おもちゃがつくる美の基準、人種的アイデンティティ、そして子どもの頃に「自分を見る」ことが一生に与える影響

鏡に映る自分を見て、理由ははっきりしないけれど、どこか居心地の悪さを感じたことはありませんか。
女性であれば、その感覚に覚えがある人も多いかもしれません。
では、その違和感を「肌の色」や「生まれ持った人種」が理由で感じたことはありますか。
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日本のように比較的均質な社会では、想像しにくい経験かもしれません。けれど「人種のるつぼ」と呼ばれるアメリカでは、人種は否応なくアイデンティティの一部になります。望むかどうかに関わらず、常に意識させられるものです。それは、自分自身をどう見るか、他人からどう見られるか、日常の中でどれだけ安心して存在できるかにまで影響します。
この視点は、身近に感じられないかもしれません。それでもどうか、評価や判断のためではなく、「聴く」つもりで読み進めてみてください。自分の住む場所でありながら、どこか少しだけ世界とズレて浮いているような感覚——その意味に、そっと寄り添ってみてほしいのです。
Contents
「人形」が映し出す、見えなかった現実
Netflixのドキュメンタリー『ブラック・バービー』は、このテーマをとても身近な存在——一体の「人形」を通して描いています。
アメリカでは、何世代にもわたって黒人の人々が「見られること」「価値を認められること」「尊厳をもって扱われること」を求めて闘ってきました。その経験は非常に深く、複雑で、私が代弁できるものではありません。私は黒人としてアメリカに生きているわけではないからです。
それでも、「自分の見た目が、世界が決めた“美”の基準に当てはまらない」と気づいたときの、静かな痛みなら、少しはわかる気がします。
『ブラック・バービー』の中心にあるのは、黒人女性たちの物語です。評価されることなく、それでも前に進み続け、次の世代の黒人の女の子たちが、自分自身を誇りをもって映し出せる未来をつくってきた女性たちの物語。そこには、道がなかった場所に道をつくる、という営みがあります。
“子どものおもちゃである人形が長らく白人像に偏ってきたことで、多様な背景を持つ子どもたちが「普通」や「美しさ」の基準から排除され、自分は平均ではないという無言のメッセージを刷り込まれてきた問題を指摘しています。”
人形が子供のおもちゃとして家庭に普及し始めた頃、選択肢はほぼ一つしかありませんでした。長い金髪に青い目の女の子です。長いあいだ、濃い肌の色をした人形は、そもそも存在しなかったり、意図的に排除されてきました。その結果、あらゆる背景を持つ子どもたちが、「これが普通」「これが愛される姿」「これが美しい」という、ひとつの価値観だけを吸収して育ってきたのです。
「存在しない」ということは、確実に心に跡を残します。自分に似た存在を一度も目にしないまま育つと、そのメッセージはとても静かですが、執拗です。
——あなたは“平均の姿”ではない。

その感覚は、時間をかけて、子どもの時のあなたの自分の価値の捉え方に影響を与えます。
この現象は、精神科医ケネス・クラーク博士の有名な研究にも表れています。博士は黒人の子どもたちに、白い人形と茶色い人形を見せ、どちらを好むかを尋ねました。多くの子どもが白い人形を選び、「良い」「きれい」といった肯定的な言葉を結びつけ、茶色い人形には否定的なイメージを与えました。これは「人種的拒絶」と呼ばれています。
子どもたちが反応していたのは、自分自身ではなく、すでに学んでしまった「世界の読み方」でした。まだ幼い年齢で、多くの黒人の女の子は、「自分は美しい存在として見られるものではない」という考えを、知らず知らずのうちに吸収していたのです。
だからこそ、表現は重要なのです。
大きな声で、派手にではなく。
静かに、継続的に、丁寧に。
人生のいちばん最初の瞬間から。
見えなかった私たちが、見える存在になるまで
映画の中で、監督・脚本のラゲリア・デイヴィスは、繰り返しひとつの問いに立ち返ります。
——なぜ、こんなにも小さく、取るに足らないように見えるプラスチックの人形が、子どもたちの自己認識に大きな影響を与えるのか。
私自身も、同じ問いを抱きました。私たちは、人形を「力のある存在」だとは思っていません。でもこの物語の本質は、表現が、気づかぬうちにいかに私たちの中に入り込むか、ということなのです。
デイヴィスと同じように、私も子どもの頃、人形遊びに強い関心はありませんでした。バービーは何体か持っていましたが、大切にしていたわけではありません。遊ぶときは髪を切ったり、マニキュアで体を塗ったりして、どちらかというと「自分を映す存在」ではなく、単なる物として扱っていました。愛着はなかったのです。
けれど、映画に登場する女性たちにとって、バービーはただのおもちゃではありませんでした。それは幼少期の文化的な存在であり、自分自身や未来を想像する手がかりでした。だからこそ、初めて黒人のバービーを目にした瞬間、それは単なる嬉しさではなく、感情が溢れる体験だったのです。
——「やっと、見てもらえた」。
“アジア系アメリカ人として育つ中で、メディアに自分に似た存在や多様な役割がほとんど描かれず、その欠如を疑うこともなく「白人が中心」という価値観を無意識に内面化し、やがて自分自身を肯定しきれない静かな傷を抱えるようになった経験を語っています。”
その感覚——認識されること、安堵すること——は、私自身にもよくわかります。
アジア系アメリカ人として育った私は、テレビや映画で自分に似た女の子を見ることがほとんどありませんでした。たまに登場しても、役柄は限られていました。武道家、着物やチャイナドレスを着た女性、静かで頭のいい「オタク」的な脇役。そこに「私」はいませんでした。
子どもの頃は、人種的アイデンティティや表現の欠如がもたらす影響を言葉で理解することはできません。ただ、目の前の映像をそのまま現実として受け取ります。私は「なぜアジア系の女の子が画面にいないのか」を疑いませんでした。「画面にいるべきなのは白人なのだ」と、無意識に受け入れていたのです。
その静かな認識は、やがて内側に向かいます。鏡を見たとき、外の世界に映し返される自分が見つからないと、心のどこかにひびが入ります。
違和感は憧れに変わり、憧れは比較に変わり、比較はやがて、自分自身への嫌悪に変わっていきます。映画の中で多くの女性が、「黒さ」が“売れない”“好まれない”ものとして扱われてきたことへの苦しさを語っています。私もまた、違う形で同じ思いを抱いていました。
目はもっと大きければよかった。
髪はもっとツヤがあって、
瞳の色はもっと明るければよかった。
丸い鼻も、平たい顔も嫌いでした。
「誰か別の人」になりたかった。

だからこそ、すべての子どもに向けた人形が必要なのです。
自分を映す存在を見ることは、こう語りかけてくれます。
あなたはここにいていい。
捨てられる存在ではない。
例外ではない。
自分の特徴が「浮いた存在」ではなく、ただ他の誰かと並んで存在するものになったとき、心の中で何かがほどけていきます。そして自然と、静かに理解するのです。
——私も、美しい。
ブラック・バービー誕生の裏側にいた人
この映画をラゲリアが制作しようと思った理由のひとつには、彼女の叔母であるビューラ・メイ・ミッチェルの存在があります。ビューラは、バービーを生み出した会社・マテル社で働いた初めての黒人社員でした。
ビューラが育ったのは、アメリカの公民権運動のまっただ中。人種隔離が日常のあらゆる場面に影を落としていた時代です。映画の中で彼女は、「黒人の人形で遊ぶ」という発想自体が頭に浮かばなかったと語ります。欲しくなかったからではなく、選択肢として存在していなかったからです。
やがてビューラは、バービーの生みの親であるルース・ハンドラーと仕事を共にするようになり、二人は友情を築いていきます。その関係性の中で、少しずつ、しかし確実に、ある問いが浮かび上がってきました。
——黒人の人形をつくる、ということはどういう意味を持つのか。
当時、その問いを口にすること自体が革新的でした。会話が始まったという事実そのものが、マテル社の中でビューラが持っていた静かな影響力を物語っています。
1960年代、マテル社は初めての黒人の人形「クリスティ」を発表します。しかし彼女はバービーではありませんでした。バービーの“親友”という位置づけです。確かに前進ではありましたが、その歩みは限定的でした。実際に「黒人のバービー」が誕生するまでには、さらに20年の歳月が必要でした。
見られることの責任、開かれる扉
例外として存在するということは、
常に「他よりも抜きんでていること」を求められるということでもあります。
映画には、さまざまな分野で活躍する黒人女性たちが登場します。アーティスト、アスリート、クリエイター——その多くが、それぞれの分野で「初めて成功した黒人女性」でした。その肩書きは誇らしい一方で、重くのしかかるものでもあります。
「最初の一人」であることは、失敗が許されないというプレッシャーと隣り合わせです。ひとつの間違いが、自分個人ではなく、「後に続くすべての人」を代表してしまうかもしれない。白人でない多くの人にとって、失敗していいという余裕はほとんどありません。
それでも、映画に登場する女性たちはその責任から目を背けません。なぜなら、その重みがどれほど重要かを知っているからです。

「黒い身体で、あの舞台に立つこと自体がプロテストなんです。
自分を含んでいない歴史、
自分のためにつくられていない場所の一部として、そこに立つこと」
そう語るのは、アメリカン・バレエ・シアターで黒人女性として初めてプリンシパル・ダンサーとなったミスティ・コープランドです。彼女は、自分の存在と成功が、次の世代の黒人バレエダンサーたちへの「メッセージ」になることを知っています。
——ここに、あなたの居場所はある。
舞台の上でミスティが成し遂げたことを、ビューラは何十年も前に舞台裏で成し遂げていました。マテル社に自分の居場所を築いたことで、彼女は他の黒人クリエイターたちへの扉を開いたのです。
その後に続いたのが、マテル社初の黒人デザイナー、キティ・ブラック・パーキンスでした。キティは、初めて「本当の意味での黒人バービー」を生み出します。クリスティが単に肌の色を変えただけの存在だったのに対し、キティは顔立ちや表情にまで心を配り、黒人女性をきちんと映し出した人形を実現させました。
それは、名前だけの実現ではありませんでした。
配慮とリスペクトを伴った表現でした。
そしてこの物語が何度も立ち返るのは、
そこにいることと、本当に見られていることの違いです。
進んだ時間と、動かなかった針
年月を経て、ブラック・バービーは何度もアップデートされてきました。それでも、問いは残ります。ビューラがマテル社に入社したあの頃から、私たちの認識は本当に変わったのでしょうか。
その問いを探るために、ラゲリアは14歳の姪・ケイデンをカメラの前に招き、率直な質問を投げかけます。
——ブラック・バービーが主役の単独映画は、実現すると思う?
ケイデンは、少し気まずそうに笑ってから、正直に答えます。
「難しいと思う。だって、私たちは“白人が多数派の世界”に生きているから」
隣に座っていた母親は言葉を失い、静かにこう漏らします。
——娘がこんなふうに感じていたなんて、知らなかった。
この瞬間が示しているのは、時間は何キロメートルも進んだのに、進歩の針はほんの一センチしか動いていないという現実です。
“多様な人形を用いた実験から、現代の子どもたちは美しさを単純に人種で判断しない一方で、見た目によって扱われ方が変わる現実や人種差別をすでに理解しており、本来無邪気でいられるはずの年齢から、不平等な世界で生き抜くための「気をつけ方」を学んでいることが示されています。”
映画の中では、アミラ・サーフィア博士が、ケネス・クラーク博士の研究に着想を得た実験を行います。さまざまな人種的な背景を持つ子どもたちに、多様なバービー人形を見せ、同じような質問を投げかけました。そこで浮かび上がったのは、希望と同時に、見過ごせない現実でした。
現代の子どもたちは、「美しさ」を人種そのもので判断しているわけではありません。彼らは髪型や服、靴といった要素に目を向けます。その一方で、「人種差別」という概念は理解しています。文化や民族、宗教の違いを感じ取り、そして何より、「見た目によって扱われ方が変わる」という事実を知っているのです。
本来なら、ただ子どもでいられるはずの年齢で、多くの子どもたちはすでに「気をつけなければならない世界」を学び始めています。言葉にされないルールを読み取りながら、生き方を調整することを覚えていく。
それは、安全や居場所、受け入れられるかどうかが、決して平等ではない世界で生きるための術でもあります。
だからこそ、私たちがまだ取り組むべき仕事は残っています。
それは、より多くの人形をつくること、より多くのバリエーションを用意することだけではありません。
子どもたちが、こんなにも早く「身を守る方法」を学ばなくていい世界をつくることなのです。
次の世代へ映し返すもの
進歩には時間がかかります。
飛び越えたり、駆け抜けたりはできません。
一歩ずつ、ゆっくり進み、ときには前に進んでいると思った矢先に、後戻りすることもあります。
それでも、歩みを止める理由にはなりません。
マテル社のダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン部門責任者であるメイソン・ウィリアムズは、こう語ります。
「自分が“なれる存在”を、見たことがなければ、人はそれを想像できない」
マテルは、世代を超えてアメリカの文化に深く根づいてきた存在です。一見すると小さな存在——一体の人形——であっても、家庭の日常の中に入り込むからこそ、長く、深い影響を残します。
おもちゃは、子どもにとって世界への最初の窓です。だからこそ、マテルのような企業には、「何を映しだすのか」を意識的に選ぶ責任があります。

アメリカでは、人種や差別といった重たいテーマを企業が扱うことに、必ず反発があります。それでも、このメッセージを発信し続けることには意味があります。それは、これまで語られてこなかった経験が、「存在していいもの」として認められるということだからです。
こうした機会がなければ、多くの人は、有色人種が日々背負っている積み重なる痛みに触れることすらありません。
私たちは同情を求めているのではありません。
理解されること、そしてつながることを求めているのです。
ブラック・バービーが残した本当の意味
映画の終盤、マテル社でインクルーシビティの土台を築いてきた黒人女性たちが、並んで座り、昔を懐かしそうに語り合う場面があります。その姿を見ていると、彼女たち自身が、彼女たちの手で生み出されたブラック・バービーと重なって見えてきます。
ある人にとって、バービーはただのおもちゃかもしれません。
けれど多くの女性にとって、バービーは美しさ、知性、自信、そして可能性の象徴でした。
それらは、この映画に登場する女性たちが体現してきた資質であり、また、日々社会の中で居場所を切り拓いているすべての有色人種の女性たちが持つものでもあります。
私たちは、人種だけで定義される存在ではありません。
私たちは多層的で、複雑で、完全に人間的な存在です。
もし、肌の色や背景によって扱いが変わるかどうかを考えたことがないなら、あなたは「人格そのもの」で判断される世界を知っているということです。その当たり前の公平さ——ありのままの自分として見られること——それこそが、これらの女性たちが目指してきた未来でした。
そしてそれは、次の世代に手渡したいと願った世界でもあるのです。
公式サイト:https://www.blackbarbiefilm.com/
トレーラー:https://youtu.be/T0nwa0sLrhc?si=5ukpjCySEoaFnSvM

ライター:プロフィール

インタビュー:條川純 (じょうかわじゅん)
日米両国で育った條川純は、インタビューでも独特の視点を披露する。彼女のモットーは、ハミングを通して、自分自身と他者への優しさと共感を広めること。