【映画レビュー】ドキュメンタリー『Daughters』を観て、触れること、愛すること——父と娘の再会がもたらす癒し
父親であることの意味とは?――それが刑務所の中の父親である場合、その意味はどう変わるのでしょうか。
ドキュメンタリー映画『Daughters』は、この問いに深く、感情豊かに迫ります。
この作品の中心にあるのは「Date With Dad(父とのデート)」というプログラム。これは収監中の父親たちに、娘とダンスするイベントに参加できるようにするものです。多くの父親たちにとって、数年ぶりに娘を抱きしめたり、目を見て話すことができる貴重な時間になります。
しかし、この感動的な再会の裏側には、見過ごせない現実があります。アメリカでは、黒人男性が圧倒的に高い割合で収監されており、これは社会的・制度的な根深い問題です。
貧困が世代を超えて続き、極端に与えられるチャンスが少ないコミュニティでは、生き抜くために難しい選択を迫られることがあります。多くの黒人男性たちは、「家族を守り、養うためには法を犯すしかない」というメッセージに囲まれて育ちます。彼らがその行為は悪いことだと知らないわけではありません。ただ、多くの場合、それが唯一の選択肢のように感じられてしまうのです。
『Daughters』が映し出すのは、ただの「父親」ではありません。
それは、娘たちのために、そして自分自身のために、その物語を書き換えようとしている「ひとりの人間たち」の姿です。
この映画は、人生における3つの重要な真実を浮き彫りにしています。
第一に、娘と父親の関係は、娘の情緒的な発達において土台となるものです。
第二に、癒されないまま親から子へと受け継がれる世代間のトラウマは、人を壊してしまう可能性があります。
そして第三に、人との触れ合いは、つながりや癒し、成長に欠かせない本質的なものだということです。
物語は、服役中の父親との関係にそれぞれ複雑な想いを抱える4人の少女たちを追います。
物語は、服役中の父親との関係にそれぞれ複雑な想いを抱える4人の少女たちを追います。
最初に登場するのは、5歳のオーブリー。ある夜、彼女が眠っている間に、30人もの警官が家に押し入り、父親を逮捕しました。オーブリーはその場面を目撃していませんが、目を覚ましたときには、父がいないという現実だけが残されていました。
部屋の壁には、彼女が努力を重ねて獲得したカラフルな表彰状がずらりと並んでいます。父から「頑張り続けなさい」と励まされてきた証ですが、それは同時に、彼の不在を常に思い出させる存在でもあります。オーブリーは無邪気に跳ね回り、笑顔で「パパは私が知っている中で3番目に強い人」と誇らしげに語ります。彼女は「7年後に戻ってくる」と信じています。希望に満ちたその瞳の奥には、父の罪の重さをまだ理解しきれていない、静かな悲しみが宿っています。
次に登場するのは10歳のサンタナ。彼女の痛みは、煮え立つように強く、言葉にもその強さがにじみます。
「パパのせいで泣くのはもう嫌。私が選んだことじゃない。」
「次にまた刑務所に入ったら、もう涙は流さない。」
彼女の父は、彼女の人生のほとんどを通して、刑務所と外を行き来してきました。その不安定さが、サンタナの心を硬くしてしまったのです。彼女は拳を握りしめながら歩き、母親がいつも怒っていると話します。サンタナは怒りを鎧のようにまとい、現れないかもしれない父への期待から自分を守っているのです。
続いて11歳のジャアナ。彼女は生まれる前から父が収監されており、会ったことがありません。
「顔も覚えてない。何も知らない。」
無表情でそう語る彼女の言葉は一見冷たいように聞こえますが、その奥には別の種類の喪失感が潜んでいます。――不在から来る喪失ではなく、「最初から失うものすら持っていなかった」という感覚です。
最後は15歳のラジア。彼女は父を恋しく思っています。ベッドに横たわりながら目には涙を浮かべ、「たった15分の通話しか許されないのはおかしい」と不満を漏らします。父の不在は彼女の心の健康に大きく影響しており、ある場面では、母に「もう生きていたくない」と打ち明ける場面もあります。
4人の少女たちは、それぞれ異なる形で、父の不在という重荷を背負っています――希望、怒り、無感覚、そして深い悲しみ。
『Daughters』は、単なる「刑務所」と「親子」のドキュメンタリーではありません。
それは、愛、触れ合い、そしてつながりが、どれほど人間にとって不可欠なものであるかを静かに、しかし力強く語る作品です――とくに、それらが欠けている時にこそ。
刑務所の中でも「そばにいる」という力
「Date with Dad(父とのデート)」は、バージニア州リッチモンドで始まり、12年以上にわたって続いているプログラムです。立ち上げたのは、黒人の女の子たちの自己表現とリーダーシップを育む団体「Girls for A Change」の創設者、アンジェラ・パットン。
アンジェラが少女たちと関わる中で気づいたのは、多くの父親が服役中であるという現実でした。あるとき、数人の少女たちが「父と一緒にダンスパーティーがしたい」と話したことがきっかけで、彼女はその願いを実現へと導きます。それがこのプログラムの始まりです。
ドキュメンタリーでは、このプログラムに参加する十数名の受刑者の父親たちを密着しています。ただし、参加するには「行くだけ」では済みません。彼らはまず、10週間のコーチングプログラムを修了しなければなりません。
映画では、彼らが犯した罪の詳細は明かされません。しかしインタビューでは、社会からのプレッシャーがどれほど自分たちの選択に影響を与えたかを率直に語ります。彼らは責任を放棄しているわけではありません。自分の行動が結果的に刑務所に繋がったことは理解しています。ただ一方で、「選択肢が限られた世界で、自分はどこに向かえばよかったのか?」という問いを投げかけます。
彼らの多くは、父親もまた服役経験があるような家庭で育ってきました。「父のようにはなりたくない」と誓ったはずが、気づけば同じ道をたどってしまった――そう語る男性もいます。ある男性は、父親に「愛してる」と言われたことがないと打ち明けます。「うちの家族は、そういうことを言わないから」と。
「Date with Dad」が提供するのは、ただのダンスパーティーではありません。それは、“つながる時間”であり、“癒しのきっかけ”であり、そして――根深い世代間の連鎖を断ち切るための“最初の一歩”でもあるのです。
なぜ「そばにいること」が大切なのか
赤ちゃんが生まれて最初にすることのひとつは、触れようとすることです。ぬくもりに触れ、安心を感じる——人間は生まれながらにして「つながり」を求める存在であり、触れるという行為は、もっとも基本的でありながら、しばしば見落とされがちな必要なことです。それは父親が愛を伝える手段であり、子どもが「守られている」と感じる瞬間です。特に少女にとって、愛情深い父親の存在は、自信や自己肯定感、感情の成長に大きな影響を与えます。
けれども、親がいなくなる——それが服役によるものでも、その他の事情でも——その不在は心にぽっかりと穴を空けます。子どもはその喪失を完全には理解できなくても、深く感じ取っています。その空白は、混乱や見捨てられた感覚、そして大人になってからの親密さや信頼の問題へとつながることもあります。やがて「愛とは何か」「自分は何を受け取るに値するのか」という問いにも影響していきます。
「Date with Dad」は、こうした現実に正面から向き合うプログラムです。刑務所にいる父親たちと娘たちが、実際に会い、触れ合うことで、父親たちは自身の不在が娘たちに与えた感情的な影響と向き合わされます。そして、ようやく抱きしめられる瞬間は、涙なしには見られないほど心を揺さぶります。
怒りに満ちていたサンタナは「パパ!」と叫びながら、父の腕の中に飛び込みます。その頑なな態度は一瞬で溶け、愛されたかった10歳の少女の姿が浮かび上がります。希望に満ちていたオーブリーは、何度も「7年後だよね?」と父に問いかけ、その再会の約束を信じようとします。父を知らずに育ったジャアナは、距離を縮めようと懸命に向き合い、ラジアは言葉では表せない想いを涙で流しながら、父にしがみつきます。
こうした娘たちの感情と触れたことで、父親たちの心にも変化が生まれます。ドキュメンタリーによれば、「Date with Dad」に参加した男性の95%が、その後再び刑務所に戻ることはありませんでした。ある男性はこう語ります。「ストリートに愛はない。お前の娘だけが、お前を愛してくれる。」
娘たちは、ストリートが決して与えられなかったもの——変わる理由、そばにいる意味、希望——を父親たちに与えてくれたのです。
数年後、ドキュメンタリーは再び彼女たちのもとを訪れます。サンタナの父親は出所し、4年間ずっと彼女のそばにいます。かつて怒りに満ちていた彼女の顔には、明るく無邪気な笑顔が広がり、車内で父と冗談を言い合う姿が映し出されます。時間とともに育まれた絆がそこにはありました。
一方で、かつて希望にあふれていたオーブリーは、8歳になった今、父親がさらに10年間刑務所にいると知り、その心に大きな衝撃を受けます。彼女は無口になり、父と話すことさえ避けるようになります。まるで、父と共に過ごせないという現実が、心の奥に何か大切なものを壊してしまったかのように——。
彼女たちはこれからも長い時間をかけて、父親との複雑な感情を整理していくでしょう。親子の絆は、ただの思い出をつくるだけでなく、自分自身をどう認識し、この世界をどう生きていくかを形づくる大切な要素です。
もし、あなたが親になるのなら、どうか、その愛を確かなものにしてください。励まし、導き、そして何よりも、「どんな時でもそばにいてくれる存在」として、子どもにとっての拠り所であってほしいのです。
たとえ変化しても、パートナーと共に成長していくには
人生には、永遠に続くように感じる季節もあれば、ある朝ふと目覚めて「もう10年も経ったんだ」と気づく瞬間もあります。
自分は年を重ね、変わっていて、昔の自分はもはや遠い記憶のよう。ベッドで横を見ると、隣にいる相手もまた変わっていることに気づきます。それが必ずしも悪いことというわけではありません。ただ、そこにいるのは、かつて恋に落ちたあの人とは少し違う顔をした誰かです。
この文章を読んでいる今、私たち夫婦はメキシコの海辺で乾杯しているところかもしれません。今年で結婚13年目を迎え、初心を振り返るために海辺の旅を計画しました。でも、ここまでの道のりは決して楽なものではありませんでした。
最初の数年は、正直かなり大変でした。恋の熱が冷めて、現実的な生活が始まると、まず私のほうが変わっていきました。20代前半の私はまだ自分がどんな人間なのか、何を信じているのかすら分からない状態。自分の価値観や考え方を見直し始めるのは難しいことですが、新婚生活の中でそれをやるのはなおさら大変でした。
変わったのは考え方だけじゃなくて、好みも、友達も、目標も、夢も全部。自分が誰かもわからないまま、それでも前に進んでいました。夫の変化はもっとゆっくりで、何度かの転職や、自分の信念を見つめ直すことで、彼も少しずつ変化していきました。
それぞれが成長する中で、ふたりの方向がずれていった時期もありました。特に結婚初期の数年間は、お互いのことがよくわからなくなっていたと思います。「またふたりで同じ方向を向ける日は来るのかな?」と不安になることも多かったです。
でも、人は変わるもの。変わらないことのほうが不自然です。様々な経験や困難を経て、人はどんどん新しい自分になっていきます。まるで粘土みたいに、何度も形を変えていく──そしてそれは、パートナーも同じなんです。
一緒にいることがいつも簡単だったわけじゃないけれど、大きな変化の中にこそ「成長」というご褒美があったと思います。簡単ではないけれど、美しくて価値のあるもの。それが、共に変化しながら歩むことの意味だと、私は思っています。
私たちが出会ったのは14年前、コロラドの空があまりに澄んでいた寒い1月の日でした。出会ってすぐに夏のロマンスが始まり、その秋、私が大学のために引っ越したあとも、遠距離恋愛をしてみようと決めました。そしてそれがうまくいき、2年後、再びコロラドの空の下で結婚式を挙げました──今度は雷雲が浮かぶ空の下で。
もちろん、すべての関係が永遠に続くわけではありません。人それぞれ、カップルそれぞれにベストな道があります。私たち夫婦にとっては、「たとえ今のお互いが昔と違っていても、一緒に歩んでいきたい」という気持ちがありました。昔の自分とは違っても、今の自分同士としてまた向き合うことで、新しい関係を築いていけるのだと思います。
そして、私がこの道のりの中で学んだことがいくつかあります。そのヒントをお伝えします。
パートナーと共に成長していくためのヒント
1. 自分にも、相手にも正直でいること
私が結婚して間もない頃、ずっと信じてきた宗教的な価値観に疑問を持ち始めました。そこで、私は夫にその気持ちを伝えることにしました。とはいえ、大きな話し合いを一度したわけではなく、数ヶ月かけて小さな会話を何度も重ねていったんです。最初はとても怖かったし、意見が合わないこともありましたが、自分の内面の変化を見守ってくれる人がいることに安心感を覚えました。そして、このプロセスを共有することで、私たちはむしろより深くつながることができたと感じています。
正直さは、やっぱり大切です。自分自身や大切な人に対して正直でいることで、関係はより健やかに育ちますし、何よりも心の平穏が保たれます。それがたとえ小さな変化──新しく好きになった食べ物でも、宗教を変えたことであっても──パートナーに伝えることで、今のあなたの気持ちや経験を理解してもらえるようになります。そして、相手もまた自分の変化を安心して話せる空気が生まれます。勇気がいることではあるけれど、トライする価値はきっとあるはずです。
2. お互いに興味を持ち続けること
私の夫は、今でも出会った頃と同じように冒険好きでおちゃめな人です。でもこの10年で、趣味も増えたし、政治的な立場も変わったし、海より山が好きになったみたい。人も、関係も、少しずつ変わっていくものですよね。でも、その変化に興味を持ち続けることで、関係は新鮮さを保てます。
「出会った頃の気持ち、思い出してみて」
だからこそ、今もパートナーと“デート”してみてほしいんです。出会った頃のようにワクワクした気持ちで、ちょっとおしゃれして新しいレストランに行ったり、行ったことのない街に旅してみたり。真面目な話も軽い話も、どちらも大切にしていきましょう。
3. 関係の外での「自分の成長」も大切にする
パートナーと一緒に成長することは素晴らしいことですが、それと同じくらい「ひとりの自分」を育てることも大切です。関係は自分を補完するものであって、すべてではありません。まずは自分自身を大切にしなければ、相手をしっかり支えることもできません。
成長のタイミングでは、ひとりの時間を意識的に持つことも必要です。ただの「離れる時間」としてではなく、呼吸を整える時間、変化を整理してクリアな心で戻ってくるためのスペースだと思ってみてください。それは午後の数時間かもしれないし、数日、あるいは数週間という場合もあるでしょう。どんな形であれ、その時間は関係にとってきっとプラスになるはずです。
4. 周囲のサポートに頼る
一緒に成長していくのは、正直、すごく大変なときもあります。そんなときは、信頼できる友人や家族、カップル向けのサポートに頼るのも大切です。どんなカップルも完璧な人ではありません。自分の変化や、相手の変化が理解できずにモヤモヤすることだってあります。
そんなときこそ、周囲の人たちの支えが力になります。同じような経験をしているカップルの友人たち、あるいはカウンセラーなどの専門家の助けを借りるのもひとつの選択肢です。
5. 昔の自分たちを一緒に振り返り、祝福し、そして見送る
最後に。自分や相手が、もう「昔の私たち」ではなくなっていると気づくことには、少し寂しさや悲しみが伴うこともあります。でも、それを受け入れることこそが、自由への第一歩かもしれません。
変化に対処する時間を取るのは大切なことです。ただ、過去に戻ろうとするのではなく、今ここまで歩んできた道のりを振り返ってみましょう。かつての自分たち、あの頃のふたりを誇りに思い、そして必要であれば、その終わりに静かにお別れを告げてもいいんです。過去の自分とパートナーが、今のあなたたちをここまで導いてくれたことに感謝して。
そして今、変化を迎えた新しいふたりとして、再び向き合っていきましょう。
きっとある朝、目を覚ましたときに隣にいるその人が「知らない人」なんかじゃなく、「ずっと愛してきた人」なんだと気づけるはずです。少しだけ変わっただけ。あなたも、相手も。
離婚後に心を癒すための心理学者のアドバイス──どんな年齢でも
1985年に結婚したとき、私は自分が31年後の結婚記念日に離婚するなんて想像もしていませんでした。両親が離婚せずに添い遂げたように、結婚はずっと続くものだと信じていました。
大学院の臨床心理学で初めて結婚セラピーの授業を受けたとき、「若くして結婚した2人が、後に気持ちが離れてしまったらどうなるのか」と先生に聞いたことがあります。そのときは答えを教えてもらえませんでしたが、「気持ちが離れること」が離婚の大きな理由のひとつになるというのは、直感的に理解できました。実際、私の離婚もそうでした。
1990年に個人開業してから、多くの夫婦を見てきました。夫婦間の不満や衝突は、ある日突然起こるのではなく、時間をかけて積み重なるものだということがわかりました。私は妊娠や産後のメンタルヘルスを専門としていたので、子どもが生まれることで、すでにあった問題がより深刻になることや、子どもをきっかけに夫婦関係に亀裂が入るケースを多く見てきました。
私自身は、元夫スティーブと一緒に子育てをうまくやっていました。次女の出産後に彼が仕事を失ったとき、彼が家にいて子どもの世話をし、私が家計を支えることに決めました。それはしばらくうまくいっていましたが、長女の大学進学が近づくにつれて、私ひとりで学費を負担することに不安を感じるようになりました。
そしてある日、スティーブがクライアントの家の屋根から落ち、足首と足を粉砕骨折する事故が起きました。彼は2回の手術と9ヶ月のリハビリを経て仕事に復帰しましたが、私は娘を大学に送り届けるため、母と一緒に車で長距離運転をしていました。
そこから、人生におけるさまざまな変化が重なり、私は離婚を望むようになりました。2014年に聴神経と顔面神経の間にできた良性腫瘍を取り除く手術を受け、2015年には初期の乳がんの治療も経験しました。その頃には、私たちは感情的に完全に離れてしまっており、「これ以上、不幸な結婚生活を続けたくない」と強く感じるようになりました。
離婚が与える心理的影響は、たとえ円満な離婚であっても無視できないものです。私のカウンセリングの現場や私自身の経験でも、離婚の影響は軽度なストレスから、深刻なうつや不安に至るまで幅広く見られました。
離婚という大きなライフイベントの後には、心の整理と癒しのプロセスがあります。そのなかで、自分の居場所を取り戻す感覚、自分の人生に再び責任を持つ感覚、そして新たな自分と出会う経験が生まれてきます。
中には「離婚してスッキリした」と思う人もいれば、しばらくしてから「もしかしたらやり直せるかも」と感じる人もいます。私自身、離婚から1年半経った頃、スティーブへの怒りや失望が落ち着いたタイミングで「もう一度うまくやれないかな」と思ったことがありました。けれど彼から「もうそういう気持ちはない」と言われ、そのときの喪失感はとても大きなものでした。
離婚を通して私が学んだことのひとつは、「喪失」はひとつだけではないということです。パートナーの喪失、共有していた夢の喪失、家族や友人、ペットとの関係の変化、子どもとの時間の変化など、さまざまなかたちの喪失を経験します。
悲しみのプロセスには段階があります。「ショック」「怒り」「対処」「抑うつ・諦め」「受容」です。ただし、これは人それぞれのプロセスであり、必ずしも順番通りに進むわけではありません。行きつ戻りつしながら、少しずつ受け入れへと向かっていくものです。
また、離婚がもたらすのは感情面だけの問題ではありません。多くの人が経済的な変化にも直面します。たとえば、パートナーのどちらかが家計を一手に担っていた場合、もう一方は預金口座の残高やログイン情報すら把握していないということもあります。
また、離婚後に直面するのが「自分とは何者なのか」という問いです。結婚生活では知らず知らずのうちに相手との関係性の中で自分を形づくっていることが多いので、独り身になることでアイデンティティを再構築する必要が出てきます。
私自身はそのプロセスのなかで、マインドフルネスを実践し、本を書き、自分自身を見つめ直す時間を持ちました。結果的に、自分がどんな人間で、どんな時間の使い方を望んでいるのかが明確になり、新しいパートナーと自分らしい関係を築くこともできました。
最後に、自分を癒すためのヒントをいくつか紹介します:
- 離婚は人生の大きな転機であることを認める。
- 栄養・運動・睡眠・ストレス管理など、基本的なセルフケアを大切にする。
- 呼吸法やリラクゼーションなど、ストレスを軽減する方法を日常に取り入れる。
- 子どもがいる場合、子どもの感情に寄り添い、パートナーの悪口を言わないよう心がける。
- 小さなことでいいので、今この瞬間に心地よさを感じる行動をする(音楽を聴く、散歩する、好きな香りを楽しむなど)。
人生には波がありますが、「これもいずれ過ぎ去る」という言葉を心に留めながら、一歩ずつ前に進んでいきましょう。
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ダイアン・サンフォード博士は、女性の人生のあらゆる段階において心身の健康をサポートすることを専門とする心理学者です。35年以上にわたり、セルフケアとマインドフルネスを通じて、クライアントが内なる平和と自己理解を深められるよう導いてきました。
彼女自身もバランスの取れたクリアな心を保つために、セルフケアとマインドフルネスを大切にしています。具体的には、ヨガ、瞑想、自然の中を歩くこと、読書、料理、家族や友人と過ごす時間、そして20ヶ月になる孫のキャメロンとの遊びが日々の習慣となっています。
詳しくは、drdianesanford.com をご覧ください。
心も関係も整える:自宅で始めるカップル&ファミリーカウンセリング
カウンセリングというと、「何か問題が起きたときに行くもの」と思われがちですが、実は予防的なケアとしてもとても有効です。特に夫婦や家族など、身近な人間関係では、感情が絡み合いやすく、つい相手の意図を誤解してしまうこともありますよね。
そんなとき、第三者であるカウンセラーが入ることで、お互いの思いや考えを冷静に整理し、より良い関係性を築くためのサポートを受けることができます。以下のようなメリットがあります:
- コミュニケーションの改善
言いたいことがうまく伝わらない、すぐケンカになってしまう……そんな悩みの根本原因を一緒に見つけてくれます。 - 感情の整理と理解
イライラや不安など、自分でも整理しきれない感情を安心して話せる場があるだけでも、心が落ち着きます。 - 相手への理解が深まる
「なぜあの人はそう言ったのか」「どうしてあの態度を取るのか」を、一緒に考えることで、相手への見方が変わることも。 - 関係を修復・強化するチャンスになる
距離ができてしまった関係も、カウンセリングを通じて再びつながるきっかけになることがあります。
カウンセリングは決して「問題がある人が受けるもの」ではなく、「より良く生きたい」「もっとわかり合いたい」という思いを持つすべての人にとって、有益なサポートツールです。
日本で家族や夫婦関係に関する悩みを抱えている方々に向けて、オンラインで利用できるカウンセリングサービスをいくつかご紹介します。これらのサービスは、忙しい日常の中でも自宅から安心して相談できる環境を提供しています。
1. TELL Counseling(テル)
TELLは、英語と日本語を含む多言語でのカウンセリングを提供しており、個人、カップル、家族、子ども、青少年向けのサービスがあります。東京と沖縄に拠点を持ち、オンラインでも全国から利用可能です。経験豊富なセラピストが在籍しており、文化的背景や言語の違いを理解した支援が受けられます。
2. Tokyo Mental Health(東京メンタルヘルス)
東京メンタルヘルスは、個人、カップル、家族向けのオンラインカウンセリングを提供しています。英語と日本語に対応しており、国際的な背景を持つクライアントにも対応可能です。多様な専門家が在籍しており、柔軟な対応が魅力です。
3. NTC(ナラティブ東京カウンセリング)
https://www.ntokyocounseling.com/
NTCは、オンラインでのカップルおよび家族向けカウンセリングを提供しています。セッションは自宅から受けられ、プロのセラピストが関係性の課題に対処するサポートを行います。料金は50分13,200円(税込)で、予約制です。
4. Universal Psychology Japan(ユニバーサル・サイコロジー・ジャパン)
臨床心理士の中村仁美博士が運営するこのサービスは、英語と日本語でのオンラインカウンセリングを提供しています。国際的な背景を持つ子供や家族を対象としており、異文化への適応という課題へのサポートがあります。現在、新規クライアントの受付は2025年6月まで停止中ですが、将来的な利用を検討される方はウェブサイトで詳細をご確認ください。
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オンラインカウンセリングは、地理的な制約を超えて、必要なサポートを受けるための有効な手段です。特に、国際的な背景を持つ方や多忙な日常を送る人にとって、自宅から安心して相談できる環境は大きな利点となります。上記のサービスは、それぞれ異なる特徴や専門性を持っていますので、ご自身のニーズに合わせて選択されることをおすすめします。
心の健康は、日々の生活の質を大きく左右します。一人で抱え込まず、専門家のサポートを受けることで、新たな視点や解決策が見つかるかもしれません。ぜひ、これらのオンラインカウンセリングサービスを活用して、より良い生活を築いていきましょう。
流産を経験した大切な人をどう支えるか
この記事は The Good Trade より翻訳されました。
私が20代後半のとき、親友のクリスティンが流産をしました。
彼女は妊娠12週目で、ずっと妊娠を望んでいたところでした。
私はどう対応したらいいのか分からず、何を言えばいいのか、どう言えばいいのか迷いました。
妊娠や出産を経験している友人も少なく、排卵検査薬や妊娠糖尿病、搾乳器のこともよく知らない私にとって、「流産」は未知のもので、ただただ無力感に包まれました。
何よりも、私がいつも支えてもらっていた大切な人に、今度は私が寄り添いたかったのです。
「どんな言葉や贈り物がふさわしいだろう?」
私は、以前同じような立場になった年上の友人にメッセージを送りました。
彼女は、「何か命を育てられるもの――たとえば植物――を贈るのはどう?」と提案してくれました。
その後、私はクリスティンに電話をかけ、心からのお悔やみを伝え、何が必要かを静かに尋ねました。
刺激になりそうな言葉を避けながら、もう1週間ほど経ったころ、小さなかわいらしい植物を贈りました。
「あなたは深く愛されている。赤ちゃんもあなたも大切な存在だった」――そんな想いを込めて。
これが正解だったのかどうかは分かりません。
それがこのテーマの難しさでもあります。
とても身近で、でもタブー視されがちな「流産」。
実際には、妊娠の30%以上が流産に至るという研究もあり、染色体異常や遺伝、母体の健康状態など、原因もさまざまです。
親しい人を支えたいと願うとき、どんな言葉が適切か考えることはとても大切です。
幸いなことに、クリスティン自身も、自らの経験と、流産を経験した人への支援のあり方について、シェアしてくれました。
何を「言うか」「するか」
流産後によく耳にする言葉に、「そのうちうまくいくよ」「そうは言っても…」というフレーズがあります。
たとえば、「そうは言っても妊娠できることがわかったじゃない」とか、「初期だったからまだ良かった」など。
悪気はなくとも、こうした言葉は悲しみを過小評価したり、無効化したりしてしまう危険があります。
クリスティンはこう語ります:
「私が一番つらかったのは、命があった赤ちゃんが、亡くなったという事実でした。
次の赤ちゃんを楽しみにしていることとは別の話なんです。
前の子も、今の子も、それぞれがかけがえのない存在なんです」
だからこそ、「あなたが大切な存在を失ったことを悲しんでいます」「ずっとあなたのことを想っています」――
そんなシンプルで真心のこもった言葉が、何よりの支えになります。
また、流産後は心だけでなく、体の回復も大変です。
クリスティンは子宮内容除去術のあと、「痛み、出血、発熱の中で、感情を整理する余裕なんてなかった」と振り返ります。
さらに、妊娠中の人の約45%が直面すると言われる産後うつも、状況をさらに厳しいものにします。
ですので、気持ちのケアだけでなく、実際のサポート―― 通院の付き添いや家事の手伝い、食事の差し入れなど――も、心に寄り添うかたちとなります。
何が必要か、何が「不要」かを尋ねる
数週間が経つと、どう接していいか分からなくなることもあるかもしれません。
でも、尋ねていいんです。「何ができる?」と聞くことで、正しい答えに近づけます。
とても親しい間柄なら、
「今、どんなふうに支えてほしい?」
「話したい? それとも静かにそっとしておいた方がいい?」
と聞いてみましょう。
特におすすめなのが、連絡するタイミングについても確認すること。
忙しいときや職場で突然連絡を受けると、それだけで心が乱れてしまうこともあります。
クリスティンは、こう言います:
「何人かの友人が、“話したいときはいつでも連絡してね。返せなくても大丈夫だから”とメッセージをくれた。
それが一番ありがたかった」
もし、最近はあまり親しくないけれど、SNSや共通の知人から流産を知ったという場合、直接メッセージを送るのは避けた方がいいかもしれません。
家族に連絡し、お悔やみのカードや贈り物をどこに送ればいいか確認するのもひとつの方法です。
また、あなたが妊娠中だったり、小さなお子さんがいる場合は、特に相手の気持ちや境界線に配慮する必要があります。
ただ「そばにいる」ことが力になる
大切なのは、完璧な言葉を探すことではなく、そばにいることそのものです。
「聞く」だけでも十分な支えになりますし、支援グループやカウンセラーの情報を共有するのも一つの方法です。
また、妊娠していた本人だけでなく、パートナーや子ども、家族も支えを必要としていることを忘れないでください。
小さな気遣いでも、大きな力になります。
偏見をなくすために
流産の話題には、まだ多くの偏見がつきまといます。
出産経験者の5人に1人が流産を経験すると言われていますが、それほど多くの話を耳にすることはありません。
「話さない自由」は尊重されるべきですが、「話したくても話せない」空気をつくってしまっているのも事実です。
クリスティンはソーシャルワーカーとしてこう言います:
「ほかの“喪失”については話すのに、なぜ流産だけはタブーになるのでしょう。
誰かに聞いてほしいのに、“話してはいけない”と感じるのはつらいことです」
社会としても、「12週までは公表しない」文化や、企業の弔意制度において流産が含まれていないといった課題があります。
こうした構造にも目を向け、政策の見直しや啓発活動を通じて支援の輪を広げることも、私たちにできる支援のひとつです。
長期的な支援も大切に
失った命のことを、記念日や年末年始など、ふと思い出すタイミングでそっと気にかけてください。
「ひとりじゃないよ」と伝え続けることが、何よりも心強い支えになります。
人生のどんな喪失も、深く心をえぐるものです。
そして、その悲しみのなかにいる誰もが、「支え」を必要としています。
あなたの大切な人が流産を経験したとき、このメッセージが少しでも支えになり、
「見守られている」「大切にされている」と感じてもらえるきっかけになりますように
家族との関係は悪くないけど、無意識に気を張ってしまう自分もいる
私は一人っ子。
両親からの愛情をひとり占めして育ってきました。
特段裕福な家庭というわけではないけれど、生活に困るようなことはなく、習いごとや行きたい大学などやりたいことはだいたい挑戦させてもらえました。
たしかに、恵まれている環境でした。
だけど、昔からどこか、心の奥には”家族に対する説明のつかないモヤモヤ”があります。
「なんでこんなに満たされないんだろう」と、自分でもうまく言葉にできないまま、今もときどき、その違和感に足をとられそうになります。
生まれ落ちたのは、正反対な父と母の間
母を一言で表すと、とても明るくてよくしゃべる人。そして頑張り屋さんです。
家事は全部ひとりでこなすし、料理も美味しい手の込んだものをパパッとつくってしまう。
忘れ物は多かったりと、ちょっと抜けているところはあるものの、基本的にはとてもしっかりしていて、私にいろんなことを学ばせ、経験させようと常にあれこれ考えてくれていました。
それはそれはたっぷり私に愛情を注いでくれて、小さいころの私はそんな母が大好きでいつもべったりでした。
そうなると、いつの間にか母が絶対的な存在になっていきます。
「母さんがいれば大丈夫。母さんが言うならそれが正しい。」
でも、大きくなるにつれ、世界というのはもっと広く、いろんなもので溢れていることに気づく。
そこに正しさなんてものは存在せず、100人いれば100通りの答えがあって良いということも知る。
そうすると、私の中で母の存在がちょっと揺らぐ。
その愛情がちょっと重たくなってきて、ふとしたときに「あれは母が思い通りにしたかっただけじゃないか?」と思う記憶がちらほら出てくるんですよね。
そうなると、普段の母との会話にも違和感を覚えはじめます。
「結婚は?彼氏は?」と何度もズケズケ踏み込んでくるし、何気ない世間話のなかにも、ちょっと古い考え方や“べき論”を感じ取るようにもなってしまって。
最近はそのエネルギーに生気を吸い取られる感覚もある。
もちろん、母のことは今も好きだし大事だし、尊敬もしています。
でも子どもの頃には気づかなかった一面が見えてくると、途端に付き合い方が分からなくなってきてしまったんですよね。
一方、父はというと母とは正反対。
基本、母のように暇があれば他愛もない話を吹っかけてくることもなければ、こちらが話しかけても最低限の返答しかしない。
……というか、そもそも口を開いてないんじゃないか?
子どもの頃を思い返しても、父がつらつら喋っている風景はほぼ思い出せません。
そんな父の血を強く引いたのか、幼い頃から自分の気持ちを伝えるのが苦手だった私は、とにかく泣き虫でした。
でも、私が泣いていても父は特に声をかけてこない。
母が一目散に駆けつけるから隙がなかったのかもしれないけれど、父が慰めてくれたり、話を聞いてくれた記憶は、少なくとも物心ついてからはありません。
そのぶん、何かで口うるさく怒られたり、たしなめられることも大してありませんでした。
私が、どんな習いごとをはじめようと、辞めようと、どの高校に進学しようと、大学で県外に出ようと、父はまったく口を出さないし顔色一つ変えない。
幼馴染なんて、私が県外に出ると言ったらポロポロ泣いてショックを受けてたのに…!
よく言えば「干渉しない父」でしょう。
でも今思えば、学生の私にとって、一番身近な家族が、実の父親が「何も言ってくれない」のはとても不安で寂しかったんじゃないかと思うんです。
その沈黙に、ひとりで大きな決断を背負っているような、そんな孤独を感じていたような気がします。
そして、いざ本当に県外の大学に進学が決まり、いよいよ旅立つという時も、父が来てくれたのは見送りだけ。
平日だったか私の荷物を出すのに残ってくれたんだか、何か理由があったような気がしなくもないけど、引っ越しについてきてくれたのが母だけというのには、やっぱりどこか寂しさがありました。
それに、積もっていたモヤモヤも相まって、新幹線のなかで思わずメールを打った記憶があります。
「あの時も、あの時も、父さんはなんで何も言ってくれんかったん?」って。
すると、返ってきたのは「やりたいようにやればいいと思っていた」というような内容でした。
テキストですら口下手な父にしては、いろいろ書いて弁明してくれた気はするけれど、当時の(いや、今も)私からしたらこの一言に尽きます。
「それを面と向かって言ってくれ……」
今思えば、何も言わず見守ることが父なりの愛情だったのかもしれません。
それでも、やっぱり言葉にしてもらえなければ、伝わらないことってたくさんあるんですよね。
胃もたれするくらい言葉を浴びせてくる母と、不安になるくらい喋らない父。
そんな両極端な環境で育つうちに、私はどちらかに偏ってはいけない、バランスを取らねば、と無意識に力んでしていたのかもしれません。
全てを育った環境や両親のせいにするつもりではないけれど、”人の顔色を気にしすぎる性格”になった大きな要因の一つではある気がします。
私にとって家族は、一番近くて遠い
もう子どもとは言えない年齢になった今もたまに、この二人の狭間でどんな娘でいればいいのか分からなくなることがあります。
最近は母が企画してくれて家族3人で出かける機会が増えました。
おばあちゃん家以外の家族旅行があまりなかった子ども時代なので、その時間はシンプルに楽しいし、心から笑う瞬間も多々あります。
でも、その途中にふと「なんか……家族、演じてんな」と急に冷徹に客観視してしまう瞬間もあるんですよね。
一番近いはずの家族なのに、たまに突然、まったく分かり合えないものすごく遠い人に感じる、みたいな。
で、何より、大事な家族に対してそう思ってしまう自分にも罪悪感を覚えて、少し疲れる。
こんな感じなので、あまりずっと近くに居すぎるといつかバランスを崩してしまいそうで、今は実家の近くで一人暮らしをしています。
歩いてほんの10分の距離だし、なんなら職場には実家のほうが近いし、いろんな意味でコスパは悪いです。
でもこのほんの10分の距離が、私の心、そして家族仲を守るのにめちゃくちゃ大事な気がするんですよね。
家族の形に正解はない
ふとSNSなどで、幼馴染がその家族ととても仲睦まじそうに旅行したり、一堂に会して親御さんの還暦祝いをしたりする様子を見かけると、その姿が眩しくて「なんで私はこんな風にできないんだろう」と思ってしまうことがあります。
私はいつまで、上手くバランスを取れない子どものままでいるんだろうと、情けなくなることもあります。
だけど、家族の形に正解はないし、私と父と母が良ければそれで良い。
どれだけクセの強い両親でも、その狭間で揺さぶられようとも、家族を大事にしたい気持ちも本物。
それを忘れずに、限りある家族の時間をちゃんと噛みしめられる大人になりたいものです。
「親との関係」は、私たちのパートナー選びにどう影響するのか?
恋人との絆は、趣味や相性が合った「偶然の出会い」のように感じられるかもしれません。
でも、少し深く見ていくと、親との関係は私たちが惹かれる相手に大きく影響していることに気づきます。
私たちは、胎内にいる時から、ケアをしてくれる人の愛情、または愛情の欠如によって形づくられます。
こうした経験は、
- 自分自身の捉え方
- 世界の見え方
- 愛や信頼、親密さの感じ方
- 親密な関係に対する期待値
……などの“設計図”となって、無意識に根づいていくのです。
親と似たパートナーに惹かれる理由
あるとき、私は「今付き合っている人は、母の男性版だ」と気づき、衝撃を受けました。
それは混乱とともに、深い内省と癒しの始まりでもありました。
私は、母の良い部分だけでなく、好きではない部分にも似た相手に惹かれていたのです。
それは、私の中にまだ癒されていない母との関係があったからでした。
この繰り返されるパターンから抜け出す準備が、ようやく整ったのです。
1. 親との関係は、恋愛にどう影響する?
心理学には「愛着理論(アタッチメント・セオリー)」という考え方があります。私たちは親や養育者との関係を通して、他者との愛や親密さを学びます。
愛着スタイルには以下の4タイプがあります:
- 安定型(secure)
- 不安型(anxious)
- 回避型(avoidant)
- 混乱型(disorganized)
親から愛され、安全で信頼できる関係の中で育った人は、健全な恋愛関係を築きやすくなります。
逆に、混乱・無視・虐待などがあった場合、それに似た相手を無意識に選ぶ傾向があるのです。
2. 親と似たパートナーを無意識に求めるのはよくあること?
はい、非常によくあることです。
人は「馴染みあるもの=安心」と無意識に感じる傾向があり、それがたとえネガティブな特徴であっても、心はその方向に向かってしまいます。
トラウマセラピーには「反復強迫(Repetition Compulsion)」という概念があります。
これは、過去のトラウマ体験を無意識に繰り返してしまう傾向のことです。
3. 親に似たネガティブな人ばかりを選んでしまうとき、どうすれば?
まず「気づいたこと」自体が、大きな一歩です!このパターンを変えるには、まず内面の傷を癒す作業が大切になります。愛着理論に詳しいセラピストとの個人セラピーも有効です。
そのうえで、次のような行動をとってみてください:
親に似ていたネガティブな特徴をリストアップし、「赤信号」として意識する
見た目やステータスではなく、「関係性を築く力」がある人を見極める
(例:誠実さ、自己理解、感情表現、思いやり、正直さ、継続力 など)
自分の「神経の高ぶり」に気づく習慣をつける
ドラマのような起伏の激しい恋愛は、「愛」ではなく、緊張状態への中毒かもしれません。
最初はつまらなく感じても、「安定・安心・穏やかさ」に魅力を感じる練習をしていきましょう。
4. より健全な恋愛をするために意識すべきこと
- 自分にやさしく、根気よく接すること
- パターンの背景にある“理由”を学び、新しいスキルを実践すること
- パートナーと一緒にカップルカウンセリングを受けるのも◎
- 「完璧な人になる」ことではなく、「成長する機会」として恋愛をとらえること
もし、何度も同じような恋愛で傷ついたり、孤独を感じているなら、あなたはひとりではありません。変化の第一歩は、今のパターンを受け入れ、理解すること。そして次にできるのは、「新しい関係性のための言葉」を学んでいくことです。
最初は不器用でも、やがて自然に話せるようになります。それが、健全な恋愛関係を育むということなのです。
親しい友人関係における「開かれた、思いやりのある衝突」のすすめ
人生の大半を通して、私は「健康的な関係」とは「衝突がないこと」だと思っていました。
「私たち、一度もケンカしたことないんだよね」なんて、恋人や親しい友人について語るとき、その言葉を「良い関係」の言い換えとして使っていたのです。
でも当時の私は気づいていませんでした。自分の人生に衝突が少なかったのは、偶然なんかじゃなく、私がものすごく一生懸命に、衝突を避けようと努力していたからだということに。
母は私が小さい頃から、「あなたのことは心配していない」とよく言っていました。
「あなたは、どこに植えられてもちゃんと花を咲かせるタイプだから」
私はその言葉が気に入って、それを自分の信条のように受け入れてきました。
柔軟性がある、立ち直る力がある、適応力がある——周囲の人たちは私のことをそう褒めてくれました。私は折り合いをつけられる人間だったし、協調的だったし、本当に“問題解決型”の人間だと思っていました。
でもこういう性質を自分の価値の一部と信じ込んでいたからこそ、それを維持することが実は簡単ではなかったことに気づけませんでした。そして、それには必ずしも“代償がなかった”わけではなかったのです。
何度も(何度も、何度も!)、私は小さな違和感やモヤモヤを見て見ぬふりしてやり過ごすことを選んできました。だって、それに向き合うなんて「サバサバしていない」し、「細かい」とか「面倒な人」って思われるかもしれないから。
たとえば、本当はサラダが食べたかったのに空気を読んでピザに賛成したり(雰囲気壊したくないし!)、誰かの嫌味や傷つく一言を「そんなつもりで言ったわけじゃないよね」と笑って受け流したり。私はいつの間にか、自分の本当の気持ちを飲み込むクセを身につけていました。口に出すより、我慢してやり過ごした方が楽。そう思い込んでいたのです。
「大丈夫。私なら平気」
「これくらいなら我慢できる」
これらが私の口癖で、イヤな気持ちを自分の中で処理して、心地よいことに意識を向けて、自分は“感じのいい人”であり続ける。それが、自分の価値だと信じていたのです。
でも、うまくいかないときもあるんです。
何度目かの「食べたくない重めの食事」や、「傷つくけど大したことじゃない“冗談”」を我慢した後、私は見えないところで少しずつ苛立ちを募らせていきます。気づけば、頭の中でそのときの場面を繰り返し再生しながら、心の中で怒りが燃え始めているのです。
「これが初めてじゃない」
私はそう思いながら、今まで受けてきた失礼な言動や、軽視された出来事のリストを思い出し始めます。私にも、人に優しくしていられる限度がある。そしてその一線を越えると、私は無言の戦闘モードに突入するのです。
ランニング中、シャワー中、通勤中。
私は空想の中で相手を叱りながらひとりで言い返す。
目は前を見据え、心臓はドキドキと鳴り響き、完璧な「正義の正論パンチ」を作り上げては、相手の心をズタズタにする想像をしているのです。
「あなたは、最初から私のことも、他の誰のことも尊重なんてしてこなかった」
「私はもう、あなたの自分への“リスペクト”のために戦いたくないの」
一度この思考に入ってしまうと、その関係はもう元には戻れなくなっていました。そして私の中では、2つのどちらかの結末に向かうしかないと感じていたのです。
ひとつは、その衝突が現実の世界で表に出てくること。もうひとつは、その人との関係が完全に終わること。
でも、たとえ何が起ころうと、私にとっては、「不快な会話をすること」よりはマシに思えました。
だって、「あなたの言葉に傷ついた」とか「私はそうは思わない」と伝えることには、とても大きなリスクがあるように感じていたからです。
もし相手が逆ギレしたら?
軽くあしらわれたら?
「あなたって繊細すぎるよ」と言われたら?
「めんどくさい人だな」と思われて、離れていかれたら?
私が思っているほど、私は柔軟でも協調的でもないとバレてしまったら——そのとき、自分にはもう親しい人間関係なんて残らないんじゃないかと思っていたのです。
衝突?それとも戦い?
今では(そして読んでくれているあなたもきっと)、「私は恐れに支配されていた」とはっきり分かります。でも、セラピストに「初めて衝突を怖いと感じたのはいつですか?」と聞かれたとき、私は驚きました。
私が戸惑っているのを見て、彼女は言い方を変えました。
「衝突が怖くなかった頃を覚えていますか?」
私はさらに混乱し、思わず笑ってしまいました。
「衝突が平気な人なんて、いるんですか?」
彼女は何も言わず、私が自分で答えるのを待ちながら、意味深な微笑みを浮かべました。
でも考えてみると、その問いは私には当てはまらないものでした。
「私はあまり人とケンカしないんです」と言ったとき、私は彼女が褒めてくれるだろうと思っていました。
でも、そうはなりませんでした。
「ご家族とは?」と彼女が尋ねました。「ご両親や兄弟とは?」
子どもの頃、兄と姉とは普通の兄弟喧嘩をしていました。けれど、今はみんな別の場所に住んでいて、特別仲が良いわけでもありません。
お互いあまり連絡を取らず、なんとなくの不満がくすぶっているような距離感。けれど、それが“兄弟ってもの”でしょ?
イライラすることがあっても、わざわざ言い争うほどのことじゃないし。
両親ともケンカしたことはありません。でも、私はもう10年以上も両親の近くで暮らしていません。
思春期の頃、両親はよく口喧嘩をしていて、私もその議論に加わることがよくありました。あの頃特有の情熱と反抗心を抱えて。でも、それって普通のことじゃない?
すると、セラピストがこう言いました。
「あなた、“ケンカ”って言葉をよく使いますね。あなたにとって“衝突”って、“戦い”だと思っていますか?」
……たしかに。
戦いじゃなかったら、それは衝突と呼べるの?
私はその問いを口に出す前に、心のどこかで気づいていました。人と対立する感情や緊張、不快感を「戦い」にしなくても処理する方法があるということに。でも、私はそれを経験したことがなかったのです。
誰かが自分と違う意見を持っていると感じたとき、私は無意識に“先回り”して、それを避けるために自分の意見を控えめにしたり、もっと好かれるように振る舞ったりしていました。
そして、もしその引き出しがもう空っぽになっていて、いつものように柔らかく対応する余裕がなくなっていたら、私は防衛モードに入り、その人との距離を取ることで自分を守ろうとしていました。
そのとき、相手が傷つくかどうかなんて、正直どうでもよかった。
私の中では、もうとっくに“戦い”は始まっていて、
「この関係は“有害”だ」と思い込むことで、離れることを正当化していたのです。
だって、もうたくさん傷ついてきたんだから。
それは——相手のせい。でしょ?
話しながら、自分が言っていることが……あまり良く聞こえないな、とは思っていました。
でも、まさか私が「ただ怖いから」という理由だけで、ちゃんとした関係を壊してきたなんてこと、ある?
これまでの親しい友人たちとの関係を思い返して、私たちがどうやって摩擦を乗り越えてきたかをひとつずつ振り返ってみました。
私の人間関係は、たいていある環境の中で強く、濃く燃え上がるタイプです(学校とか職場とか)。でも、人生の変化とともに自然と離れていったり、逆に長く穏やかに続く炎として残ったりするパターンもあります。
私は、まず軽い話題で距離感を測ったり、少しずつ相手を探ったりはしないタイプ。最初からガツンと深いところに飛び込むタイプで、それを面白がってくれる人が、私の「仲間」です。
大学時代のルームメイトには、「あなたがパーティーを本当に楽しんでる時って、隅っこの席で初対面の人とずーっと話し込んでるときだよね」と言われたことがあります。
ちなみにそのルームメイトとは今でも友達です。しかも、私たちは一度ケンカしています。……めちゃくちゃ激しいやつ。
大声で叫び合う、本気の大ゲンカ。
その前には、ほぼ1学期にわたって続いた「無言の緊張感」がありました。冷蔵庫の中の物の位置をいちいち変えたり、目を合わせないことでお互いの不満を表現するっていう……。
……まあ、それはいい例じゃないかもですね(笑)。
「質問!」
私は30年来の親友にショートメッセージをしました。
「私たちって、今までにケンカしたことある?」
「多分あるけど、“怒ってた”っていうよりは、“すれ違い”だったんじゃない?」と彼女。
確かに、3つくらい「ちょっと気まずかったかも」というエピソードが思い出せるけど、そのうち明確に言葉にして向き合ったのは1つだけ(しかもそれ、メールで……たぶん、ちゃんと話し合ってすらいない)。
以前の私だったら、それを「良い関係の証」と思っていました。
常に同意し合えて、争いのない関係こそ平和。それが理想!って。
でも——
本当に「平和」とは、一方が心の中で静かに戦っている状態のことを言うの?
誰かの“本音”が犠牲になって成り立っている平和に、意味はあるの?
40歳に近づいてきた今、私はようやく見方が変わってきました。
自分が傷ついたり、居心地の悪さを感じたときにそれを隠していたり、相手がそうしているサインを見過ごしていたら、それは関係の中で“誠実でないこと”をしているのと同じ。
それは、ただ自分の「心の平和」を失うだけでなく、関係そのものを損なっているのです。
私は、表面的なつながりには興味がありません。
それなのに、こんなふうに自分の大切な人間関係の「成長」を、無意識のうちに妨げていたのだとしたら、とてもショックです。
だって、私の中で「成長」と「真実」は、一番大事な価値観だから。
「ねぇ、私たち、“健全な衝突”の練習、必要じゃない?」
そう親友にショートメッセージを送ってみました。
数分間、返事がこなくて、私は思わず笑ってしまいました。
「え、ちょっと待って、これでストレス感じてる? すごく感じるんだけど、あなたが今ストレス感じてるの(笑)」
「ははは、感じてるよ!今まさに“衝突”中じゃん!!」
お金との健全な関係を築くために:自分に合った予算管理を見つけよう
〜アプリ派も手書き派も、自分らしいマネープランのすすめ〜
「気づいたら今月も使いすぎていた」「貯金したいのに、何に使ってるのか分からない」
そんな悩みを抱える人は多いのではないでしょうか?
予算管理は、単に「節約すること」ではありません。
それは、「お金との向き合い方を見直すこと」であり、ひいては「自分との関係を見つめ直すこと」でもあります。
お金は、私たちの価値観や暮らし方を映す鏡のようなもの。だからこそ、自分に合った方法で予算を管理することが、ストレスを減らし、人生の質を高める第一歩になります。
この記事では、アプリ派と手書き派、それぞれにおすすめのツールを紹介しながら、予算管理を通してお金との健全な関係を築くヒントをお届けします。
【デジタル派におすすめ】日本で使える予算管理アプリ4選
1. マネーフォワード ME
https://moneyforward.com/
銀行、クレジットカード、電子マネーなどを自動連携してくれる定番アプリ。グラフ表示で収支の把握もしやすく、使い勝手◎。
おすすめ:忙しいけどしっかり家計を管理したい人
2. Zaim(ザイム)
https://zaim.net/
レシート読み取り機能つきで手入力が不要。医療費管理や家族共有もでき、柔らかいデザインで初心者にもやさしい。
おすすめ:家族と家計を共有したい人、アプリ初心者
3. OsidOri(オシドリ)
夫婦やカップルで家計を共有しやすい設計。共通の目標(旅行・引越しなど)を一緒に管理できます。
おすすめ:パートナーと家計管理を始めたい人
4. Moneytree(マネーツリー)
https://getmoneytree.com/jp/home
資産全体を見渡したい人向け。銀行、証券、ポイントまでまとめて管理可能で、セキュリティ面も安心。
おすすめ:貯蓄・投資含めて全体を把握したい人
【アナログ派におすすめ】書いて整える、手書き家計簿の魅力
アプリが便利なのは分かっていても、「やっぱり紙に書く方がしっくりくる」という人も多いはず。
手書き家計簿は、記録という行為を通してお金とじっくり向き合う時間をつくってくれます。
なぜ手書き?
- 記憶に残る:手を動かして書くことで、支出の実感が高まる
- 思考の整理になる:感情や気づきを書き込める
- “自分だけのノート”として愛着が湧く
- デジタル疲れの解消にも◎
手書き派に人気の家計簿ノート3選
1. 『づんの家計簿』シリーズ
インスタ発の人気家計簿。「書くことで整う」シンプルな構成が魅力で、日々の支出を丁寧に記録したい人にぴったり。
おすすめ:細かく見直したい人、書くことが好きな人
2. 無印良品『家計簿ノート』
https://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550344296868
ミニマルなデザインで、月ごとの収支をすっきり記録。余白も多く、自分流にカスタマイズしやすい。
おすすめ:シンプルに続けたい人、初心者
3. フランクリンプランナー 家計簿
https://www.franklinplanner.jp/shopping/form/t05/
目標設定、予算計画、振り返り……すべて詰まった“思考型”の家計簿。ライフプラン全体を見据えた設計です。
おすすめ:計画的にお金を使いたい人、将来を見据えたい人
お金と「対話する」習慣を持とう
お金との関係は、「管理」するものというより、「対話」するものです。
今月は何に一番お金を使った?その出費は、どんな気持ちからだった?
そんなふうに日々の支出を振り返ることで、自分が本当に大切にしたいことや、人生の優先順位が見えてきます。
アプリでも、手書きでも——大切なのは「自分に合った方法を選ぶこと」。
ストレスなく続けられるスタイルを見つけて、自分らしいマネープランを育てていきましょう。
今日から始められる「お金との小さな対話」——まずは1日分だけ記録してみませんか?
その1歩が、もっと自由で安心できる未来へのきっかけになるかもしれません。
「愛の言語」で解決!愛しているのに伝わらない。愛されているのかわからない。愛情のミスマッチを防ぐ秘訣
10歳の息子と5歳の娘に「どんな時に一番愛情を感じる?」と質問してみました。
息子は「ギューしてもらえるとき」と言い、娘は「ギューしてもらうのも嬉しいけれど、大好きって言ってもらえるのが一番嬉しい」と答えます。兄妹でも愛情の受け取り方は少し異なるようです。
そして、自分はどんな時に夫からの愛情を感じるのだろうかと考えてみました。
振り返れば、一緒にご飯を食べているときにスマホを見られるのがすごく嫌だ。これまであまり意識をしたことがなかったけれど、私は一緒に過ごす時間を大切にしているのかもしれない。
一方で夫はどうだろうか。私の誕生日には薔薇の花束を長らく送り続けてくれていた。もしかしたら、贈り物をすることで愛を伝えてくれていたのかもしれない。
『愛を伝える5つの方法』という本を読みながら、自分や家族の愛の受け取り方や伝え方について改めて目を向けることができました。
あなたはどんな時にパートナーからの愛を感じますか?
逆に、どんな時に「愛されていないのかも」と寂しさを感じますか?
この記事では、「愛の言語」と呼ばれる5つの愛情表現を紹介しながら、日々の人間関係をもっと温かくするヒントをお伝えします。
5つの「愛の言語」とは?
「愛の言語」とは、アメリカの心理学者ゲイリー・チャップマンが提唱した、愛情を伝えたり受け取ったりするための方法です。5つの「愛の言語」を理解することで、私たちは自分やパートナーの愛情表現の違いに気づき、より深い関係を築くことができます。
たとえば、英語が苦手な日本人が外国人とコミュニケーションを取ろうとする場面を想像してみてください。ジェスチャーや簡単な言葉で意思疎通は可能ですが、自分の気持ちを十分に伝えられなかったり、もどかしく感じることがあるでしょう。愛情表現もこれと同じです。相手の愛の言葉を理解せずに、自分なりに愛の言葉を伝え続けても、思いが届きにくいものです。
ゲイリー・チャップマンは『愛を伝える5つの方法』という著書の中で、「パートナーの『愛の一次言語』を見つけ、それを使いこなせるようになることが、愛情あふれる関係を長続きさせる鍵である」と述べています。
まずは、5つの「愛の言語」が具体的にどのようなものか、一つずつご紹介していきます。
1. 肯定的な言葉
「言葉」で愛情を感じるタイプの人は、好意的な言葉や感謝の気持ち、励ましの言葉を聞くことで心が満たされます。たとえば、「スーツ姿、かっこいいね」「お皿を洗ってくれてありがとう」「今日のご飯、すごく美味しい」「君なら絶対にできるよ」などの一言が、その人にとって大きな愛情表現になります。パートナーの愛の言語が「肯定的な言葉」の場合は、相手に対する愛情を、ポジティブな言葉で積極的に表現してみましょう。同じ言葉でも、思いやりを持って伝えることが大切です。
2. クオリティ・タイム
「一緒に過ごす時間」に愛情を感じる人にとって、最も大切なのは相手が「自分だけに集中してくれる時間」です。ただ一緒にいるだけではなく、会話に集中したり、趣味やイベントを共有することで、心が満たされます。たとえば、夕食中にスマホを置いて会話を楽しんだり、共通の体験を通じて絆を深めることが理想的です。
クオリティ・タイムを大切にする相手には、時間の質を意識して愛情を伝えましょう。忙しい日常でも、一緒に過ごす時間を大切にする姿勢が、相手にとって何よりの愛情表現になります。
3. 贈り物
贈り物は「あなたを大切に思っています」という気持ちを目に見える形にしたものです。そのため、「贈り物」を通じて愛情を感じる人にとって大切なのは、プレゼントそのものではなく、そこに込められた「思い」や「心を込めた行動」です。
贈り物タイプに愛情を伝える時は、相手を想いながら贈り物を選ぶことが重要です。また、物に限らず、困難な時や心細い時に寄り添うことも、最高の贈り物になるでしょう。
- サービス行為
「行動」や「手助け」を通じて愛情を感じる人は、相手が自分のために具体的な行動をしてくれることで愛を感じます。たとえば、重い荷物を代わりに持ってくれたり、家事を手伝ってくれたりといった行動です。
パートナーの愛の言葉がサービス行為の場合は、相手が何をしたら喜ぶかを考えながら動くことで愛情を伝えられます。「してほしいことを察して動く」姿勢が大切です。
5. 身体的なタッチ
「触れること」で愛情を感じる人は、ハグやキス、肩に軽く手を置くといった身体的接触から、安心感や親密さを得ます。日常の中でさりげない触れ合いが多いほど、愛情を実感することができます。一方で、距離を置かれたり触れることが少ないと、愛情が足りないと感じる場合もあります。
身体的なタッチを大切にする相手には、日常的なスキンシップを意識することがポイントです。たとえば、挨拶代わりにハグをしたり、外出時に手をつないだり。日常の中で意識的に触れ合うことで、心の距離を縮めることができるでしょう。
「愛情を伝えているのに、伝わらない」のは「愛の言語」が異なるから
愛情を表現し合うことは、カップルにとって非常に重要です。しかし、互いに「愛を伝えているつもり」でも、その表現方法が相手にとって響かない場合、すれ違いや不満が生じることがあります。
たとえば、男性の愛の言語が「身体的なタッチ」、女性の愛の言語が「肯定的な言葉」だとしましょう。
男性は、ハグをしたり、セックスすることで「君を愛している」という気持ちを伝えようとしますが、女性は「愛しているよ」や「あなたがいてくれて本当に嬉しい」といった言葉がなければ、愛情を十分に感じられないかもしれません。その結果、女性は「彼は愛を表現してくれていない」と感じ、男性は「こんなに触れ合っているのに、なぜ伝わらないんだ?」と困惑してしまうのです。
「愛しているのに、愛情が伝わらない」といったすれ違いを避けるためには、お互いの愛の言語を知ることが大切です。
まずは自分の「愛の言語」を知る
先ほどご紹介した5つの「愛の言語」、あなたは自分の「愛の言語」がどれか分かりますか?「これだ!」とすぐにピンとくる人もいれば、迷ってしまう人もいるかもしれません。
相手の「愛の言語」を知ることはもちろん大切ですが、まず理解すべきは、自分自身の愛の言語です。
書籍『愛を伝える5つの方法』では、「愛の言語」を知るために役立つ3つの質問が提案されています。この質問に答えることで、自分がどの愛情表現に最も満たされるのかを見つけられるでしょう。
1. パートナーがすること、またはしないことで、自分が傷つくことは何ですか?
この問いは、あなたが何に敏感に反応するかを探る手助けをします。たとえば、「ありがとう」とあまり言ってくれないことが悲しいと感じるなら、それは「肯定的な言葉」があなたの愛の言語である可能性があります。
2. パートナーに最も願ってきたことは何ですか?
これまで相手に最も求めてきたものは何でしょうか?たとえば、「もっと一緒に過ごしたい」と思うことが多い場合、それは「クオリティ・タイム」があなたの愛の言語かもしれません。
3. いつもどのようにパートナーに愛を表現していますか?
あなたが相手に愛情を伝える方法も、あなた自身の「愛の言語」を知るヒントになります。たとえば、自然と家事を手伝ったり、プレゼントを贈ったりしている場合、それがあなたが最も重視している愛の表現かもしれません。
相手の「愛の言語」を知る方法
ゲイリー・チャップマンの著書には、愛の言語を確認するためのテストが付属しており、30の質問に答えるだけで、自分やパートナーがどの「愛の言語」を重視しているかが分かります。テスト結果を共有すれば、お互いの価値観を知るきっかけにもなるでしょう。
ただし、必ずしもテストを受ける必要はありません。普段の生活から、相手の愛の言語を推測することもできます。
たとえば、相手がどんな時に一番喜ぶのか、逆にどんな時に不満げにしているのかを考えてみたり、直接「どんな時に愛を感じる?」「私が何をしたら一番嬉しい?」と質問してみたりするのも良いでしょう。
相手の愛の言語を完璧に理解するには時間がかかるかもしれませんが、相手を理解しようとする姿勢そのものが、愛情を深める鍵になるかもしれません。
カップルだけじゃない、親子や友人にも活用できる
「愛の言語」は、カップルに限らず、家庭や職場、友人関係など、どんな人間関係にも活用できます。
身近な人との関係がぎこちなく感じる時には、「あの人の愛の言語は何だろう」と考えてみてください。
お互いの愛情表現を知り、それを意識して伝え合うことで、より良い関係が築けるかもしれません。
参考書籍:愛を伝える5つの方法 ゲーリー チャップマン (著), ディフォーレスト 千恵 (翻訳)
地球にも赤ちゃんにも優しい:成長をサポートする6つのエコフレンドリーおもちゃ
大人になってから友達を作るのは大変?でも大人になったから築ける友情もある
大人になると学生の頃からは180°変わるもの。
その一つに”友達”の存在があると思います。
どれだけ仲が良かった人も、それぞれの道を歩むうちにいつの間にか疎遠になっていたり、逆に苦手なタイプと思っていた人と急激に仲が深まったり…
今回は大人になって感じた、”友達”という存在に対する捉え方の変化をシェアしたいと思います。
大人になると”友達を作る”の難しすぎる問題
私は学生の頃から友達はあまり多くなく、狭く深い人間関係に心地よさを感じるタイプでした。
しかも、自ら外に出て新しい交友を築くのではなく、自分のもとに舞い込んできてくれた縁を大事に育てていきたいタイプ。
そんな人間が大人になると、どうなるか……
あるときから、友達がぱったりできなくなりました。
社会に出て数年は、それを実感する機会はさほどありませんでした。
Uターン就職で地元に帰ったことで昔の友達もいたし、会社は会社で同期が150人もいたので、研修などで顔を合わせるうちにすぐに何人か気の合う友達ができたからです。
ただ、しばらくすると地元の友達は結婚などで、同期も異動や転職などで県外に出ていってしまう、そんなことがちらほら起こりはじめました。
ふらっと誘える友達が、急に減っていったんです。
それでもまだ「まあそのうち新しい縁がどこかから舞い込んでくるだろう」と呑気に構えていたのですが、自分自身も異動や転職をするうちに、とうとう現実に直面にします。
新しい縁が、舞い込んでこない…。
異動先や転職先がそもそも同世代の少ない職場だったり、会社の飲み会もコロナ禍以降は必要最低限みたいな雰囲気だったり…(会社の飲み会って面倒なことも多いけど、実は受け身人間にとっては唯一縁を取り込むきっかけだったりするんですよね)
受け身でいても勝手に縁が舞い込む、そんなことが通用しなくなっていたのです。
かといって、腹を括り新しい交友を求めて自ら外に出ても、なかなか上手くいかないもの。
まず、どうやったら新しい人と出会えるのかが分からないんです。
よく趣味や習いごとを始めたり、行きつけの飲み屋をつくれば人と出会えるなんて言いますが、それはそれでいろいろ考えてしまうタイプの私は、一歩も動けなくなるんです。
何の趣味や習いごとをすればいいのか、行きつけにするなら美味しいお店がいいし、なおかつ通えるくらいの予算感であってほしいし、何だかんだマスターとの相性も大事だし…
そうやって足踏みしまくった挙句、変な一歩を踏み出して結局誰とも出会えなかったりと、完全に迷走していました。
大人になって友達を作るのは諦めたほうがいい
そんな迷走期をしばらく経ると、途端に何もかもが面倒くさくなる瞬間が訪れました。
友達を作るのを諦めた、”開き直りフェーズ”です。
一人の時間は大好きなんだから無理して友達を作る必要もないし、どうせ死ぬときには一人なんだし、なんて言い聞かせるように好きなことに没頭。
推しのライブに時間とお金を費やしたり、こうしてエッセイのような文章をポツポツnoteにしたためたりしていました。
すると不思議なことに、それぞれの領域でいつの間にか”友達”ができていたんです。
推し活で出会ったファンの方が声を掛けてくれて、何度かライブ後にご飯に行くようになり、一緒に泊まりがけで遠征(遠方のライブやイベントに参加すること)までしたり。
推しのライブの感想をひたすらぶちまけたnoteには、また別のファンの方たちが反応してくれて、ちょこちょこSNSで交流することもあります。
noteではライターさんとも交流も増えました。
なかでも特に、直感でもっと仲良くなれそうと感じた方には、私から実際にお会いしたいと声を掛けたりもしました。
内向的な人間なはずなのに、自分でも驚きの行動です。
実際、当日はとてもドキドキしましたが、いざ会ってみると直感通り。初対面なのにとても居心地がよくて会話が弾み、その後も相手からお誘いがあったりと定期的に交流が続いています。
無理やり奮い立たせて友達を作ろうとしてもダメだったのに、開き直った途端、急に自然な流れで友達ができるようになったんです。
大人になると”気の合う友達”の幅が広がる
もちろん、こういう機会がたくさんあるわけではありません。
ただこうした流れでできる友達って、なんというか、相性の精度がとても高い気がします。
出会ってそんなに月日が経っていなくても、会話のテンポが気持ちよくハマったり、泊まりで旅行までできたり、お店選びのポイントが似ていたり。
そういうのって、長く付き合うからこそ構築されるものだと思っていました。
学生の頃は無意識に「過ごした時間が長いほど仲良くなる」という感覚が、根底にあった気がします。
長く時間を共にすることでお互いをよく知り、好みや考え方のすり合わせもできるから、親友と思えるほどの仲になる。
でも逆に、クラス替えや進学、あるいはもっと他愛もない要因で一緒にいない時間が続くと、仲が悪くなったわけではないのになんとなく疎遠になる。
学生の頃は、そんなことが自分も周りでもよく起こっていました。
皆さんもそういう経験ありませんか?
当然それでも、れっきとした友達だったとは思うのですが、大人の友情は必ずしもそういうことでは成り立たない。
仕事に家庭にそれぞれの人生があり、べったり一緒にいることなんてできませんもんね。
では、一緒に過ごした時間の長さではないとしたら、仲のいい友達になれる要素はどこにあるのか。
個人的にはどれだけ「コイツ、おもろいな」と思えるか、これに帰結するのではないかと感じています。
分かりやすいのは、考え方や嗜好が近いことでしょう。
実際私も、推し活やライターなど好きなことを通して友達ができています。
好きなものやマインドの傾向を同じくして集まった人とは、たとえバックグラウンドがバラバラでも結構すぐに仲良くなれる。
今となっては、趣味や習いごとで友達を作ることの真意も、ここにあったんだなと腑に落ちます。
一方で、大して価値観が近くなくても仲良くなれるケースも多々あります。
よく驚かれるのですが、私は未だに小学校の同級生何人かと結構な頻度で交流があります。
幼馴染というほど濃い関係ではなく、卒業来連絡を取っていなかった人、しかも小学生当時すらほとんど交流がなく顔見知り程度だった人も多いです。
にもかかわらず、ひょんなことから十年越しに再会し、今では朝まで飲む仲になっています。
そのメンバーの性格は本当にさまざまです。
大学も業種も当然バラバラ、大切にしたいこと、好きなことも違うし、私と似てちょっと閉鎖的な人もいれば、軽やかでオープンな人もいます。
共感しあって盛り上がることもあれば、興味のない話はお互い適当にあしらうこともある。
それでも険悪にはならないし、だいたいはくだらないことでゲラゲラ笑っていて、妙に居心地のよいメンバーなのです。
共通点はただ同じ小学校に通っていたというだけで、再会までの約十年は全く違う道でバラバラの価値観を形成してきたはずのなのに。
それでも自然とわらわら定期的に集まるのは、お互いどこかしらに”人としての面白さ”を感じていたり、違う中にも一瞬見える”同じ匂い”を感じ取っているからなのかもしれません。
そしてこの感覚こそ、大人になるうちに体得したものだと思うんです。
歳を重ねるごとに自分の常識はどんどんぶち壊され、どんどん知らなかった世界を知り、たくさんの人や価値観にも出会います。
いろんな人がいるという数の話だけではなく、一個人のなかにすら、様々な経験や価値観が複雑に絡み合っているという深さも分かってくるようになる。
それまで自分が持っていた”人間データベース”に膨大なデータが流れ込んできて、急速にアップデートされていく感じ。
その中で、価値観が近かろうが正反対だろうが人として面白さを感じることはあるし、そう感じた時点で良い友達になれる確率は結構高いということを、身をもって学んできたのではないか。
そういうことを最近しみじみ感じるのです。
友情にも”メンテナンス”が必要
友達という存在について、もう一つ最後に書いておきたいことがあります。
それは旧い友達と久々にお茶をしていたときに、その友達から飛び出したことばです。
「友達も、メンテナンスが大事やんな」
メンテナンスというと事務的で無機質に聞こえるかもしれませんし、私も一瞬「めっちゃ機械みたいに言うやん…」と思いました。
意図としては、どれだけ仲の良い人も定期的に会ったり話したりしないと、関係は意外と簡単に崩れてしまうと言いたかったそう。
私も一瞬はたじろぎつつも、すぐにそれを直感的に理解しました。
親友だと思っていた学生の頃の友達も、今となってはどこで何をしているのかも知らない、そんなことが私自身ちらほらあるからです。
卒業してからも連絡を取ろうと思えば取れたし、実際ご飯にも何度かは行ったけど、その後はお互い特にアクションを起こさなかった。
大人になると、仕事に家庭にそれぞれまったく違う人生を歩むからこそ、意識してつながろうとしないとはぐれてしまうのは考えてみれば当然ですよね。
だからこそ、いつまでも縁の糸をつないでいたい相手はちゃんと定期的に会う。
糸が切れかけていないか、変にねじれて絡まっていないか、点検するメンテナンスが必要なんだと思います。
近況報告をして、新しい刺激を与えあって、いろんな困難を乗り越えてきたことを称えあって、くだらないことで笑い飛ばすことで、その糸はまた頑丈になっていく。
期間が空いても、会うとすぐいつも通りに戻れる友達って、このメンテナンスがきちんとできている証拠だと思うんです。
そう気づいてからは、私も会いたい人やもっと仲良くなりたいと思った人には、自ら声を掛けるよう意識しています。
誘うのって正直勇気がいるけれど、逆の立場だったら声を掛けてくれただけで嬉しいものですからね。
たとえ断られて、その後の音沙汰がなかったとしても「あら、片想いだったか~」とか「今は違ったかな」で済ませればいいのです。それも縁だから。
お互い縁をつなぎたいと思ったら、またいつかどこかでつながる。
それくらいゆるく長い目で捉えるようになったのも、大人になってからの変化かもしれません。
大人になったからこそ築ける友情を大切に育む
大人になるとどれだけ一緒にいるかではなく、その友情が続いていること自体が心の支えになるし、人生を豊かにしてくれる。
最近しみじみそう感じることが多く「やっぱり私は狭く深くの人間関係を大事にしたい」と一周回って腑に落ちています。
会いたいから会う、知りたいから話す、そういうシンプルな理由で素直に動いていれば、自分の人生で本当に大事にすべき友達はちゃんとずっとそばに居てくれるのではないでしょうか。
子どもとのふたり旅 。24時間以上一緒に過ごすことで見えてくる一面【Editor’s Letter vol.11】
2024年度は、長女とバージニア州、次女とシアトル、三女とはサンディエゴへ、それぞれ「ふたり旅」に出かけました。
毎年恒例となったそれぞれの娘たちとのふたり旅。一対一の時間を過ごす中で、子どもたちの新たな一面を知り、親子の絆が深まる瞬間がたくさんあります。
今回は、ふたり旅を始めたきっかけや、旅を通じて気づいたことをお伝えしたいと思います。
きっかけは「ママは私のことを何もわかっていない」というひと言
私が子どもとふたり旅を始めたきっかけは、次女のひと言でした。
「ママは私のことを何もわかってない」
「ママと二人きりの時間が欲しい」
三女が生まれてしばらくした頃、次女はそんなふうに言いました。きっと妹が生まれたことで、ママを取られたような寂しさを感じていたのでしょう。
子どもが複数いると、常に一人ひとりと向き合うことは難しいのが現実。もっと娘たちの気持ちや思いを知りたいと思い、子どもたちそれぞれとふたりきりの旅に出ることを決めました。
スマホと距離をとり、旅行中は子どものやりたいことをやる
行き先は子どもの興味に合わせて事前にいくつかピックアップして、最終的には子どもと一緒に決定します。
たとえば、去年は長女と独立戦争にゆかりのあるバージニア州にあるウィリアムズバーグへ訪れました。彼女がアメリカの独立戦争に興味を持っていたからです。
旅の最中で意識しているのは、基本的には子どもの「やりたいこと」を優先すること。そして、スマホを見る時間を必要最低限にすることです。
もちろん事前の下調べはある程度行います。たとえば、美術館のチケットを取ったり、プールのスケジュールを確認したり、レストランを予約しておいたり。現地では、地図やUberを使うとき以外はなるべくスマホを見ないようにし、地図を見るときも子どもと一緒に画面を確認するようにしています。
普段私がイライラしてしまう原因のほとんどは姉妹喧嘩ですが、母子ふたり旅では姉妹喧嘩は起こりません。そのため、私自身も穏やかな気持ちで子どもと向き合えます。
2人だけで24時間以上過ごすからこそ見えてくることがある
日常の合間に子どもと二人でご飯を食べに行ったり、買い物をしたりするのも、もちろんかけがえのない時間です。でも、24時間以上一緒に過ごすことで、普段とは違う一面にたくさん気づけるのです。
たとえば、次女は普段、ダラダラ遊んで後回しにして歯磨きやシャワーにとても時間がかかるタイプです。ところが、ふたり旅の間は、自分でさっさと準備を進めて、私の支度が終わるのを待ちながら一人で持っていった少量の小さなお人形やホテルにあるノートに絵を描いて遊んでいました。
また、いつもは甘えん坊で私にくっついていることが多いのに、旅先では少し自立しているように感じ会話もたくさん楽しみました。普段は、お姉ちゃんと妹に囲まれているので「もっと私を見てほしい」という気持ちが行動に表れて逆にウニャウニャしていたのかもしれません。
そしてそんな彼女の成長をみて「〇〇ちゃんは準備が遅くて甘えん坊な性格」。そんなふうに無意識にレッテルを貼っていた自分にハッとしました。
旅先で夜寝る前に、次女に「旅行の時は支度が早くさっさとできるけれど、家だとどうして時間がかかるの?」と聞いてみました。すると、「家だと、いろんなものが目に入ったり、音や皆んなの声が聞こえたりして、集中できないんだよね」と返ってきたのです。あー、やりたくないからダラダラしてしまうのではなくて、周りに気が散ってしまうのか。
家族で暮らしているので生活音を減らすのはなかなか難しいけれど、歯磨きをする場所を変えてみたり、先に始めるよう促してみたり、小さな工夫で改善できることがあると感じました。
一番下の娘とは、彼女が4歳のときにパームスプリングスへ行きました。ホテルのプールをメインに、ゆったりと過ごす旅です。
プールでしばらく遊んでいると、三女が「もう部屋に帰りたい」と言い出しました。部屋に戻ってからは、お絵描きをしたり、のんびりおやつを食べたりして過ごします。そして1時間ほど休むと、「またプールに行こう!」と元気いっぱいに誘ってくれるのです。
この旅を通じて気づいたのは、三女は周りの音や情報に疲れやすく、時折休憩を挟むことで自分をリセットできるということ。だから、家族全員での旅行では皆んなのペースに合わせないといけない場面も多く、彼女の限界を越えてしまう場合に泣いたり駄々をこねたり、わざわざ喧嘩を姉妹にふっかけたりしていたのか。これもふたり旅をしたからこそ気がつけたことです。
また、長女とのふたり旅では、「ママはここに行ってみたいな」「これをやってみない?」と、私自身が長女に提案する場面が多いことに気がつきました。長女はあまりこだわりがなく、ママと一緒にいられればそれでいいタイプの子でこれやりたい、あれやりたいと願望が強くありません。日頃から自分の意思を言葉にすることの大切さを話していますが、「ママ、私がどっちでもいいよ、っていつもいう時はね、本当にどっちでもいいってこだわりがないからなんだよ。」と言われました。それでも、普段上手に甘えられないお姉ちゃんにとってママを独り占めできて、また、彼女にとって興味のあることがたくさん知れてかけがえのない時間です。
本当に困った時に頼ってもらえる、親子の絆を育むために
私にとって娘たちとのふたり旅は、日常ではなかなか気づけない子どもの一面を知る貴重な機会であり、今からきちんと信頼関係を築いておきたいと願う私の「将来への貯金」です。
子どもたちが大きくなって手が離れてきた時でも、本当に困ったときには真っ先に相談してほしいし、ひとりで苦しまないでほしい。そんな願いを込めて、年に一回ふたり旅に行き、娘たち一人ひとりと向き合う時間を大切にしています。親にしっかりと向き合ってもらった記憶は、成長していく中でその子の自信や心の支えになると信じているからです。
親子でも、パートナーでも、友達でも、きちんと向き合い、時間を共に過ごさなければ、気づかないうちに心の距離が離れてしまうものです。人との絆を育むためには、心を通わせる努力が必要です。これからも大切な人とじっくり向き合う時間を積み重ねていきたいと思います。