるような日々を過ごしていたのでしょう。彼は家族のために、そして何より自分自身のために、もっと意義のある人生を求めていたのです。自分には価値がある、自分の人生には意味がある——そう証明したかった。

 

成功を目指すことに罪はありません。誰だって安定した暮らしを望みます。でも、問いかけるべきなのは、「どこまでそれを追いかける覚悟があるか」、そして「そのために、どれだけの手を離してしまうのか」です。

 

きっと母も、どこかで同じような悲しみを感じたことがあったのでしょう。それでも彼女は、そこに留まりました。理由はわからないけれど——でも、それもまた、ひとつの強さだったのかもしれません。

 

 

 

 

燃え尽きた夢のあとに残ったもの——静かに寄り添う家族の強さ

 

映画が感情的な頂点を迎える中で、回復途中の祖母は、何かの役に立ちたいという一心で動き、結果的に収穫した野菜を保管していた小屋に火をつけてしまいます。体は弱っていても、家族の夢を支えたいという気持ちは消えていなかったのです。

 

悲しみと混乱の中でも、祖母は“しなやかな強さ”の象徴として描かれます。どんなに厳しい状況でも、希望は残る——彼女はそれを体現する存在でした。

 

この火事は、物理的にも象徴的にも、彼らの限界を超えるものでした。蓄えた食料とともに、彼らが積み重ねてきた夢までもが燃え尽きてしまった。ヤコブとモニカは呆然と立ち尽くし、祖母は罪悪感を背負ったままその場を去ります。

 

 

男性のプライド——とても脆く、それでいてとても大きなもの——は、忍耐強く、安定していて、そして優しさを持ったパートナーに支えられてこそ、形を持って育っていけるのです。

 

 

けれど、その破壊の中から、静かで優しい何かが生まれ始めます。それは、言葉ではなく、共有された痛みと、優しさと、理解から生まれた“赦し”でした。

 

そして物語は、特に説明もなく、イ家が再びアーカンソーでの生活に挑んでいる姿を映し出します。依然として同じ土地に住んでいる。劇的な和解の場面も、明確な決断の描写もないまま。

 

モニカはヤコブにもう一度チャンスを与えたのか?すべてを受け入れて、この地に留まることを選んだのか?それとも、不完全なままでも“家族であること”を選んだのか?

 

映画はその答えを示しません。意図的にそうしたのかもしれません。でも私は、心のどこかで結末を求めていました。傷口を縫い合わせるようなシーンが見たかった

 

たぶんその感情は、自分の家族の経験に重なるものだったのだと思います。父のビジネスが失敗した後、両親がどうやって立ち直ったのか——その「転機」を私は見たことがありません。ただ、ふたりが何事もなかったかのように静かに一緒にいた。それだけでした。

 

真実はこうです。男性のプライド——とても脆く、それでいてとても大きなもの——は、忍耐強く、安定していて、そして優しさを持ったパートナーに支えられてこそ、形を持って育っていけるのです。無理に引っ張るのではなく、静かに導くような存在。

 

そして、ようやく彼がすべてを理解したときに見えるのは、何よりも大切なもの——静かに寄り添い続けてくれた家族の姿です。

 

ライター:プロフィール

インタビュー:條川純 (じょうかわじゅん)

日米両国で育った條川純は、インタビューでも独特の視点を披露する。彼女のモットーは、ハミングを通して、自分自身と他者への優しさと共感を広めること。


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