怒る前に深呼吸。そのイライラは私にとって役立つの?『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』を読んで実践してみた
Humming編集部メンバーがお届けする書籍コラム。
今回ご紹介する書籍は『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない: マインドフルネスから生まれた心理療法ACT入門』。本書で紹介されているACTの手法を日常生活の一場面に取り入れてみました。

夏の陽射しが容赦なく差し込む8月のある日、私は自宅のリビングで息子と向き合っていた。
小学生の息子は夏休み真っ只中。
基本的に家で仕事をしている私は、7月・8月は息子と一緒に過ごす時間が長い。
午前中、私はノートパソコンに向かい仕事に励む一方、息子は夏休みの宿題をする。これが我が家の日課となっていた。
夏休みも終盤に差し掛かり、このままのペースでは息子の宿題は終わらない。私は「毎日、国語算数理科社会、それぞれ毎日3ページずつやらないと終わらないよな……」と焦りを感じていた。しかし、息子に焦る様子は全く感じられない。
25分集中して作業を行い、5分休憩するというポモドーロタイマーをセットして、それぞれがやるべきことをスタートした。しかし、息子は1問解いては立ち上がり、ボールを蹴ったり、ソファーに寝転んで漫画を読んだりと、集中力が続かない様子。本気でやれば1時間で終わるであろう問題に3時間程かかった。
丸つけを始めると、思わずため息がこぼれた。止めもハネも意識されずさらっと書かれた漢字。答えだけが記され、計算過程が全くわからない算数の回答欄。
「あのさ、毎回言っているよね。字をきれいに書こうね、式をちゃんと書こうねって」 私の言葉に、息子は「だって……」と小さな声で答える。 やりとりを繰り返すうちに、「何度言っても直す気がないなら、もう好きにしなよ。困るのは自分だよ」と投げやりな言葉を口にしてしまった。
ここ数日、同じようなやりとりが毎日繰り返され、私は疲れ果てていた。夜になると、さまざまな思いが頭の中をぐるぐると巡り、ひとり反省会が始まる。
「勉強させるのが辛い。そもそも無理やり勉強させることに何の意味があるのだろうか……」
「できていないところばかりでなく、頑張ったところに目を向けてあげたい」
「私がイライラしても状況は悪化するだけ。口出しせずに見守れたらいいのに」
そして最後には必ず、「せっかくの夏休み。息子となるべく笑顔で過ごしたいのに」という思いにたどり着くのだ。
子育てに悩む日々が続く中、
「幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない」という1冊の本に出会った。マインドフルネスに興味を持ち、タイトルに惹かれてネットでポチッと購入した本だ。
この本で紹介されている心理療法ACT(アクセプタンス&コミットメント・セラピー)は、ネガティブな考えが浮かんだ時に、まず自分の状態を客観的に見つめ、その感情をありのまま受け入れること(アクセプタンス)が大切だと教えてくれる。そして、「この思考は自分にとって本当に役立つのだろうか」と自問し、自分にとって大切な価値に基づいて行動する(コミットメント)ことを勧めていた。
翌朝、「今日は絶対にイライラしないで子どもたちと笑顔で過ごそう」と決めて1日をスタートした。
しばらくすると、息子がリビングにやってきた。寝起きの息子に「おはよう」と声をかけ、ぎゅーと抱きしめる。「よく眠れたかな?」とたわいのない話をしながら、ソファーに横たわる息子の足をマッサージした。
しばらくすると、娘が起きてきて、すぐさまソファーの陣地争いが始まった。朝から繰り広げられる兄妹喧嘩に、思わず「いいかげんにしなさい」と怒鳴りそうになる。
しかし、ふと我に返る。「今日は笑顔で過ごすんだ!」
そして、本に書いてあったことを意識して、心の中でぶつぶつと呟いてみた。
「私は今怒っているという感情を持っている。朝から兄妹喧嘩が始まりすごくイライラしている。だけど、私が怒りを爆発させたところで、兄妹喧嘩が止まるわけでもないし、自分の気持ちがスッキリするわけでもない。むしろ子どもたちにひどいことを言ってしまって自己嫌悪に陥るかもしれないし、兄妹喧嘩が悪化するかもしれない。つまり、今私が持っている怒りの感情は私にとって良いことをもたらさない…….」
そして、兄妹喧嘩をよそに、目を瞑って3回大きな深呼吸をしてみた。鼻から吸う呼吸で、肺に空気が入っていく感覚を味わい、吐く呼吸でお腹の凹みを感じる。呼吸をするたびに、私の中に渦巻くネガティブな感情が少し外に吐き出された感覚を味わう。足の先から脳味噌まで酸素が行き渡り、イライラしているはずの私の口角がちょっぴり上がったように感じた。
「よし、いったんこの場を離れよう」
キッチンに向い、背後で兄妹の言い合う声が聞こえる中、私は黙々とスイカをカットし始めた。 「今、私はスイカを切っている」 目の前の作業だけに意識を向け、包丁を握る手の感触に集中する。
ダイニングテーブルに、スイカとヨーグルトとパンをセットして、「朝ごはんが用意できたよ」と子どもたちに声をかけた。
むすっとした顔で食卓に座る子どもたち。私は平然とスイカを口に運んだ。 「おぉ、今日のスイカ、甘くて美味しい!」
その言葉に反応するように、子どもたちもスイカを食べ始める。娘は両手を頬に当てて「おいしい〜」のポーズ。息子も親指を立ててグッドサインを送った。
普段なら兄妹の言い合いでイライラしてしまうところを、今日は冷静でいられた。そんな自分に心の中でガッツポーズ。
そして、朝ごはんを終えて娘を保育園に送り届けると、再び息子との時間が始まった。
「今日の目標は?」と息子に尋ねる。
「今日は15時までに1教科2ページずつやる!」
「自分で決めた目標を達成できるように頑張ってね」とソファーでゴロゴロ寝転んでいる息子に声をかけた。
タイムリミットの15時を迎えた。理科と社会と国語、1ページずつしか終わっていないようだ。算数に至っては手付かずだった……。
残念ながら、この時点で私の「今日は絶対にイライラしないで子どもたちと笑顔で過ごそう」という目標は達成できなかった。
「あのさ、自分で決めた目標くらいちゃんと守りなよ。もう少し集中して勉強するべきなんじゃない?…….」息子への説教が止まらない。
しばらく立って、怒りが少しおさまってきた頃に、深く呼吸をした。
「私だって、自分で決めた今日の目標守れてないじゃん」
「私が怒るほど、息子のやる気はなくなっていくよな……」
いろんな思考が頭を巡る。
再び深呼吸をして、今日の自分の言動を客観的に振り返ってみる。
本の内容を実行し続けることはなかなか難しい。
きっと私はこれからも子どもたちに怒ったりイライラしてしまうことがあると思う。だけど、その度にこの本を読み返し、「その思考は私の役に立つの?」と唱えて深呼吸をしてみよう。
書籍紹介:
幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない: マインドフルネスから生まれた心理療法ACT入門 ラス ハリス (著), 岩下 慶一 (翻訳)
時は金なり。 ドラッグのように中毒性のあるスマホとの付き合い方を見直そう【Editor’s Letter vol.10】
| Humming編集長 永野舞麻がカリフォルニアから配信する「Editor’s Letter 」。
日々の暮らしで感じた気付きや、人生において大切にしていることを綴っています。 |

現代人の必需品とも言えるスマートフォン(以下、スマホ)。手のひらサイズの小さな端末が、私たちの生活に革命的な変化をもたらしました。
スマホさえあれば、世界中の誰とでもリアルタイムで連絡が取れ、わからないことはすぐに調べることができる。社会の情報インフラとして欠かせない存在になった一方で、私たちはいつの間にかスマホに依存し、大切なことを見失ってはいないでしょうか。
通知音が鳴るたびに手が伸びる。無意識のうちにスマホを見てしまう。家族や友人との会話中もついついスマホをチェックしてメールの返信を優先してしまう。そんな経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。
「便利な道具」のはずのスマホに振り回され、本当に大切なものから目を背けてしまっていないか、一度立ち止まって考えてみませんか。
今回は、私がスマホと距離を置いた理由とそれがもたらした変化についてお話しします。
私を変えた10日間のデジタルデトックス
私がスマホと距離を置きはじめたきっかけは、10日間のリトリート。リトリート中はデジタル機器の使用が一切禁止されていたため、強制的にスマホと距離をとることができたのです。最初は手持ち無沙汰でしたが、日が経つにつれ、スマホがないことによる変化に気づき始めました。目の前の出来事、例えば食べている料理の味や、鳥のさえずり、足元を横切る蟻などに自然と意識が向くようになったのです。情報が過多に入ってこない、余白がある暮らしの心地よさに気づくようになりました。
リトリートを終えて10日ぶりにスマホを手にした時の衝撃は忘れられません。まず、画面の明るさが以前よりもはるかに眩しく感じました。さらに、スマホに自分のエネルギーを吸い取られているかのような不思議な感覚に襲われたのです。実際、スマホを数十分見ただけで頭痛がするようになりました。
その経験に驚き、携帯やパソコンの画面に長時間集中することで、多くのエネルギーを消耗していることに気がついたのです。そこで、意識的にスマホを使う時間を制限することに決めました。
子どもたちと一緒にいる時間は極力スマホを触らない。寝る時はリビングの棚にスマホをしまい、次の朝メディテーションが終わるまでは触れない。さらに、メールやメッセージの通知をOFFに設定しました。スマホに自分の行動を支配されるのではなく、自分が必要な時にのみ、スマホを手にするようにしたのです。

スマホを手放したら、人生が変わる?!
スマホを使う時間と使わない時間の境界線を作ることで、私の生活にはポジティブな変化が表れました。
例えば、寝る前の準備。これまではスマホで調べものをしたり、動画を見たりしながら、顔を洗って、歯磨きをして、着替えをしていたので、1時間ほど時間がかかっていました。それが今では半分以下の時間で終わるようになり、余白が生まれました。
いかにスマホという機械に時間を奪われていたかを体感すると共に、本来の自分のキャパシティの広さに気がついたのです。
また、寝る前にスマホを見なくなったことで、自律神経が整い、メディテーションをしてから眠りにつくまでの時間も短くなり、睡眠の質も高まりました。
さらに、人との関わり方にも変化が表れました。以前は子どもたちに話しかけられた時に、「このメールの返信が終わるまで待って」と言うことが度々あったのです。今思えば、「あなたより、スマホの中の出来事が大切」と表現しているようなものです。しかし今では、目の前にいる相手との時間を何よりも大切にできるようになりました。
すると、学校での出来事や友達とのトラブル、 姉妹喧嘩のこと、自分が感じていることなどを、子どもたちから話してくれることが増えました。私がスマホに集中している代わりに、本を読んだり、趣味のアートやパズルをしていることで、話しかけやすい空間ができたのだと思います。
また驚くことに、私がスマホを手放したことで、これまでは頻繁に行われていたスマホやタブレット端末を模倣した遊びを子どもたちがしなくなったのです。子どもは良くも悪くも周囲の大人の姿を見て育つもの。もし子どもたちにスマホに支配された人生を歩んでほしくないのであれば、まずは周りの大人が手本を示す必要があると強く感じました。
「伝える」ことで、スマホを使わないデメリットを乗り越える
とはいえ、スマホを使う時間を制限することで、急な予定変更や緊急の連絡に気づきにくくなるというデメリットもありました。どちらかと言えば、自分自身への影響というよりも、相手に対してのデメリットと言えるかもしれません。
そのため、よく連絡を取り合う仕事相手や友人には、24時間以内の返信を心がけながらも「私は自分の都合のいいタイミングで連絡するから、あなたも即座に返信しなくて大丈夫。お互いに無理のないペースでやり取りしましょう」と伝えるようにしています。逆に返事を急ぐ時には、「こちらは急ぎの用件なので、できるだけ早めの返信をお願いします」と伝えることもあります。
また、特定の時間帯はスマホを確認し、子どもの学校関連の連絡事項や、仕事上の緊急の連絡にはなるべく対応できるよう心がけています。
必要以上にスマホに時間を奪われないために
スマホが私たちの生活に欠かせない存在となり、即レスが善とされる現代社会において、スマホと距離を置くことは勇気のいることかもしれません。
しかし、完全にスマホを断つことが難しくても、使う時間と使わない時間の境界線を決めて、上手く付き合うことはできると思うのです。例えば、週末や家族団欒の時間、自分の趣味に没頭する時間はスマホから離れる。一方で、仕事上の連絡や緊急の用件には適切に対応するなど。
人生において、時間ほど貴重なものはありません。スマホやパソコンなどの電子機器は私たちの生活を便利にしてくれる、いち道具です。私たちが使う側であり、道具に支配されるようになっては元も子もないのです。
必要以上にスマホに時間を奪われなくなることで、本当に大切なものに時間を使えるようになり、新しい発見や気づきが得られるかもしれません。それはきっとあなたの人生をより豊かなものにしてくれるでしょう。
恐れるのは死よりも後悔。今を大切に生きる意味

Humming編集部 條川純のコラムをお届けします。
誰もが必ず経験する「死」。私たちは、大切な人を失う痛みを味わい、いつかは自分自身もこの世を去ります。
死ぬことは怖いというイメージがありますが、本当に死は恐れるべきことなのでしょうか。
最近知った友人の病気や、過去に大切な家族を癌で亡くした経験、そしてテレビやネットで耳にする著名人の訃報など、身近な出来事をきっかけに、私は死について考え続けてきました。そんな中で培ってきた私の死生観について話してみたいと思います。
恐れるのは「後悔」を残して死を迎えること
40歳を目前に、この先の人生を考えると共に、死を意識するようになりました。そして気がついたのは、私は死ぬことよりも、後悔を恐れているということです。
後悔のない人生を歩むためにも、私は他人を尊重し、思いやりを持って接することを大切にしたいと改めて感じています。そうすることが、自分自身の幸福につながると確信しているからです。
また、他人からの評価にとらわれるのではなく、自分自身に集中したいと思っています。
例えば、スマートフォンやソーシャルメディアに依存する生活を送っていると、他者と自分を比較してしまったり、「いいね」の数が気になったり、本当に大切なことを見落としがちです。
どんな情報でも簡単に手に入り、遠く離れた人ともオンラインでコミュニケーションが取れる便利な時代。だからこそ、大切な人に直接会ったり、旅に出て新しい経験をしたり、リアルな交流や体験を大切にしたい。直接的な人とのつながりや、五感を通して得られる生の経験には、かけがえのない価値があるはずです。
人生は一度きり。後悔のない人生を歩むために、自分と向き合い、今この瞬間を大切に生きていきたいです。
大切なひとの死を乗り越えるために
生きている間には、大切な人とのお別れを経験することがあるでしょう。私たちは、愛する人を失った時、計り知れない悲しみと喪失感に襲われます。
以前、親しい友人が親を亡くした時のことを思い出します。彼は耐え難い悲しみに襲われ、その対処法を見出すことができずに、自分自身を傷つけてしまったのです。悲しみの渦から抜け出せない彼を見て、私は死を乗り越える方法について考えさせられました。
現代社会では、家族が亡くなった後、残された親族はすぐに書類作業や法的手続き、請求書の支払いに追われ、死を受け入れる余裕がないことが多いように感じます。
大切な人を失った時には、思い出の場所を訪れたり、写真を眺めたり、故人を偲ぶ時間を持つことが大切です。また、「故人は最後に何を伝えたかったのだろう」と考えたり、「今の自分の生き方を故人が見たらどう思うだろう」と自らを振り返る内省の時間も必要でしょう。心の傷は簡単には癒えないものです。適切なケアを怠ると、その傷は長い間心の奥底に残り続け、私たちを苦しめる可能性があります。
悲しみに寄り添い、故人との思い出を大切にしながら、徐々に新しい日常を築いていくことが、大切な人の死を乗り越えるための健全なプロセスなのかもしれません。
避けては通れない「死」という現実
死は人生の一部であり、恐れるべきことではありません。むしろ、死を受け入れることで、今この瞬間を大切に過ごすことができるでしょう。
大切な人を失ったとき、或いは自分自身の死に直面したとき、悲しみや喪失感にとらわれるのは自然なことです。しかし、そこにとどまるのではなく、亡くなった人との思い出や、自分がこれまで歩んできた人生の旅路を振り返り、感謝の意を込めることが大切なのではないでしょうか。
あなたの寄付が幸せを紡ぐ。自分も幸せにする「誰かのために」【Editor’s Letter vol.07】

Humming編集長 永野舞麻がカリフォルニアから配信する「Editor’s Letter 」。日々の暮らしで感じた気付きや、人生において大切にしていることを綴っています。
毎月欠かさず行っているとある団体への寄付。
その行動がどのように誰かの未来を変えているのか、その真実を自らの目で見るために、私はインドのバラナシへと向かいました。
世界では推定5000万人が、強制労働や性的搾取など、奴隷制の犠牲になっている現実を知っていますか?
(※参考:現代奴隷制の世界推計)
特にインドでは、貧困や社会的な格差が奴隷問題を助長し、多くの人々が過酷な状況下で働かざるを得ない現実があります。
私は今回インドで人々が奴隷から解放される瞬間を目の当たりにしました。自由を手に入れたことで、人々の目には輝きが戻ったのです。
自分の寄付が誰かの笑顔に繋がることを体感し、私自身も大きな幸せを感じることができました。
寄付したお金の行先とは?!奴隷解放の瞬間を目にしたインドへの訪問

2023年10月、定期的に寄付を行っているとある団体からの声がけで、奴隷解放を後押しするためにインドのバラナシに向かいました。
私が訪れた村々には劣悪な環境で地主に仕えて働く、いわゆる奴隷がたくさんいました。
村の人々は土の上に建てられた木造の家で、ハンモックのようにロープをはったベッドで寝ています。
電気も通っていないので、明かりは焚き火のみ。
食事も牛の糞を固めて乾かしたものを燃やして作り、水は井戸から汲み上げられたものを使います。
お金は1週間の給付金が地主からもらえますが、それもほんのわずか。
幼い頃からずっとまともに栄養を摂れないため、大人であっても背が低く、痩せ細っている。
いつ生まれたのか出生証明書がないので年齢は不明。また、誰との間に授かったかわからない赤ちゃんを抱っこしている女の子もいました。
私はそこで、6ヶ月前までは地主に仕えて苦しんでいたひとりの女の子に出会いました。
どうして奴隷になってしまったのか、そして何がきっかけとなり奴隷から解放されたのか、話を聞くことができました。
彼女はとある村で家族と貧しい暮らしをしていました。
ある日「良い仕事があるよ」と言われ、その人を信じて家族で村から200キロも離れた場所に連れて行かれたのです。
もちろん良い仕事があるというのは全くの嘘。奴隷にするための口実でした。
そこでは、ご飯をろくに食べられなかったり、作ったご飯を蹴り飛ばされるなどの嫌がらせをされたり、意味もなく夜中に叩き起こされたりしました。
ひどい環境の中で長時間休みなく働くことを強いられていました。
そんな環境に耐えられなくなり、ある晩、意を決して家族でその村から逃げ出したのです。しかし、途中で彼女とお姉さん以外は地主に捕えられてしまいました。
家族を助けるためにも彼女たちは必死で逃げました。そして、その途中に奴隷解放に力を注いでいる慈善団体のメンバーに出会ったのです。
彼女たちは微かな望みをかけてその団体に「家族を救って欲しい」と助けを求めました。とはいえ、団体は彼女たちがどの村に住んでいたのかすらわかりません。
1ヶ月ほどかけて事実確認のための調査を行い、場所を特定して彼女たちが奴隷にされていた村を訪れました。
そこで目にしたのは、狭い一室に閉じ込められていた彼女の家族でした。
地主から「奥さんを連れ戻さなければ生き埋めにしてやる」と脅され、部屋の外には生き埋めにするための穴が掘られていました。
助けに行くのがあと少し遅れていたら、きっと彼女の夫や両親は殺されていたことでしょう。
彼女が地主から逃げ、勇気を持って自分たちが置かれている状況を団体に話したことで、彼女の家族は地主から解放されることができました。
今では、国からお金を借りて畑を耕し、育てた野菜を市場で売ったり、イケアなどで販売しているようなジュートのマットなどを作って、企業に買い取ってもらったりしています。
彼女達は、自分たちで生活費を稼ぎながら自由を手にして暮らしています。
自分の現状を知ることの大切さ
「どうして警察に助けを求めないのか?」、疑問に思う方がいるかもしれません。
インドではカースト制度の考えが根強く残っています。
そのため、カーストが低い人たちは、自分よりもカーストが上の人たちと話をすれば痛めつけられるかもしれない恐怖に怯えているのです。
さらには、メディアに触れる機会がないため、自分たちが地主からされていることが違法行為であることさえ知りません。
現地の奴隷解放運動をしている人たちに話を聞くと、最初は彼らを助けるために村を訪れても口を聞いてくれないと言います。
学校を建てて、子どもたちのお昼ご飯を食べられるようにしてあげるから、子どもを学校に送るようにと、まず説得します。
そして「私たちはあなたを傷つけるようなことはしない」と信頼してもらえてようやく話をしてくれるようになると。
「奴隷制度が違法であること」、「あなた達がこんなひどい扱いを受けるのは当たり前ではないこと」、「自分たちで地主に今の状況から解放するように訴えられること」
「警察に助けを求められること」を彼らに伝えていきます。
そうすることで、奴隷として生きていた彼らは自らの力で「もう、正当な賃金なしでは働かない」と地主に訴え、奴隷から解放されていくのです。
毎月の寄付は誰かの人生を変えている
私は、人々が奴隷から解放される瞬間を目の当たりにし、毎月の寄付が誰かの人生を変えるきっかけになれていることを、自分の目で確認することができました。
出会った時は、ひどい環境下での労働を強いられ、絶望に満ちた目をしていたひとりの女の子。
自由を手に入れてからは明らかに表情が明るくなり、まるで希望の光が照らしているかのように目が輝いていたのです。
どんなに絶望の中にいても人は希望を取り戻せる。生命の強さを感じずにはいられませんでした。
辛い環境で生きる人々に手を差し伸べることができて、本当に良かったと心から感じています。

「誰かのため」は自分さえも幸せにする
日本ファンドレイジング協会が発行する寄付白書2021によると、2020年時点での日本の個人寄付総額は「1兆2,126億円」。10年前と比べると2.5倍ほど増加しているものの、同年のアメリカの寄付額(34兆5,948億円)と比べると30分の1ほどです。
また、イギリスの慈善団体「チャリティーズ・エイド・ファンデーション(CAF)」の2022年の調査では、日本の「世界人助け指数」は119ヵ国中118位。宗教的な背景や税制上の待遇などが要因となり、寄付文化が他国に比べて根付いていない状況と言えるでしょう。
人は「他の人が幸せになることを望む生き物」です。自分のために鞄を買ったり、美味しい食事を味わったり、もちろんそれも自分にとっての幸せです。
しかし、利己的なことだけで幸せを感じ続けるには限界があるものです。
利他性と幸福度の関係にまつわるさまざまな実験や研究が、世界中で行われています。
お金を自分のために使った人と、他人のために使った人とでは、後者の方が明らかに幸福度が高いといった研究結果も出ています。
あなたが自分以外に関心を寄せるものは何ですか?たとえば、子ども、動物、医療、環境保全、災害・復興支援など。
自分の関心を探り、今の自分にできる範囲で寄付やボランティアを始めてみるのもおすすめです。
誰かのためにとる行動は、自分自身を幸せにする近道なのです。
関連記事:クリック募金とは?動物や環境に関係する募金サイトまとめ
ヴィパッサナー瞑想リトリート体験談。リトリート中に感じた恐怖体験とその後の変化とは【Editor’s Letter vol.06】
Humming編集長 永野舞麻がカリフォルニアから配信する「Editor’s Letter 」。日々の暮らしで感じた気付きや、人生において大切にしていることを綴っています。
ある日の深夜、全身の皮膚が毛羽立つような恐怖に襲われました。
真夜中、突然のサイレンに驚いて起き上がると、ビービービーと大きな音が鳴り響いているのです。
「どこかで核爆発が起きたに違いない……」
これまで感じたことのない不安や恐怖心が押し寄せてきました。
けれど、周りを見渡すと部屋の外は静まりかえっている。なんと、サイレンは自分の耳の中だけで鳴り響いていたのです。
忘れもしないこの体験は、ヴィパッサナーリトリート8日目の出来事。
これは今まで心の奥底に溜めた気持ちが浄化され、穏やかな心に近づくための通過点だったのです。

観察することで変革を起こすヴィパッサナーとは?
ヴィパッサナーとは、2500 年以上前にゴーダマ・ブッダによって再発見されたメディテーション法。
感覚や呼吸に集中し、その瞬間のありのままの自分を観察することで、不安、怒り、嫉妬、執着、悲しみなどのあらゆる心の濁りを取り除き、浄化を図ります。
穏やかで充実した人生を築くための手段として、ヴィパッサナーは世界中で受け入れられています。
※詳細はこちら
なぜリトリートに参加しようと思ったのか

私がメディテーションを始めたのは、今から3年ほど前、世界的なパンデミックが起こりはじめた頃。当時は1回20分のマントラ瞑想を朝と午後の1日2回行っていました。
自宅でメディテーションをしていると、家族が話しかけてきたり、子どもが膝に座ってきたり、兄弟喧嘩がはじまったり、そういう状況の中でもメディテーションを続けるのが、ある意味与えられた試練だとはわかっていても、100%自分の内と向き合うことはなかなか難しい。自分だけの時間をしっかりと確保して、本格的にメディテーションを体験してみたいという想いが日に日に募っていきました。
そこで興味を持ったのが、数あるメディテーションの中でも特に厳しいと噂のヴィパッサナー。
ヴィパッサナーの合宿に参加することで何が得られるのかあえて深くは調べないまま、自宅から3時間半ほど車を走らせ、北カリフォルニアのヴィパッサナーセンターへ向かいました。
※ヴィパッサナー瞑想の合宿は世界各国で開催されており、日本では京都と千葉に合宿センターがあります。
他者との会話やアイコンタクトさえも禁止される、自分と向き合う10日間
合宿期間は10日間。いただく食事は朝昼2回の菜食と夕方にフルーツやお茶をほんの少し。毎朝4時に起床し、休憩を挟みながら1日10時間以上メディテーションを行います。
合宿期間は外の世界との接触は完全に遮断され、もちろんスマートフォンやテレビなどデジタルの使用は禁止。さらには人と会話することや誰かと目を合わせること、メモを書くこと、本を読むことさえも許されません。
最初の3日間は、鼻の周りの感覚を研ぎ澄ませて呼吸に意識を向けるアーナパーナというメティテーションをひたすら行い、自分の内と向き合う訓練をします。
4日目に、ついに、全身の感覚に意識を張り巡らせるヴィパッサナーに移ります。まずは鼻まわりからスタートし、頭から顔の各パーツ、肩、腕、手、胸、背中、腹、脚と体全体を1つ1つスキャンするように意識を集中させ、空気の重みや服に触れている感触、脈を打つタイミングを感じていきます。
さらにメディテーション中に絶対に動いてはいけない時間が1回1時間、1日に3回あります。ストロングメディテーションと呼ばれているその時間中は、どんなに体が痛くなっても、鼻がかゆくなっても動いてはいけません。慣れるまでは辛い時間ですが、これを行うことで痛みやかゆみなどの不快な感覚も現れては消える、「世の中に起こる全てのことは永遠には続かない」という感覚を体感し、どんな時でも心の平静さを保つ訓練ができるのです。

メディテーション中に突如現れた幼少期のトラウマ
合宿中、自分の全身の繊細な感覚と真剣に向き合うことで、過去に蓄積された身体や心の中のネガティブな要素が変容し、何かしらの形で現れることがあります。
4日目のメディテーション中のこと。幼少期のトラウマが突如私の心に現れ不意に涙が溢れたのです。
この日から始まったヴィパッサナー瞑想。決められた一定の時間は絶対に動いてはいけないにも関わらず、隣の方は体を掻いたり、寝息を立てていたり。
「私を含め、周りのみんなはこんなに頑張ってメディテーションしているのに、どうしてこの人は…」、ネガティブな感情が沸き起こりました。
不思議なことに、そのイラつきが私の幼少期の記憶と結びつき、当時から内に秘めていた想い、悲しみ、願望、様々な気持ちが現れたのです。
私には3歳年の離れた妹がいます。幼い頃、私は両親に褒めてもらいたくて懸命に家の手伝いをしたり、駄々をこねずに言われたことをきちんとこなしたり、わがままを言わずに欲しいものを我慢をしたり、愛されたい一心でいました。一方で、妹はニコニコ、そこにいるだけで親から愛情を注がれる。
「私だって、ありのままの私を愛して欲しかった……」
そんな素直な心の内がメディテーション中に自然と湧き起こり、涙が止まらなくなりました。
これまでアメリカに移住してから何年もセラピーに通い、たくさんの幼少期の親子関係、姉妹関係のトラウマを掘り返しては癒してきていたので、未だに、こんなにも鮮明な気持ちが現れたことに驚きを隠せませんでした。
合宿中は辛い記憶が蘇ったり、得体の知れない恐怖に襲われたりすることもありました。しかし、最終日には「もう少しこのメディテーションリトリートを続けていたい」そんな気持ちになっていたのです。
リトリート後に満ちた愛情と優しさ
10日間のリトリートを終えて家に帰ると、こんなに誰かを愛おしいと思ったのは初めてではないかというほどの「ピュアな愛」が自分から溢れ出ているのを感じました。
家族との会話。一緒に味わう食事。全てが愛おしい。まるで自分の周りの空気全体が愛のベールとなり家族を包み込んでいるような感覚です。
以前だったらイライラしてしまったような子どもたちや夫とのやりとりの瞬間も、イラつきどころか逆に愛を持った接し方ができたり、ただ抱きしめているだけなのに涙が溢れてくるような愛情を感じたり。
さらにリトリートを終えて1週間ほどは、自然と自分の呼吸に意識が向けられ、目を開けたままメディテーションしている状態が続いたのです。イメージとしては、大嵐で海は大荒れなのに、その中を静かに進む船のように落ち着いた気持ちで過ごすことができました。
この不思議な感覚は徐々に薄れていきましたが、あの感覚は今でも忘れることはありません。
ヴィパッサナー瞑想リトリートの10日間は、まるで人生の縮図
人生において全ては永遠には続かない。痛みも苦しみも、もちろん幸せも。だからこそ、今この瞬間を存分に感じよう。そのような気づきを私にもたらしてくれたヴィパッサナー。
普段、私たちは脳からの情報や声に振り回され、落ち込んだり、怒ったり、幸せを感じたり、良くも悪くも感情に左右されがちです。
メディテーションを通じて、呼吸や感覚に意識を集中し、脳から送られる過多な情報を一旦遮断する。それによって物事がより鮮明に見え、エネルギーを本当に大切なものだけに注ぎ込むことができるようになることを体感できました。
幸せは案外身近にあって、今を感じることから生まれてくるのかもしれません。物事の見方、捉え方が変われば人生が変わる。それを教えてくれた貴重な10日間でした。
新しい感覚や目線で自分の人生を味わいたい方には、ヴィパッサナーは大きなヒントや変わるきっかけを与えてくれるでしょう。