親しい友人関係における「開かれた、思いやりのある衝突」のすすめ
人生の大半を通して、私は「健康的な関係」とは「衝突がないこと」だと思っていました。
「私たち、一度もケンカしたことないんだよね」なんて、恋人や親しい友人について語るとき、その言葉を「良い関係」の言い換えとして使っていたのです。
でも当時の私は気づいていませんでした。自分の人生に衝突が少なかったのは、偶然なんかじゃなく、私がものすごく一生懸命に、衝突を避けようと努力していたからだということに。
母は私が小さい頃から、「あなたのことは心配していない」とよく言っていました。
「あなたは、どこに植えられてもちゃんと花を咲かせるタイプだから」
私はその言葉が気に入って、それを自分の信条のように受け入れてきました。
柔軟性がある、立ち直る力がある、適応力がある——周囲の人たちは私のことをそう褒めてくれました。私は折り合いをつけられる人間だったし、協調的だったし、本当に“問題解決型”の人間だと思っていました。
でもこういう性質を自分の価値の一部と信じ込んでいたからこそ、それを維持することが実は簡単ではなかったことに気づけませんでした。そして、それには必ずしも“代償がなかった”わけではなかったのです。
何度も(何度も、何度も!)、私は小さな違和感やモヤモヤを見て見ぬふりしてやり過ごすことを選んできました。だって、それに向き合うなんて「サバサバしていない」し、「細かい」とか「面倒な人」って思われるかもしれないから。
たとえば、本当はサラダが食べたかったのに空気を読んでピザに賛成したり(雰囲気壊したくないし!)、誰かの嫌味や傷つく一言を「そんなつもりで言ったわけじゃないよね」と笑って受け流したり。私はいつの間にか、自分の本当の気持ちを飲み込むクセを身につけていました。口に出すより、我慢してやり過ごした方が楽。そう思い込んでいたのです。
「大丈夫。私なら平気」
「これくらいなら我慢できる」
これらが私の口癖で、イヤな気持ちを自分の中で処理して、心地よいことに意識を向けて、自分は“感じのいい人”であり続ける。それが、自分の価値だと信じていたのです。
でも、うまくいかないときもあるんです。
何度目かの「食べたくない重めの食事」や、「傷つくけど大したことじゃない“冗談”」を我慢した後、私は見えないところで少しずつ苛立ちを募らせていきます。気づけば、頭の中でそのときの場面を繰り返し再生しながら、心の中で怒りが燃え始めているのです。
「これが初めてじゃない」
私はそう思いながら、今まで受けてきた失礼な言動や、軽視された出来事のリストを思い出し始めます。私にも、人に優しくしていられる限度がある。そしてその一線を越えると、私は無言の戦闘モードに突入するのです。
ランニング中、シャワー中、通勤中。
私は空想の中で相手を叱りながらひとりで言い返す。
目は前を見据え、心臓はドキドキと鳴り響き、完璧な「正義の正論パンチ」を作り上げては、相手の心をズタズタにする想像をしているのです。
「あなたは、最初から私のことも、他の誰のことも尊重なんてしてこなかった」
「私はもう、あなたの自分への“リスペクト”のために戦いたくないの」
一度この思考に入ってしまうと、その関係はもう元には戻れなくなっていました。そして私の中では、2つのどちらかの結末に向かうしかないと感じていたのです。
ひとつは、その衝突が現実の世界で表に出てくること。もうひとつは、その人との関係が完全に終わること。
でも、たとえ何が起ころうと、私にとっては、「不快な会話をすること」よりはマシに思えました。
だって、「あなたの言葉に傷ついた」とか「私はそうは思わない」と伝えることには、とても大きなリスクがあるように感じていたからです。
もし相手が逆ギレしたら?
軽くあしらわれたら?
「あなたって繊細すぎるよ」と言われたら?
「めんどくさい人だな」と思われて、離れていかれたら?
私が思っているほど、私は柔軟でも協調的でもないとバレてしまったら——そのとき、自分にはもう親しい人間関係なんて残らないんじゃないかと思っていたのです。
衝突?それとも戦い?
今では(そして読んでくれているあなたもきっと)、「私は恐れに支配されていた」とはっきり分かります。でも、セラピストに「初めて衝突を怖いと感じたのはいつですか?」と聞かれたとき、私は驚きました。
私が戸惑っているのを見て、彼女は言い方を変えました。
「衝突が怖くなかった頃を覚えていますか?」
私はさらに混乱し、思わず笑ってしまいました。
「衝突が平気な人なんて、いるんですか?」
彼女は何も言わず、私が自分で答えるのを待ちながら、意味深な微笑みを浮かべました。
でも考えてみると、その問いは私には当てはまらないものでした。
「私はあまり人とケンカしないんです」と言ったとき、私は彼女が褒めてくれるだろうと思っていました。
でも、そうはなりませんでした。
「ご家族とは?」と彼女が尋ねました。「ご両親や兄弟とは?」
子どもの頃、兄と姉とは普通の兄弟喧嘩をしていました。けれど、今はみんな別の場所に住んでいて、特別仲が良いわけでもありません。
お互いあまり連絡を取らず、なんとなくの不満がくすぶっているような距離感。けれど、それが“兄弟ってもの”でしょ?
イライラすることがあっても、わざわざ言い争うほどのことじゃないし。
両親ともケンカしたことはありません。でも、私はもう10年以上も両親の近くで暮らしていません。
思春期の頃、両親はよく口喧嘩をしていて、私もその議論に加わることがよくありました。あの頃特有の情熱と反抗心を抱えて。でも、それって普通のことじゃない?
すると、セラピストがこう言いました。
「あなた、“ケンカ”って言葉をよく使いますね。あなたにとって“衝突”って、“戦い”だと思っていますか?」
……たしかに。
戦いじゃなかったら、それは衝突と呼べるの?
私はその問いを口に出す前に、心のどこかで気づいていました。人と対立する感情や緊張、不快感を「戦い」にしなくても処理する方法があるということに。でも、私はそれを経験したことがなかったのです。
誰かが自分と違う意見を持っていると感じたとき、私は無意識に“先回り”して、それを避けるために自分の意見を控えめにしたり、もっと好かれるように振る舞ったりしていました。
そして、もしその引き出しがもう空っぽになっていて、いつものように柔らかく対応する余裕がなくなっていたら、私は防衛モードに入り、その人との距離を取ることで自分を守ろうとしていました。
そのとき、相手が傷つくかどうかなんて、正直どうでもよかった。
私の中では、もうとっくに“戦い”は始まっていて、
「この関係は“有害”だ」と思い込むことで、離れることを正当化していたのです。
だって、もうたくさん傷ついてきたんだから。
それは——相手のせい。でしょ?
話しながら、自分が言っていることが……あまり良く聞こえないな、とは思っていました。
でも、まさか私が「ただ怖いから」という理由だけで、ちゃんとした関係を壊してきたなんてこと、ある?
これまでの親しい友人たちとの関係を思い返して、私たちがどうやって摩擦を乗り越えてきたかをひとつずつ振り返ってみました。
私の人間関係は、たいていある環境の中で強く、濃く燃え上がるタイプです(学校とか職場とか)。でも、人生の変化とともに自然と離れていったり、逆に長く穏やかに続く炎として残ったりするパターンもあります。
私は、まず軽い話題で距離感を測ったり、少しずつ相手を探ったりはしないタイプ。最初からガツンと深いところに飛び込むタイプで、それを面白がってくれる人が、私の「仲間」です。
大学時代のルームメイトには、「あなたがパーティーを本当に楽しんでる時って、隅っこの席で初対面の人とずーっと話し込んでるときだよね」と言われたことがあります。
ちなみにそのルームメイトとは今でも友達です。しかも、私たちは一度ケンカしています。……めちゃくちゃ激しいやつ。
大声で叫び合う、本気の大ゲンカ。
その前には、ほぼ1学期にわたって続いた「無言の緊張感」がありました。冷蔵庫の中の物の位置をいちいち変えたり、目を合わせないことでお互いの不満を表現するっていう……。
……まあ、それはいい例じゃないかもですね(笑)。
「質問!」
私は30年来の親友にショートメッセージをしました。
「私たちって、今までにケンカしたことある?」
「多分あるけど、“怒ってた”っていうよりは、“すれ違い”だったんじゃない?」と彼女。
確かに、3つくらい「ちょっと気まずかったかも」というエピソードが思い出せるけど、そのうち明確に言葉にして向き合ったのは1つだけ(しかもそれ、メールで……たぶん、ちゃんと話し合ってすらいない)。
以前の私だったら、それを「良い関係の証」と思っていました。
常に同意し合えて、争いのない関係こそ平和。それが理想!って。
でも——
本当に「平和」とは、一方が心の中で静かに戦っている状態のことを言うの?
誰かの“本音”が犠牲になって成り立っている平和に、意味はあるの?
40歳に近づいてきた今、私はようやく見方が変わってきました。
自分が傷ついたり、居心地の悪さを感じたときにそれを隠していたり、相手がそうしているサインを見過ごしていたら、それは関係の中で“誠実でないこと”をしているのと同じ。
それは、ただ自分の「心の平和」を失うだけでなく、関係そのものを損なっているのです。
私は、表面的なつながりには興味がありません。
それなのに、こんなふうに自分の大切な人間関係の「成長」を、無意識のうちに妨げていたのだとしたら、とてもショックです。
だって、私の中で「成長」と「真実」は、一番大事な価値観だから。
「ねぇ、私たち、“健全な衝突”の練習、必要じゃない?」
そう親友にショートメッセージを送ってみました。
数分間、返事がこなくて、私は思わず笑ってしまいました。
「え、ちょっと待って、これでストレス感じてる? すごく感じるんだけど、あなたが今ストレス感じてるの(笑)」
「ははは、感じてるよ!今まさに“衝突”中じゃん!!」
お金との健全な関係を築くために:自分に合った予算管理を見つけよう
〜アプリ派も手書き派も、自分らしいマネープランのすすめ〜
「気づいたら今月も使いすぎていた」「貯金したいのに、何に使ってるのか分からない」
そんな悩みを抱える人は多いのではないでしょうか?
予算管理は、単に「節約すること」ではありません。
それは、「お金との向き合い方を見直すこと」であり、ひいては「自分との関係を見つめ直すこと」でもあります。
お金は、私たちの価値観や暮らし方を映す鏡のようなもの。だからこそ、自分に合った方法で予算を管理することが、ストレスを減らし、人生の質を高める第一歩になります。
この記事では、アプリ派と手書き派、それぞれにおすすめのツールを紹介しながら、予算管理を通してお金との健全な関係を築くヒントをお届けします。
【デジタル派におすすめ】日本で使える予算管理アプリ4選
1. マネーフォワード ME
https://moneyforward.com/
銀行、クレジットカード、電子マネーなどを自動連携してくれる定番アプリ。グラフ表示で収支の把握もしやすく、使い勝手◎。
おすすめ:忙しいけどしっかり家計を管理したい人
2. Zaim(ザイム)
https://zaim.net/
レシート読み取り機能つきで手入力が不要。医療費管理や家族共有もでき、柔らかいデザインで初心者にもやさしい。
おすすめ:家族と家計を共有したい人、アプリ初心者
3. OsidOri(オシドリ)
夫婦やカップルで家計を共有しやすい設計。共通の目標(旅行・引越しなど)を一緒に管理できます。
おすすめ:パートナーと家計管理を始めたい人
4. Moneytree(マネーツリー)
https://getmoneytree.com/jp/home
資産全体を見渡したい人向け。銀行、証券、ポイントまでまとめて管理可能で、セキュリティ面も安心。
おすすめ:貯蓄・投資含めて全体を把握したい人
【アナログ派におすすめ】書いて整える、手書き家計簿の魅力
アプリが便利なのは分かっていても、「やっぱり紙に書く方がしっくりくる」という人も多いはず。
手書き家計簿は、記録という行為を通してお金とじっくり向き合う時間をつくってくれます。
なぜ手書き?
- 記憶に残る:手を動かして書くことで、支出の実感が高まる
- 思考の整理になる:感情や気づきを書き込める
- “自分だけのノート”として愛着が湧く
- デジタル疲れの解消にも◎
手書き派に人気の家計簿ノート3選
1. 『づんの家計簿』シリーズ
インスタ発の人気家計簿。「書くことで整う」シンプルな構成が魅力で、日々の支出を丁寧に記録したい人にぴったり。
おすすめ:細かく見直したい人、書くことが好きな人
2. 無印良品『家計簿ノート』
https://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550344296868
ミニマルなデザインで、月ごとの収支をすっきり記録。余白も多く、自分流にカスタマイズしやすい。
おすすめ:シンプルに続けたい人、初心者
3. フランクリンプランナー 家計簿
https://www.franklinplanner.jp/shopping/form/t05/
目標設定、予算計画、振り返り……すべて詰まった“思考型”の家計簿。ライフプラン全体を見据えた設計です。
おすすめ:計画的にお金を使いたい人、将来を見据えたい人
お金と「対話する」習慣を持とう
お金との関係は、「管理」するものというより、「対話」するものです。
今月は何に一番お金を使った?その出費は、どんな気持ちからだった?
そんなふうに日々の支出を振り返ることで、自分が本当に大切にしたいことや、人生の優先順位が見えてきます。
アプリでも、手書きでも——大切なのは「自分に合った方法を選ぶこと」。
ストレスなく続けられるスタイルを見つけて、自分らしいマネープランを育てていきましょう。
今日から始められる「お金との小さな対話」——まずは1日分だけ記録してみませんか?
その1歩が、もっと自由で安心できる未来へのきっかけになるかもしれません。
「愛の言語」で解決!愛しているのに伝わらない。愛されているのかわからない。愛情のミスマッチを防ぐ秘訣
10歳の息子と5歳の娘に「どんな時に一番愛情を感じる?」と質問してみました。
息子は「ギューしてもらえるとき」と言い、娘は「ギューしてもらうのも嬉しいけれど、大好きって言ってもらえるのが一番嬉しい」と答えます。兄妹でも愛情の受け取り方は少し異なるようです。
そして、自分はどんな時に夫からの愛情を感じるのだろうかと考えてみました。
振り返れば、一緒にご飯を食べているときにスマホを見られるのがすごく嫌だ。これまであまり意識をしたことがなかったけれど、私は一緒に過ごす時間を大切にしているのかもしれない。
一方で夫はどうだろうか。私の誕生日には薔薇の花束を長らく送り続けてくれていた。もしかしたら、贈り物をすることで愛を伝えてくれていたのかもしれない。
『愛を伝える5つの方法』という本を読みながら、自分や家族の愛の受け取り方や伝え方について改めて目を向けることができました。
あなたはどんな時にパートナーからの愛を感じますか?
逆に、どんな時に「愛されていないのかも」と寂しさを感じますか?
この記事では、「愛の言語」と呼ばれる5つの愛情表現を紹介しながら、日々の人間関係をもっと温かくするヒントをお伝えします。
5つの「愛の言語」とは?
「愛の言語」とは、アメリカの心理学者ゲイリー・チャップマンが提唱した、愛情を伝えたり受け取ったりするための方法です。5つの「愛の言語」を理解することで、私たちは自分やパートナーの愛情表現の違いに気づき、より深い関係を築くことができます。
たとえば、英語が苦手な日本人が外国人とコミュニケーションを取ろうとする場面を想像してみてください。ジェスチャーや簡単な言葉で意思疎通は可能ですが、自分の気持ちを十分に伝えられなかったり、もどかしく感じることがあるでしょう。愛情表現もこれと同じです。相手の愛の言葉を理解せずに、自分なりに愛の言葉を伝え続けても、思いが届きにくいものです。
ゲイリー・チャップマンは『愛を伝える5つの方法』という著書の中で、「パートナーの『愛の一次言語』を見つけ、それを使いこなせるようになることが、愛情あふれる関係を長続きさせる鍵である」と述べています。
まずは、5つの「愛の言語」が具体的にどのようなものか、一つずつご紹介していきます。
1. 肯定的な言葉
「言葉」で愛情を感じるタイプの人は、好意的な言葉や感謝の気持ち、励ましの言葉を聞くことで心が満たされます。たとえば、「スーツ姿、かっこいいね」「お皿を洗ってくれてありがとう」「今日のご飯、すごく美味しい」「君なら絶対にできるよ」などの一言が、その人にとって大きな愛情表現になります。パートナーの愛の言語が「肯定的な言葉」の場合は、相手に対する愛情を、ポジティブな言葉で積極的に表現してみましょう。同じ言葉でも、思いやりを持って伝えることが大切です。
2. クオリティ・タイム
「一緒に過ごす時間」に愛情を感じる人にとって、最も大切なのは相手が「自分だけに集中してくれる時間」です。ただ一緒にいるだけではなく、会話に集中したり、趣味やイベントを共有することで、心が満たされます。たとえば、夕食中にスマホを置いて会話を楽しんだり、共通の体験を通じて絆を深めることが理想的です。
クオリティ・タイムを大切にする相手には、時間の質を意識して愛情を伝えましょう。忙しい日常でも、一緒に過ごす時間を大切にする姿勢が、相手にとって何よりの愛情表現になります。
3. 贈り物
贈り物は「あなたを大切に思っています」という気持ちを目に見える形にしたものです。そのため、「贈り物」を通じて愛情を感じる人にとって大切なのは、プレゼントそのものではなく、そこに込められた「思い」や「心を込めた行動」です。
贈り物タイプに愛情を伝える時は、相手を想いながら贈り物を選ぶことが重要です。また、物に限らず、困難な時や心細い時に寄り添うことも、最高の贈り物になるでしょう。
- サービス行為
「行動」や「手助け」を通じて愛情を感じる人は、相手が自分のために具体的な行動をしてくれることで愛を感じます。たとえば、重い荷物を代わりに持ってくれたり、家事を手伝ってくれたりといった行動です。
パートナーの愛の言葉がサービス行為の場合は、相手が何をしたら喜ぶかを考えながら動くことで愛情を伝えられます。「してほしいことを察して動く」姿勢が大切です。
5. 身体的なタッチ
「触れること」で愛情を感じる人は、ハグやキス、肩に軽く手を置くといった身体的接触から、安心感や親密さを得ます。日常の中でさりげない触れ合いが多いほど、愛情を実感することができます。一方で、距離を置かれたり触れることが少ないと、愛情が足りないと感じる場合もあります。
身体的なタッチを大切にする相手には、日常的なスキンシップを意識することがポイントです。たとえば、挨拶代わりにハグをしたり、外出時に手をつないだり。日常の中で意識的に触れ合うことで、心の距離を縮めることができるでしょう。
「愛情を伝えているのに、伝わらない」のは「愛の言語」が異なるから
愛情を表現し合うことは、カップルにとって非常に重要です。しかし、互いに「愛を伝えているつもり」でも、その表現方法が相手にとって響かない場合、すれ違いや不満が生じることがあります。
たとえば、男性の愛の言語が「身体的なタッチ」、女性の愛の言語が「肯定的な言葉」だとしましょう。
男性は、ハグをしたり、セックスすることで「君を愛している」という気持ちを伝えようとしますが、女性は「愛しているよ」や「あなたがいてくれて本当に嬉しい」といった言葉がなければ、愛情を十分に感じられないかもしれません。その結果、女性は「彼は愛を表現してくれていない」と感じ、男性は「こんなに触れ合っているのに、なぜ伝わらないんだ?」と困惑してしまうのです。
「愛しているのに、愛情が伝わらない」といったすれ違いを避けるためには、お互いの愛の言語を知ることが大切です。
まずは自分の「愛の言語」を知る
先ほどご紹介した5つの「愛の言語」、あなたは自分の「愛の言語」がどれか分かりますか?「これだ!」とすぐにピンとくる人もいれば、迷ってしまう人もいるかもしれません。
相手の「愛の言語」を知ることはもちろん大切ですが、まず理解すべきは、自分自身の愛の言語です。
書籍『愛を伝える5つの方法』では、「愛の言語」を知るために役立つ3つの質問が提案されています。この質問に答えることで、自分がどの愛情表現に最も満たされるのかを見つけられるでしょう。
1. パートナーがすること、またはしないことで、自分が傷つくことは何ですか?
この問いは、あなたが何に敏感に反応するかを探る手助けをします。たとえば、「ありがとう」とあまり言ってくれないことが悲しいと感じるなら、それは「肯定的な言葉」があなたの愛の言語である可能性があります。
2. パートナーに最も願ってきたことは何ですか?
これまで相手に最も求めてきたものは何でしょうか?たとえば、「もっと一緒に過ごしたい」と思うことが多い場合、それは「クオリティ・タイム」があなたの愛の言語かもしれません。
3. いつもどのようにパートナーに愛を表現していますか?
あなたが相手に愛情を伝える方法も、あなた自身の「愛の言語」を知るヒントになります。たとえば、自然と家事を手伝ったり、プレゼントを贈ったりしている場合、それがあなたが最も重視している愛の表現かもしれません。
相手の「愛の言語」を知る方法
ゲイリー・チャップマンの著書には、愛の言語を確認するためのテストが付属しており、30の質問に答えるだけで、自分やパートナーがどの「愛の言語」を重視しているかが分かります。テスト結果を共有すれば、お互いの価値観を知るきっかけにもなるでしょう。
ただし、必ずしもテストを受ける必要はありません。普段の生活から、相手の愛の言語を推測することもできます。
たとえば、相手がどんな時に一番喜ぶのか、逆にどんな時に不満げにしているのかを考えてみたり、直接「どんな時に愛を感じる?」「私が何をしたら一番嬉しい?」と質問してみたりするのも良いでしょう。
相手の愛の言語を完璧に理解するには時間がかかるかもしれませんが、相手を理解しようとする姿勢そのものが、愛情を深める鍵になるかもしれません。
カップルだけじゃない、親子や友人にも活用できる
「愛の言語」は、カップルに限らず、家庭や職場、友人関係など、どんな人間関係にも活用できます。
身近な人との関係がぎこちなく感じる時には、「あの人の愛の言語は何だろう」と考えてみてください。
お互いの愛情表現を知り、それを意識して伝え合うことで、より良い関係が築けるかもしれません。
参考書籍:愛を伝える5つの方法 ゲーリー チャップマン (著), ディフォーレスト 千恵 (翻訳)
地球にも赤ちゃんにも優しい:成長をサポートする6つのエコフレンドリーおもちゃ
大人になってから友達を作るのは大変?でも大人になったから築ける友情もある
大人になると学生の頃からは180°変わるもの。
その一つに”友達”の存在があると思います。
どれだけ仲が良かった人も、それぞれの道を歩むうちにいつの間にか疎遠になっていたり、逆に苦手なタイプと思っていた人と急激に仲が深まったり…
今回は大人になって感じた、”友達”という存在に対する捉え方の変化をシェアしたいと思います。
大人になると”友達を作る”の難しすぎる問題
私は学生の頃から友達はあまり多くなく、狭く深い人間関係に心地よさを感じるタイプでした。
しかも、自ら外に出て新しい交友を築くのではなく、自分のもとに舞い込んできてくれた縁を大事に育てていきたいタイプ。
そんな人間が大人になると、どうなるか……
あるときから、友達がぱったりできなくなりました。
社会に出て数年は、それを実感する機会はさほどありませんでした。
Uターン就職で地元に帰ったことで昔の友達もいたし、会社は会社で同期が150人もいたので、研修などで顔を合わせるうちにすぐに何人か気の合う友達ができたからです。
ただ、しばらくすると地元の友達は結婚などで、同期も異動や転職などで県外に出ていってしまう、そんなことがちらほら起こりはじめました。
ふらっと誘える友達が、急に減っていったんです。
それでもまだ「まあそのうち新しい縁がどこかから舞い込んでくるだろう」と呑気に構えていたのですが、自分自身も異動や転職をするうちに、とうとう現実に直面にします。
新しい縁が、舞い込んでこない…。
異動先や転職先がそもそも同世代の少ない職場だったり、会社の飲み会もコロナ禍以降は必要最低限みたいな雰囲気だったり…(会社の飲み会って面倒なことも多いけど、実は受け身人間にとっては唯一縁を取り込むきっかけだったりするんですよね)
受け身でいても勝手に縁が舞い込む、そんなことが通用しなくなっていたのです。
かといって、腹を括り新しい交友を求めて自ら外に出ても、なかなか上手くいかないもの。
まず、どうやったら新しい人と出会えるのかが分からないんです。
よく趣味や習いごとを始めたり、行きつけの飲み屋をつくれば人と出会えるなんて言いますが、それはそれでいろいろ考えてしまうタイプの私は、一歩も動けなくなるんです。
何の趣味や習いごとをすればいいのか、行きつけにするなら美味しいお店がいいし、なおかつ通えるくらいの予算感であってほしいし、何だかんだマスターとの相性も大事だし…
そうやって足踏みしまくった挙句、変な一歩を踏み出して結局誰とも出会えなかったりと、完全に迷走していました。
大人になって友達を作るのは諦めたほうがいい
そんな迷走期をしばらく経ると、途端に何もかもが面倒くさくなる瞬間が訪れました。
友達を作るのを諦めた、”開き直りフェーズ”です。
一人の時間は大好きなんだから無理して友達を作る必要もないし、どうせ死ぬときには一人なんだし、なんて言い聞かせるように好きなことに没頭。
推しのライブに時間とお金を費やしたり、こうしてエッセイのような文章をポツポツnoteにしたためたりしていました。
すると不思議なことに、それぞれの領域でいつの間にか”友達”ができていたんです。
推し活で出会ったファンの方が声を掛けてくれて、何度かライブ後にご飯に行くようになり、一緒に泊まりがけで遠征(遠方のライブやイベントに参加すること)までしたり。
推しのライブの感想をひたすらぶちまけたnoteには、また別のファンの方たちが反応してくれて、ちょこちょこSNSで交流することもあります。
noteではライターさんとも交流も増えました。
なかでも特に、直感でもっと仲良くなれそうと感じた方には、私から実際にお会いしたいと声を掛けたりもしました。
内向的な人間なはずなのに、自分でも驚きの行動です。
実際、当日はとてもドキドキしましたが、いざ会ってみると直感通り。初対面なのにとても居心地がよくて会話が弾み、その後も相手からお誘いがあったりと定期的に交流が続いています。
無理やり奮い立たせて友達を作ろうとしてもダメだったのに、開き直った途端、急に自然な流れで友達ができるようになったんです。
大人になると”気の合う友達”の幅が広がる
もちろん、こういう機会がたくさんあるわけではありません。
ただこうした流れでできる友達って、なんというか、相性の精度がとても高い気がします。
出会ってそんなに月日が経っていなくても、会話のテンポが気持ちよくハマったり、泊まりで旅行までできたり、お店選びのポイントが似ていたり。
そういうのって、長く付き合うからこそ構築されるものだと思っていました。
学生の頃は無意識に「過ごした時間が長いほど仲良くなる」という感覚が、根底にあった気がします。
長く時間を共にすることでお互いをよく知り、好みや考え方のすり合わせもできるから、親友と思えるほどの仲になる。
でも逆に、クラス替えや進学、あるいはもっと他愛もない要因で一緒にいない時間が続くと、仲が悪くなったわけではないのになんとなく疎遠になる。
学生の頃は、そんなことが自分も周りでもよく起こっていました。
皆さんもそういう経験ありませんか?
当然それでも、れっきとした友達だったとは思うのですが、大人の友情は必ずしもそういうことでは成り立たない。
仕事に家庭にそれぞれの人生があり、べったり一緒にいることなんてできませんもんね。
では、一緒に過ごした時間の長さではないとしたら、仲のいい友達になれる要素はどこにあるのか。
個人的にはどれだけ「コイツ、おもろいな」と思えるか、これに帰結するのではないかと感じています。
分かりやすいのは、考え方や嗜好が近いことでしょう。
実際私も、推し活やライターなど好きなことを通して友達ができています。
好きなものやマインドの傾向を同じくして集まった人とは、たとえバックグラウンドがバラバラでも結構すぐに仲良くなれる。
今となっては、趣味や習いごとで友達を作ることの真意も、ここにあったんだなと腑に落ちます。
一方で、大して価値観が近くなくても仲良くなれるケースも多々あります。
よく驚かれるのですが、私は未だに小学校の同級生何人かと結構な頻度で交流があります。
幼馴染というほど濃い関係ではなく、卒業来連絡を取っていなかった人、しかも小学生当時すらほとんど交流がなく顔見知り程度だった人も多いです。
にもかかわらず、ひょんなことから十年越しに再会し、今では朝まで飲む仲になっています。
そのメンバーの性格は本当にさまざまです。
大学も業種も当然バラバラ、大切にしたいこと、好きなことも違うし、私と似てちょっと閉鎖的な人もいれば、軽やかでオープンな人もいます。
共感しあって盛り上がることもあれば、興味のない話はお互い適当にあしらうこともある。
それでも険悪にはならないし、だいたいはくだらないことでゲラゲラ笑っていて、妙に居心地のよいメンバーなのです。
共通点はただ同じ小学校に通っていたというだけで、再会までの約十年は全く違う道でバラバラの価値観を形成してきたはずのなのに。
それでも自然とわらわら定期的に集まるのは、お互いどこかしらに”人としての面白さ”を感じていたり、違う中にも一瞬見える”同じ匂い”を感じ取っているからなのかもしれません。
そしてこの感覚こそ、大人になるうちに体得したものだと思うんです。
歳を重ねるごとに自分の常識はどんどんぶち壊され、どんどん知らなかった世界を知り、たくさんの人や価値観にも出会います。
いろんな人がいるという数の話だけではなく、一個人のなかにすら、様々な経験や価値観が複雑に絡み合っているという深さも分かってくるようになる。
それまで自分が持っていた”人間データベース”に膨大なデータが流れ込んできて、急速にアップデートされていく感じ。
その中で、価値観が近かろうが正反対だろうが人として面白さを感じることはあるし、そう感じた時点で良い友達になれる確率は結構高いということを、身をもって学んできたのではないか。
そういうことを最近しみじみ感じるのです。
友情にも”メンテナンス”が必要
友達という存在について、もう一つ最後に書いておきたいことがあります。
それは旧い友達と久々にお茶をしていたときに、その友達から飛び出したことばです。
「友達も、メンテナンスが大事やんな」
メンテナンスというと事務的で無機質に聞こえるかもしれませんし、私も一瞬「めっちゃ機械みたいに言うやん…」と思いました。
意図としては、どれだけ仲の良い人も定期的に会ったり話したりしないと、関係は意外と簡単に崩れてしまうと言いたかったそう。
私も一瞬はたじろぎつつも、すぐにそれを直感的に理解しました。
親友だと思っていた学生の頃の友達も、今となってはどこで何をしているのかも知らない、そんなことが私自身ちらほらあるからです。
卒業してからも連絡を取ろうと思えば取れたし、実際ご飯にも何度かは行ったけど、その後はお互い特にアクションを起こさなかった。
大人になると、仕事に家庭にそれぞれまったく違う人生を歩むからこそ、意識してつながろうとしないとはぐれてしまうのは考えてみれば当然ですよね。
だからこそ、いつまでも縁の糸をつないでいたい相手はちゃんと定期的に会う。
糸が切れかけていないか、変にねじれて絡まっていないか、点検するメンテナンスが必要なんだと思います。
近況報告をして、新しい刺激を与えあって、いろんな困難を乗り越えてきたことを称えあって、くだらないことで笑い飛ばすことで、その糸はまた頑丈になっていく。
期間が空いても、会うとすぐいつも通りに戻れる友達って、このメンテナンスがきちんとできている証拠だと思うんです。
そう気づいてからは、私も会いたい人やもっと仲良くなりたいと思った人には、自ら声を掛けるよう意識しています。
誘うのって正直勇気がいるけれど、逆の立場だったら声を掛けてくれただけで嬉しいものですからね。
たとえ断られて、その後の音沙汰がなかったとしても「あら、片想いだったか~」とか「今は違ったかな」で済ませればいいのです。それも縁だから。
お互い縁をつなぎたいと思ったら、またいつかどこかでつながる。
それくらいゆるく長い目で捉えるようになったのも、大人になってからの変化かもしれません。
大人になったからこそ築ける友情を大切に育む
大人になるとどれだけ一緒にいるかではなく、その友情が続いていること自体が心の支えになるし、人生を豊かにしてくれる。
最近しみじみそう感じることが多く「やっぱり私は狭く深くの人間関係を大事にしたい」と一周回って腑に落ちています。
会いたいから会う、知りたいから話す、そういうシンプルな理由で素直に動いていれば、自分の人生で本当に大事にすべき友達はちゃんとずっとそばに居てくれるのではないでしょうか。
子どもとのふたり旅 。24時間以上一緒に過ごすことで見えてくる一面【Editor’s Letter vol.11】
2024年度は、長女とバージニア州、次女とシアトル、三女とはサンディエゴへ、それぞれ「ふたり旅」に出かけました。
毎年恒例となったそれぞれの娘たちとのふたり旅。一対一の時間を過ごす中で、子どもたちの新たな一面を知り、親子の絆が深まる瞬間がたくさんあります。
今回は、ふたり旅を始めたきっかけや、旅を通じて気づいたことをお伝えしたいと思います。
きっかけは「ママは私のことを何もわかっていない」というひと言
私が子どもとふたり旅を始めたきっかけは、次女のひと言でした。
「ママは私のことを何もわかってない」
「ママと二人きりの時間が欲しい」
三女が生まれてしばらくした頃、次女はそんなふうに言いました。きっと妹が生まれたことで、ママを取られたような寂しさを感じていたのでしょう。
子どもが複数いると、常に一人ひとりと向き合うことは難しいのが現実。もっと娘たちの気持ちや思いを知りたいと思い、子どもたちそれぞれとふたりきりの旅に出ることを決めました。
スマホと距離をとり、旅行中は子どものやりたいことをやる
行き先は子どもの興味に合わせて事前にいくつかピックアップして、最終的には子どもと一緒に決定します。
たとえば、去年は長女と独立戦争にゆかりのあるバージニア州にあるウィリアムズバーグへ訪れました。彼女がアメリカの独立戦争に興味を持っていたからです。
旅の最中で意識しているのは、基本的には子どもの「やりたいこと」を優先すること。そして、スマホを見る時間を必要最低限にすることです。
もちろん事前の下調べはある程度行います。たとえば、美術館のチケットを取ったり、プールのスケジュールを確認したり、レストランを予約しておいたり。現地では、地図やUberを使うとき以外はなるべくスマホを見ないようにし、地図を見るときも子どもと一緒に画面を確認するようにしています。
普段私がイライラしてしまう原因のほとんどは姉妹喧嘩ですが、母子ふたり旅では姉妹喧嘩は起こりません。そのため、私自身も穏やかな気持ちで子どもと向き合えます。
2人だけで24時間以上過ごすからこそ見えてくることがある
日常の合間に子どもと二人でご飯を食べに行ったり、買い物をしたりするのも、もちろんかけがえのない時間です。でも、24時間以上一緒に過ごすことで、普段とは違う一面にたくさん気づけるのです。
たとえば、次女は普段、ダラダラ遊んで後回しにして歯磨きやシャワーにとても時間がかかるタイプです。ところが、ふたり旅の間は、自分でさっさと準備を進めて、私の支度が終わるのを待ちながら一人で持っていった少量の小さなお人形やホテルにあるノートに絵を描いて遊んでいました。
また、いつもは甘えん坊で私にくっついていることが多いのに、旅先では少し自立しているように感じ会話もたくさん楽しみました。普段は、お姉ちゃんと妹に囲まれているので「もっと私を見てほしい」という気持ちが行動に表れて逆にウニャウニャしていたのかもしれません。
そしてそんな彼女の成長をみて「〇〇ちゃんは準備が遅くて甘えん坊な性格」。そんなふうに無意識にレッテルを貼っていた自分にハッとしました。
旅先で夜寝る前に、次女に「旅行の時は支度が早くさっさとできるけれど、家だとどうして時間がかかるの?」と聞いてみました。すると、「家だと、いろんなものが目に入ったり、音や皆んなの声が聞こえたりして、集中できないんだよね」と返ってきたのです。あー、やりたくないからダラダラしてしまうのではなくて、周りに気が散ってしまうのか。
家族で暮らしているので生活音を減らすのはなかなか難しいけれど、歯磨きをする場所を変えてみたり、先に始めるよう促してみたり、小さな工夫で改善できることがあると感じました。
一番下の娘とは、彼女が4歳のときにパームスプリングスへ行きました。ホテルのプールをメインに、ゆったりと過ごす旅です。
プールでしばらく遊んでいると、三女が「もう部屋に帰りたい」と言い出しました。部屋に戻ってからは、お絵描きをしたり、のんびりおやつを食べたりして過ごします。そして1時間ほど休むと、「またプールに行こう!」と元気いっぱいに誘ってくれるのです。
この旅を通じて気づいたのは、三女は周りの音や情報に疲れやすく、時折休憩を挟むことで自分をリセットできるということ。だから、家族全員での旅行では皆んなのペースに合わせないといけない場面も多く、彼女の限界を越えてしまう場合に泣いたり駄々をこねたり、わざわざ喧嘩を姉妹にふっかけたりしていたのか。これもふたり旅をしたからこそ気がつけたことです。
また、長女とのふたり旅では、「ママはここに行ってみたいな」「これをやってみない?」と、私自身が長女に提案する場面が多いことに気がつきました。長女はあまりこだわりがなく、ママと一緒にいられればそれでいいタイプの子でこれやりたい、あれやりたいと願望が強くありません。日頃から自分の意思を言葉にすることの大切さを話していますが、「ママ、私がどっちでもいいよ、っていつもいう時はね、本当にどっちでもいいってこだわりがないからなんだよ。」と言われました。それでも、普段上手に甘えられないお姉ちゃんにとってママを独り占めできて、また、彼女にとって興味のあることがたくさん知れてかけがえのない時間です。
本当に困った時に頼ってもらえる、親子の絆を育むために
私にとって娘たちとのふたり旅は、日常ではなかなか気づけない子どもの一面を知る貴重な機会であり、今からきちんと信頼関係を築いておきたいと願う私の「将来への貯金」です。
子どもたちが大きくなって手が離れてきた時でも、本当に困ったときには真っ先に相談してほしいし、ひとりで苦しまないでほしい。そんな願いを込めて、年に一回ふたり旅に行き、娘たち一人ひとりと向き合う時間を大切にしています。親にしっかりと向き合ってもらった記憶は、成長していく中でその子の自信や心の支えになると信じているからです。
親子でも、パートナーでも、友達でも、きちんと向き合い、時間を共に過ごさなければ、気づかないうちに心の距離が離れてしまうものです。人との絆を育むためには、心を通わせる努力が必要です。これからも大切な人とじっくり向き合う時間を積み重ねていきたいと思います。