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自分へのご褒美は「頑張ったから」じゃなくて「ここまで来たから」でいい

Written by
花野みずき (はなの みずき)

 

 
大人になってから、「自分を褒める」という行為が、やたらと難しくなった気がします。

学生の頃から、「いやいや上には上がいるし…」と思いがちなタイプではあったんですけど、それでもまだ、勉強にしろ部活にしろ、自分なりに頑張ったことは「頑張った」と認められていたように思います。

 

でも社会人になってからというもの、「上には上がいる」という比較思考ばかりが強まって、反比例するように自分を認める気持ちはどんどん小さくなっていきました。
例えば、仕事では何か成し遂げたという分かりやすい実績があるわけでもないし、成果や出世を掴み取ろうとがむしゃらに働いてるわけでもない。
これというスペシャリスト的な強みがあるわけでもない。
そんな私って別に大したことないよな、頑張ってる部類の人間ではないよな、みたいな。

 

 

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そう思うにつれ、自分を褒めるとか、ご褒美をあげるという行為にどこか後ろめたさがついて回るようになって。
だんだん自分のなかで、メリハリがつかなくなっている感覚があるんです。

 

 

シンプルだった学生時代、頑張りの輪郭が一気にぼやけた社会人

 

何が変わったのか、よくよく考えてみると、学生の頃って自分の頑張りが測りやすかったんだなと思ったんです。

 

学生の頃は「頑張り」と「ご褒美」が、とても分かりやすくつながってた。

 

例えば、勉強にしても部活にしても、それぞれ試験や大会という分かりやすい評価軸がありましたよね。
できた、できてないの指標が数値で出てくるって(その是非は一旦置いておいて)、よく考えたら超楽だったんですよ。
しかも試験も大会も定期的なもので、だいたい実施スケジュールが決まっている。
よほどのことがない限り、予定変更ってないですよね。
だからこそ、こちらも計画的に準備ができたし、「今はアクセルを踏む時期」「ちょっと力を抜いていい時期」というリズムが作りやすかった。
しかも、始まりと終わりが明確だから、結果がどうであれ「とりあえずここまでやった」という気持ちの区切りもつけやすくなる。
だから、頑張った自分を労ったり、ちょっとしたご褒美をあげたりすることにも、あまり迷いがなかった気がします。

 

ところが、社会人になると、その構造が一気に崩れます。

 

たしかにルーティーンワークはあるし、企画やプロジェクトはスケジュールを引いて計画的に進めることも多いです。
でもそれ以上に、“想定外”が多い。

 

いくらこっちが計画通りに動いていても、急な方針変更や横やりが当たり前のように入ってくる。
ここまでに終わらせると決めていたことが、いきなり前倒して完成させてくれとか、延期してでも作りこんでくれとか言われたり。
ちゃぶ台返しでゼロから作り直しになったり、はたまたやっぱり中止と言われることだってあります。(ベンチャー勤めの私にとっては、もはやそれが日常ですが)

 

それにアクセル踏み込んで熱心に取り組んだからといって、それがそのまま評価される保証もない。
むしろ「そこまでやらなくてもよかったのに」と言われることさえあります。
かたや、その場の思いつきで口に出したアイデアが評価される場合もあるし、難なくひょいひょいとやったことに感動されることもある。

 

 

学生の頃のように、頑張ったことやその気持ちが、評価や達成感ときれいにつながらない。

 

そりゃあ社会人は労働力や知恵を提供してお金をもらう身になっているのだから、学生までとは話が変わってくるのは頭では分かってる。
がむしゃらに頑張ればいいというわけではなく、省エネで上手く作れる人が正義なんだという感覚も理解できる。
でもそうなると「何を以て自分を労えばいいのか」が分からなくなっちゃったんですよね。

 

だって、別にこっちだって頑張っていないわけではないじゃないですか。
やるべきことはちゃんとやっているし、しっかり働いたぶん、疲れだってじわじわ溜まっている。
それでも、その疲れを「功績」としては認めてあげられないんですよね。
こんなの、頑張ったうちに入らない、もっとしゃかりきに動いている人、成果を挙げている人はいくらでもいる。

 

この「そんなに頑張ってない」という感覚がある以上、自分にご褒美をあげることに、どこか後ろめたさや罪悪感を覚えてしまうのは私だけでしょうか?

 

結果、疲れているのにちゃんと休めなくて、切り替えたいのに切り替えられない。
アクセルもブレーキも中途半端なまま、だらだら走り続けているような感覚に陥ってしまいます。

 

 

「ご褒美」という枠組み自体が窮屈なのかも

 

じゃあ、もっと頑張ればいいのかというと、そう単純でもありません。
要領よく形にできる人が評価される、「がむしゃらに頑張ること」が必ずしも最適解ではないことを、頭では理解してしまっている状態で、全力で頑張るスイッチを入れるのは、正直至難の業です。

 

頑張ったご褒美をあげて、自分をちゃんと認めてあげたい。
でももう、そもそも頑張れない。
うわー八方塞がりじゃん。

 

……と思ってたんですけど、これを書いていてふと気づいたことがあります。

 

もしかして「頑張ったからご褒美」という構図自体が苦しいのかもしれない、と。

 

これまでは、頑張ったという「過程」がないとご褒美をあげるべきではないと、無意識に方程式をつくっていました。

 

けど、必ずしも「頑張り」が評価に直結しない環境にいるのに、それをご褒美の基準にするのってそもそも破綻してない?と思ったんです。

 

例えば、人生の教訓的な話でもよく出てくるじゃないですか。
自分が描いた結果が出せなくても、そこにたどり着くまでの軌跡は糧になってるんだから、その過程が大事なんだよ的な話。
これはこれで確かに正しいと思います。

 

だけど、何でもかんでもこれを当てはめるから苦しいのでは?
別に「結果」だけを見て「よし」とすることがあってもいいのでは?と思ったんです。

 

「ひたすらデータ入力しかしてないけど、プロジェクトは成功したらしい記念」
「途中でちゃぶ台返しされてこっちもヤケクソになったけど、無事、商品はリリースできた記念」
「なんか分からんけど、ぽっと出のアイデアが採用された記念」みたいな。

 

別に頑張ってはないけど、とりあえず終わりはした!なんか上手くいった!
だからお祝いにちょっといいもの食べたり、だらだらドラマを一気見したり、ゲームに没頭してみる。

 

「頑張ったかどうか」という過程はあえてジャッジせず、「ここまで来れた」という結果だけにフォーカスする。

 

これならしっくりくるし、自分のなかでも区切りがつけやすくなるような気がしたんです。

 

 

 

「セーブポイント」は自分でつくる

 

RPGゲームでも、ちょっと強いボスを倒すと、そこまでの記録を保存して体力を回復するセーブポイントが必ずありますよね。

 

自分の人生にもそういうポイントを作って、小さなお祝いと休息を取る。

 

まだ頑張れてないから、ではなく、ここまで来たから、でいい。

 

それなら気後れや罪悪感もなく、自然に受け入れられるような気がしたので、これからは素直に自分を労う時間を少しずつ増やせそうです。

 

アクセルとブレーキのメリハリができれば、次に進むためのエネルギーにもなって、なんだかんだ頑張れる人にもなれるのでは……?!と、淡い期待も抱きながら。

ライター:プロフィール

とにかく「言語化」することを軸に、自身のnoteを中心に活動するライター。
心や頭に浮かぶ漠然とした不安やモヤモヤも「言語化」にできると少し落ち着く。目まぐるしく変化する時代でも、地に足をつけていられるよう「ことば」でその道を照らしたい。


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