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【ハミングが届けるポジティブニュース】 世界の都市が命を取り戻す物語──100年ぶりによみがえるシカゴ川

 

 

私たちは、ふと目にしたニュースに心が重くなったり、暗い話題に引きずられがちです。でも、視点を少し変え、私たちの暮らしに身近な場所、「水」や「自然」に目を向けると、実は今、世界中で静かに、そして力強く、ポジティブな変化が起きていることをご存知でしょうか?

 

遠い海の向こう、アメリカの巨大都市シカゴで、人々の意識と行動が100年以上失われていた都市の宝をよみがえらせました。その宝とは、かつて「汚くて、誰も見向きもしなかった」川。私たち一人ひとりの小さな選択が、未来を変える大きな力になる。今回は、そんな心が温まるストーリーをお届けします。

 

 

“世界中で暗いニュースに心が沈みがちな中、100年以上汚れて放置されていたシカゴ川が、人々の意識と行動によって再び命を取り戻したように、私たち一人ひとりの小さな選択が自然をよみがえらせる大きな力になることを示すストーリーです。”

 

 

中国の長江、フランスのセーヌ川、そしてアメリカのシカゴ川。かつては、生活や産業の利便性を最優先し、汚水を垂れ流すことが当たり前でした。川は、ただの「排水路」で「見えないもの」として扱われていたのです。

 

鉄道が発達する前、シカゴは船での物流が主流だったため、川は貨物輸送のために運河化されました。川底は掘り起こされ、岸辺は鋼鉄のパネルで囲まれました。これにより、川辺の植物や野生生物の住処は一夜にして消滅。残ったのは、汚染に強いわずかな魚種だけが細々と生きる「巨大な金属とコンクリートの排水路」でした。

 

あらゆる廃棄物の捨て場所となっていた当時のシカゴ川の悪臭と汚染は、私たちが想像する以上です。シカゴの歴史的建造物の多くが、「川に面した窓がない」という事実は、当時の状況を如実に物語っています。

 

問題は、ただ汚いということだけではありません。人間の排泄物に含まれる糞便性大腸菌群は、様々な病気の原因となります。さらに、窒素やリンといった過剰な栄養分が水に流れ込むことで、他の生命を窒息させてしまうのです。川は、文字通り「生命を奪う場所」となっていました。

 

 

Kayakers on the Chicago River – credit Jrrugg94, CC 3.0. BY-SA

 

 

この絶望的な状況を変える大きな転機となったのが、1972年に成立したアメリカの「クリーン・ウォーター法」。この法律は、許可なしの廃棄物の投棄を禁止しました。「排泄物を川に流すのをやめる」という、極めて基本的な一歩が、川の再生の土台となったのです。

 

さらに行政と市民は惜しみない努力を重ねました。豪雨の際に下水が川に溢れ出すのを防ぐため、下水貯蔵システムを近代化する壮大なプロジェクトに、何百万ドルもの公的資金が投じられました。

 

 

“シカゴ川は排泄物や汚染物質で「生命を奪う場所」と化していたものの、1972年のクリーン・ウォーター法と行政・市民の継続的な取り組みによって再生への大きな一歩が踏み出された。”

 

 

さらに、市民の草の根の活動も大きな力となりました。Urban Riversのような非営利団体(NPO)は、野生生物を助けるために立ち上がりました。彼らが作った「ワイルド・マイル・エコパーク」は、鋼鉄のパネルで囲まれた川に、浮遊式のトレイルを設置することで、水中生態系のための巨大な浮遊システムを創り出しました。

 

そして今、その努力は目覚ましい成果となって現れています。かつて最低5種しか確認できなかった魚類は、なんと77種にまで激増。スナッピング・タートル(カミツキガメ)や淡水ムール貝が川に戻ってきています。

 

最も感動的なニュースは、シカゴ川が100年以上ぶりに市民に水泳を許可する日が目前に迫っているということ。川は「汚染源」ではなく、「生命を育む場」へと大きな変化を遂げたのです。

 

 

“100年以上汚染されていたシカゴ川が市民が泳げるほどに回復し、周囲の土地価値や都市の活気まで取り戻した事例は、私たち一人ひとりの意識と行動が深刻な環境問題をも未来へと好転させる力を持つことを示している。”

 

 

汚染がなくなり、悪臭が消えた川沿いの土地は、新しい価値を生み出し始めました。川の支流沿いでは、不動産がブームとなり、古い工業団地だった場所は、オフィスや音楽会場に生まれ変わっています。川が、人々に安らぎと散歩の場を提供し、都市に活気と命を吹き込む役割を取り戻したのです。

 

このシカゴの物語は、遠い異国の話ではありません。私たち一人ひとりが環境に対する意識を少し変えて協力し、法や技術、そして何よりも「自然を取り戻したい」という強い意志を持つことで、どんなに深刻な問題でも解決できることを証明してくれているのではないでしょうか。

 

 

参考記事: https://www.goodnewsnetwork.org/chicago-river-follows-the-seine-to-become-biodynamic-and-swimmable-once-again/

感動の子育て。教え込むより導く、 という方法【Editor’s Letter vol.02】

Hummingの編集長 永野舞麻がカリフォルニアから配信する「Editor’s Letter 」。日々の暮らしで見つけたこと、感じたこと、考えたことをシェアします。

 

 

共感できる教育法を探して

私たちが、カリフォルニア州北部にあるこの町に住むことを決めた理由の一つに、とても素敵な学校がたくさんあった、ということがあります。

 

まだ日本に住んでいたときのことですが、長女が1歳半になったころ、お友達に出会えるようにと保育園探しを始めました。夫がアメリカ人ということもあり、インターナショナルスクールもたくさんあたってみましたし、“モンテッソーリ教育”の学校、日本の保育園などなど、十数校回ってみました。

 

 

“北カリフォルニアに移住する前、日本で十数校を見学した中で唯一強く心に残った“シュタイナー教育”の保育園に直感的に惹かれたことが、家族がこの町を選んだ大きな理由の一つになっている。”

 

 

そのなかで、一校だけ、二人の記憶に鮮明に残った学校がありました。その学校の見学時間内に気がついたことは、子供たちは子供たちらしく遊んでいるのですが、どこか落ち着きが感じられ、何か不思議な安定感があり、先生たちも、声を張り上げて子供たちに言うことを聞かせようとしていないのです。

 

帰り道、夫と私は同時に「この学校しか考えられないね」と直感で決めた保育園が、“シュタイナー教育”に基づいた方針の高輪シュタイナー子ども園でした。

私自身、保育園をモンテッソーリ教育のところに通わせてもらっていたため、モンテッソーリについては少し知識がありましたが、シュタイナー教育についてはまったく認識がなく、一から本などを買い集めて読んでみました。

 

 

masako

 

 

「からだ」と「こころ」と「あたま」

シュタイナー教育では7歳ごろまでは「からだ」を、14歳ごろまでは「こころ」を、21歳ごろまでには「あたま」を、この順序に沿って育てるのが大切だと提唱しています。

 

大人になったときに、子供たちにどんな人になって欲しいかーーを、常々、一緒に話している私たち夫婦にとっては、ぴったりな教育方針だと思いました。

 

 

“シュタイナー教育は「からだ・こころ・あたま」を段階的に育てる理念を持ち、夫婦が望む“バランスの取れた自立した人間像”と一致していたため、短期的な成長より長期的なビジョンを重視して子どもと向き合う姿勢に強く共感した。”

 

 

相手の気持ちを汲み取れて、責任感があり、自由な心を持ち、地に足が着いていて、想像力に長けた、自立したひと。子供たちが、そんなひとに育っていってくれたらいいなと思っています。

 

何歳までに自転車が乗れる乗れない、何歳なのにお行儀が良い悪い、学校での勉強ができるできないということよりも、長い目で見た“子供に対するビジョン”をしっかり持って接していくことを心がけています。

 

身体だけ発達しすぎるのも、感情的になりすぎるのも、頭でっかちになりすぎるのもよくなく、大人になったときに「体と心と頭がバランスのとれていることが大切だ」とシュタイナー教育は考えます。

 

 

masako

 

知能を発達させるのは早ければ早いほどいい、という考え方もあります。私も、以前はそう考えていたこともありました。

 

幼い子どもに対して、机に座った教育をしようとすると、子供たちは一ヵ所にじっとしていられません。そんなとき、大人たちはーー「ここに座りなさい、これを書きなさい、これを読みなさい」と、段々と命令口調になっていってしまいます。
強制させられた環境で、脳は効率よく学ぶことはできません。

 

7歳くらいまでの子供たちは、常に体の一部を動かして、何かを触って、肌で感じて「自分はここにいる、地球にいる」という感覚を最大限に感じたい生き物なのだと、三姉妹を育てながら感じています。

 

何時間もじっとしろ、お行儀よくしろ、座っていろ・・・などと言うのは、「からだ」を一番に育てたい時期には逆効果。幼い子供たちは晴れでも雨でも嵐でも、外に出て肌で痛いほど世界を感じることが、一番大切なのです。

 

masako

 

そのため、シュタイナー教育ではテレビ・ビデオ・CDなどは極力見せない、聴かせないようにします。

 

見ている間、せっかくの「からだ」を育てる時間を「あたま」ばかりを使う時間にしてしまうのと、映像などで頭に入ってきた情報は刺激が強過ぎて、子供たちの限りない想像力に限界を与えてしまうからです。

 

 

“シュタイナー教育の「子供は模倣の生き物」という理念に基づき、私たちはテレビやデジタル機器を排し、まず大人が望む行動を実践して見せることで、子どもの想像力と健やかな成長を守る生活スタイルを徹底している。”

 

 

「子供は模倣の生き物」。これはシュタイナーの先生たちがよく言うことなのです。

 

子供たちに外で遊んで欲しけれは、自分がまず外へ行く。
本を読んで欲しければ、自分が本を読む。
歯磨きをして欲しければ、自分がまず歯磨きをして見せてみる。

 

自分自身が実際に行動して見せてみるだけで、幼い子供たちを促し、実際に行動に移す様子をみることができると、まるで魔法のような感覚を覚えます。
「親の背を見て子は育つ」というのは本当だと感じます。

 

なので、私たちの家にはテレビを置いていません。私たちがついついテレビを見てしまっていたら、子供たちもきっと同じようにテレビを見たがるでしょう。携帯電話も、できる限り子供たちの前では使わないようにしています。

 

極端なように思えるかもしれませんが、これくらいの決意と姿勢が子供には理解しやすいと思っています。

 

 

焦らない子育て

私も夫も、シュタイナー教育で娘を育てはじめてから、どんなに周りの同じ歳の子供たちが字を読めても、焦らないようにしました。そして、娘に無理に字を読ませたり、覚えさせたりしようとはしませんでした。

 

 

“親が焦らず比べず、娘の「学びたいタイミング」を信じて寄り添い続けた結果、9歳で一気に読書の花が開き、興味が内側から湧き上がる瞬間に大人がそっと導くことの大切さを強く実感したエピソードです。”

 

 

子供が一番不安になるのは、親が不安になっているとき。どんなときもどっしり構えていようと、心に決めていました。

 

「興味のあることには時間もかけられるし、集中できる」ということは、大人も子供も同じだと思います。
子供の学びたい気持ちが満杯になったときに起こる、乾いたスポンジがものすごい勢いで水を吸収していくような、その学びたくて仕方のない様は、隣で見ていて気持ちがいいものです。

 

長女は6歳、7歳、8歳が過ぎても赤ちゃん用の本しか読めなかったけれど、毎晩一緒に本を読むことだけは続けて、決して他のメインストリームの学校に通っている子供たちと比べませんでした。

 

少しずつ興味が出てきた段階では、標識を読んだり、レストランごっこでメニューを書いてみたり、妹たちに本を読んでみたりしてはいましたが、スラスラ読み書きできるところまでは今一歩進まず、私が一緒に練習してもすぐに飽きてしまうようでした。

 

9歳になり、コロナ禍で始めたホームスクーリング(学校に通学せず、家庭で学習を行うこと)で出会った先生に恵まれたこともあり、一気に花が開くように文字を読み出しました。

 

なぜ?どうして?もっと教えて!もっと知りたい!ーー内側から出てくるどうしようもないほどの抑えきれない衝動をうまく使って、学びにつなげていく。それをするのが、親と先生の役目だと感じます。
今では、もう誰が止めても止まりせん(笑)。つい2、3ヵ月前まで絵本を読んでいた子が、今では『ハリー・ポッター』を読んでいる姿には感動を覚えます。

 

「教え込む」よりも「子供たちの興味が導く方向へ、ベストなタイミングで大人たちが誘導する」
これは、最近私たちが親として目の当たりにした、何にも変えがたい体験でした。

【映画レビュー】Silver Linings Playbook が描く、喪失と再生のリアリティ

Copyright: © 2012 The Weinstein Company. All Rights Reserved.

 

 

悲しみって、本当に不思議な感情ですよね。
最初は静かに寄り添っているのに、気づけば糸みたいにじわじわ広がって、体が動かなくなるくらい重くのしかかってくる。

 

『世界にひとつのプレイブック(Silver Linings Playbook)』は、そんな“喪失の悲しみ”をどう乗りこえていくかを描いた映画です。2012年に公開されて、話題にもなった作品だから、きっと観たことがある人も多いと思います。私もそのひとり。でも今回久しぶりに観て、前とはまったく違う視点で物語に入り込んでいました。

 

 

“『世界にひとつのプレイブック』を久しぶりに観て、登場人物たちの不安定さは“扱いづらさ”ではなく深い悲しみと孤独から来ていたのだと気づいた”

 

 

初めて観たときは、正直ほとんどのキャラクターが苦手でした。
みんな怒鳴ってるし、情緒不安定だし、責任逃れするし、ずっと不機嫌。ジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーの魅力がなかったら観るのをやめていたかもしれません。

 

でも今回は、少し立ち止まってみたんです。
声のトーンや仕草、表情のちょっとした揺れまで、ちゃんと観察してみた。
そして苛立つ代わりに、「なんでみんなこんなふうに振る舞うんだろう?」って、考えてみました。

 

すると気づいたんです。
彼らが“扱いづらい人たち”に見えるのは、ただ、深く傷ついているからなんですよね。
悲しみって、あまりにも痛みが鋭すぎて、世界から切り離されたみたいな孤独に陥ることがある。
そんな状態で“いつもの自分”なんて保てるわけがないんです。

 

 

結婚を取り戻したいのは、愛のためか、それとも心を守るためか

 

パットは、妻の浮気相手を殴りつけてしまい、精神科施設に送られます。しかもそのとき妻は、よりにもよって二人の“結婚式の曲”を流していたという…。暴力は絶対ダメだけど、正直パットに同情してしまう気持ちもわかります。

 

でも、パットは裏切られたのに「まだ結婚生活はとり戻せる」と思い込んでしまう。ニッキはまだ自分を愛している、自分が変われば何とかなる、と。

 

パットは双極性障害とアンガーマネージメントの問題を抱えていて、それはずっと胸の奥で静かにくすぶっていたものでした。

 

Copyright: © 2012 The Weinstein Company. All Rights Reserved.

 

 

彼の育った家も安定とは程遠くて、こだわりが強い父親と、なにかと張り合ってくる兄。感情的なケアなんて与えられず、心はずっと雑に扱われ続けてきたんです。だから心は少しずつひびが入り、最後には壊れてしまった。

 

だからパットが必死に結婚生活を取り戻そうとするのは、“愛”というよりも、トラウマから自分を守るため。
本当は結婚生活が終わっていると認めたくない。認めた瞬間、自分が失ったものの大きさに耐えられないから。

 

悲しみが深いと、現実を見るより“否定してしまうほうが楽”に感じるときがありますよね。
私たちは痛みに耐えるために、時々“別の現実”を心の中に作り上げてしまうんです。

 

 

“パットは裏切りの痛みと長年のトラウマから現実を直視できず、壊れた心を守るために「まだ結婚は修復できる」と思い込んで執着してしまっている”

 

 

そしてパットは、夫を亡くして自分なりの悲しみを抱えているティファニーと出会います。二人が最初に話した瞬間から、「あ、この二人は似た者同士だな」とわかるくらい相性がいい。パットがズバズバ物を言えば、ティファニーもすぐに言い返す。彼が彼女の夫について踏み込んだ質問をすれば、彼女は彼のフットボールのジャージをバカにする。

 

周りから見ればめちゃくちゃ気まずい会話。でも、二人にとってはすごく刺激的なんです。
ようやく“自分の強さに合わせて返してくれる相手”に出会えた感じ。

 

 

恥と偏見に覆われた“性”と“怒り”の裏側で、二人が見つけたほんとうのつながり

 

ティファニーは、孤独と悲しみをごまかすために、人の体温にしがみついてしまった。でも突然パートナーを失ったら、誰かの温もりを求めてしまうのは自然なことだと思う。

 

でも周りの人たちは、その奥にある痛みを見ようとしない。
パットの怒りは“怖いもの”として避けられ、ティファニーの性にオープンな態度は“都合よく扱えるもの”として見られる。
二人は“変な人”扱いされ、まるで人間じゃなく問題そのものみたいに扱われている。
パットとティファニーはお互いの弱さを理解し始めるけれど、パットはまだ“自分とティファニーの間に線を引きたい”と思ってしまう。

 

 

“ティファニーとパットは周囲から“問題のある人”と誤解され続ける中で、お互いの痛みと弱さを理解し合い、ダンスをきっかけに少しずつ心を取り戻していく”

 

 

ニッキを理由に距離を置こうとしたり、“ティファニーみたいな人とは…”と傷つくようなことを言ったり。
本当は彼が一番理解できるはずの彼女の痛みに。

 

人って、あんなにセックスが好きなのに、話題になると途端に恥ずかしがるんですよね。
ティファニーはそこを恥ずかしがらず、自分の セクシュアリティ をちゃんと受け止めていて、パットにもそれを突きつける。

 

 

Copyright: © 2012 The Weinstein Company. All Rights Reserved.

 

 

「あなたは生きるのが怖いのよ!」と叫ぶシーンがありますけど、まさにその通り。
パットは“ニッキへの悲しみ”に自分を包み込んで、自分の一部を消してしまっていたんです。

 

そこでティファニーはこう提案します。
「ダンスコンテストのパートナーになってくれたら、ニッキに手紙を届けてあげる」と。

 

最初は抵抗するけど、やがてダンスという“リズムとルール”がパットの心を落ち着かせていく。
動きに集中することで心が静まり、ようやく“自分の気持ちを感じる余裕”が生まれてくるんです。

 

 

悲しみの奥にある小さな希望

 

多くの人は、この映画を「壊れた二人が互いを癒やしていくラブストーリー」と言います。それも間違いではないし、二人がキスしたシーンで私も思わず笑顔になりました。

 

でも実はこの映画、もっと深いところを描いている気がします。

 

地下でひっそり泣いている夫。年金を失って息子に執着してしまう父親。依存症から抜け出そうとしている友人。
みんなそれぞれ傷を抱えて、つまずきながらも前へ進もうとしている。

 

この映画は“人生のやり直し”や“悲しみの先に続く道”についての物語なんだと思います。

 

悲しみの渦に飲み込まれたとき、人は簡単に希望を見失う。でも、この映画は「それでも一歩ずつ進んでみよう」と静かに背中を押してくれる。

 

そして、人の“混乱”を外側からジャッジするのではなく、その奥にある痛みに目を向けようと教えてくれる映画でもあります。

 

もし初めて観たときの自分に声をかけられるなら、こう言いたいです。
「そのカオスの裏には痛みがあって、その痛みの奥には、確かに癒しの芽があるよ」と。

自己肯定感が上がらないのは”逆”アファメーションのせいだった

 

 

理解はできても飲み込めないアファメーション

 

“Fake it till you make it”――上手くいくまで上手くいってるふりをしろ。
英語にはこういう言葉があるそうです。
最近は日本でも、似たような趣旨の話をよく聞くようになった気がします。
アファメーションという言葉で説明されるようなことでしょうか。

 

例えば、

 

「あの人みたいになりたい」ではなく、「私はもうあの人みたいになっている」
「こういう生活をしたい」ではなく、「私はこういう生活をしている」

 

といったように「既にそうなっている」という表現で何度も何度も言い聞かせることで、脳がそれを事実と認識して、本当にそうなるよう行動がプログラミングされてく的な。

 

同じ主旨の話で、ちょうど先日SNSで見つけた投稿があります。
それは「なりたい」と思っている限り、脳はその「なりたい」という”前提の状態”を保とうとするということ。

 

…なんだか、一瞬「とんちですか?」って聞き返したくなるような気持ちになりますよね。

どういうことかというと、なりたい自分を「追いかけている状態」をキープしようとしてしまうらしいんです。

 

なりたい自分に近づく行動ではなく、それを目指している人らしい行動をとるようにプログラムされる。
だって、なりたい自分を実現してしまったら、追いかけられなくなってしまうから。

 

これらは意思の問題でもなければ、”引き寄せ”みたいな掴みどころのない話とも少し違って、どうやらもう「脳の仕組み」としてそうなっているそうです。

 

そんな脳科学的に言われると「はーん、なるほどね、だからいつまで経ってもなりたい自分になれないのか~…」と、しぶしぶ腑に落とすしかありません。

 

 

無意識に”逆”アファメーションばかりしていた

 

しぶしぶとはいえ、本当にちゃんと理解はしているんです。
しかも、実体験を伴って。

 

ただ、私の場合は、残念なことに逆のパターンで起動させているというだけ!(ドヤァ

 

例えば「なんで私っていつもこうなんだろう…」「気疲ればかりして損だよな」と、暇があれば自分の粗を探して、自分を落としまくっている。

つまり「なりたくない自分」ばかり思い描いて、それをご丁寧に脳みそに刷り込んでいるわけです。

 

傍から見たら、というか、自分でも精神が安定していて客観的になれるときは、そんなにダメなヤツではないし、むしろ普通によくやってるなと思うこともあります。(年に数回だけど)
だけど、それに気づけたとて「なのに、なんでこんなにも自己卑下しちゃうんだろう…」と、また別の視点から自分を責めるわけです。

これもまた、自己卑下する自分でいなきゃと、脳に前提の状態を保たせていることになりますよね。
自己卑下するにふさわしい私でいなきゃいけないので、自分には粗があることが前提で生きてしまうし、こじつけでもいいから粗ばかり探すようになる。

 

なんという、粗探しの天才。
そりゃあ、自己肯定感なんて育めるわけがありません。

 

だからこそ、アファメーションが有効だとか、脳の仕組みを逆手にとるんだって話は身をもって理解している。
ただ、それを上手く活用ができない。

 

逆張りアファメーションに慣れすぎて、順張りアファメーションが上手くできない。
ネガティブな自分は前述の通り、すぐに何万通りでも想像できるけど、理想を叶えているポジティブな自分は、どうもうまく想像できないわけです。

 

まあ、よく考えたらそれは至極当たり前の話。
30年以上の年月をかけて、めちゃくちゃ強固な負の思考回路を構築してきたので、ちょっとやそっとで変わるものではありませんよね。

 

 

 

 

理論以上に大切なのは自分に合う方法に出会えるか

 

どうしたらいいのか、何から手を付けていいのか分からず、八方塞がりになったので、このテーマをエッセイにもらったのも何かのきっかけと思い、最近、こんな本を読みはじめてみています。

 

『あなたはあなたが使っている言葉でできている』ゲイリー・ジョン・ビショップ (著)

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まださわりしか読めていないのもあってか、正直に言うと「…うーん、結局気持ちってこと?」と思ってしまう節が多々あります。

ただ1つ印象的だったのは「あなたはもうすでに人生に勝っている」というフレーズ。
著者曰く、これは別に気休めでも励ましでもなく、本当に文字通り勝っているんだ、それどころか既に勝ちグセがついているんだと。

 

「…… は?」って感じですよね笑

 

私も最初は、まったく意味が分からず思考停止しました。

 

私の解釈を交えながらざっくり説明すると、人生で起きるものごとは全て、自分が想像した通りに動いている、だから全勝ということらしいのです。

 

でも、到底そうは思えませんよね。
現に、なんで私はいつもこうなんだろうと日々ふさぎ込んでいるんですから。
どこが勝ち組なのかって話です。

 

でも、続く説明を読んで納得しました。
ここで言う勝ちの定義は、想定通りになるというだけで、その”想定通り”が全て良いことかどうかはまた別の話なんだそう。

 

例えば「私はいつも上手くできない」「良い相手に出会えない」「お金が溜まらない」と思うとします。
そう思っている限り、その言葉通りになる、良くも悪くもちゃんと全て想像した通りになる、勝っているとはそういう意味ということなのです。

 

だから、どう勝ちたいかを正しく設定しないと、勝ちグセをちゃんと自分の目標に向けないといけないということ。

 

この考え方が、なんだか妙に個人的に腑に落ちたんですよね。
素直に「あーたしかに、じゃあやってみようかな」と思えたんです。

 

実際、ここ数日、気持ちがネガティブに寄りはじめたり、つい怠けそうになった途端、「おっと?そっちの勝ちでいいのか?」と、早速立ち止まる癖がつきはじめています。
今までアファメーションを咀嚼できなかったのが嘘みたい。

 

もちろん、アファメーションそのものの理屈が理解できるか、腑に落ちるかは大前提なんですが、こんな風に自分に合う方法や考え方を見つけるのも同じくらい大事だなと思うんです。

 

思考のように目に見えないものにアプローチしたいときは、特に。

 

勝ちグセの話だって、人によっては全く腑に落ちなかったり、それこそ気持ちの問題じゃないかと思うでしょう。
だから、どの方法、考え方が優れているかではなく、自分にとって優れた方法、スッと入ってくる考え方に、いかに早く出会えるか。
意外とここを柔軟にできなくて「これも続かなかった…私ってダメだ…」と自己嫌悪を重ねてしまうケースって、結構多いのではないでしょうか?

 

その方法が、続かなくてもいい。
続かなかったら、続くまで別の方法を探し求めればいい。
いくつか組み合わせてオリジナルメソッドを編み出したっていいんですから。

 

ちなみに、私の場合は、この勝ちグセの話のほかにも、Mind Movieと呼ばれるものも自分に合う気がしています。
Mind Movieとは理想の未来、セルフイメージを動画にして繰り返し見る習慣なのですが、おそらく私が視覚優位派なタイプなので、しっくりくるんだと思います。

 

この兆候は学生の頃からあって、教科書を何度声に出して読み上げても、その音や内容は1ミリも記憶に残らない。
でもその代わりに、目で追っていた文字や挿絵の配置とかは、意識しなくてもいつの間にか覚えられるんです。
右側の2つめの段落くらいに書いてあったとか、あのページの次くらいにあったはずとか。

 

そう思うと、毎朝鏡の前の自分に向かって言い聞かせるような、よく聞くアファメーション方法が効かない、続かないのも納得です。
だって何度話しかけようが、記憶に刷り込まれるのは前向きな言葉ではなく、鏡に映った自分の顔だけなんですもん。(そういえば、むくみとかちょっとした顔の変化には気づけるようになったかも…)

 

こんな風に少しずつ自分の特性にも気づきながら、アファメーションを取り入れられるようになると、歯車がかみ合ったように急速に変化が起きるのではないかなという気がしてきます。

 

 

 

 

なりたい自分を”なりたいのまま”にしないために

 

一度きりの短い人生なんですから、せっかくならなりたい自分をずっと追いかける状態から、ちゃんとそこに到達できるようになりたいですよね。

他人にとって都合のいい私でいたくないし、自分で人生を生きてる感を実感したい、ちゃんと良い方向に全勝したい。

 

そのためにはこの”たい”を外さなくちゃいけない、というのがアファメーションなのかもしれませんが…まあ急にはできないので。

 

こうやっていろいろ試す過程も楽しみながら、地道に自分改革を遂行していきたいなと思います。

 

【ハミングが届けるポジティブニュース】 「バケツの水をパイプラインへ」スコットランド人男性がネパールにもたらした、水と希望の物語

 

 

私たちの日々の暮らしにとって、「水」はあって当たり前の存在。朝起きて顔を洗い、コーヒーをいれ、家族の洗濯をする…。蛇口をひねれば、いつでも清潔な水が出てくる。もしそれが、ものすごく大変な重労働で、毎日何時間もかけて遠くまで汲みに行かなければならないとしたら?想像するだけでも、疲れてしまいますよね。

 

実は、ネパールには今も、そんな厳しい現実を生きている村がたくさんあります。特に水汲みの重労働は、幼い女の子や女性たちの肩にのしかかっています。

 

そんなネパールの村に、スコットランドからやってきた一人の男性が、文字通り「奇跡のパイプライン」を敷設し、人々の生活を根底から変えています。彼の名前はイアン・ベントさん。彼の行動のきっかけが、世界中でブームになった「アイス・バケツ・チャレンジ(難病支援のため氷水をかぶる、または寄付するチャリティー運動)」だった、というから驚きです。

 

 

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「水を頭から浴びるなんて水がもったいない!」— 熱い怒りが生んだ、画期的なアイデア

 

イアンさんは長年ネパールで生活し、ビミリ村の人々が抱える深刻な水不足を目の当たりにしていました。そんなある日、彼のもとにSNSで「アイス・バケツ・チャレンジ」の指名が届きます。当時、誰もがやっていたこのチャリティームーブメント。しかし、イアンさんはこの行為に激しく異議を唱えました。

 

彼の心の叫びは、SNSに投稿された率直なメッセージとなって飛び出します。

 

 

“イアンさんは「アイス・バケツ・チャレンジ」に異議を唱え、無駄に水を使う代わりにネパールの村のための井戸掘り支援を呼びかけ、人々に水の尊さと寄付の本質を気づかせた。”

 

 

「清潔で飲める水を、ただ頭からぶっかけるなんて、なんてもったいないんだ!こんなこと、全く意味がない!」

そして彼は宣言しました。もし本当に誰かを助けたいと思うなら、その水を捨てる代わりに、「この村の素晴らしい人たちのために、井戸を掘る費用として20ドル、あるいは可能な範囲で寄付してほしい」と。

 

彼のこの訴えは、当時のブームに「待った」をかけるもので、多くの人々の心に響きました。当たり前のように使っている水への感謝と、恵まれない人々への思いやりを、改めて考えさせてくれたのです。

 

 

重労働を体感!ネパールの伝統籠「ドク」で運ぶ、水の重み

 

イアンさんは、ただ言うだけでなく、自ら行動で示しました。

 

彼は、ネパールで昔から使われている、頭にバンドをかけて背中で運ぶ伝統的なかご「ドク(DOKU)」を使い、20リットルの水を村まで運ぶという挑戦を発表。この「ドク」は、何時間もかけて重い水を運ぶ女性たちの日常を象徴するものです。

 

 

“イアンさんはネパール女性たちの水運びを象徴する「ドク」で20リットルの水を運ぶ挑戦を自ら行い、多くの寄付と共感を集めて「ビミリ財団」を設立し、人々に水不足の現実と支援の大切さを強く伝えた。”

 

 

彼の呼びかけに、人々はすぐさま反応しました。数百人から寄付が集まり、その額は数千ドルに達しました。こうして、イアンさんの熱意と人々の善意によって、村に水を届けるための団体「ビミリ財団(The Bimiri Foundation)」が誕生したのです。

 

さらに、彼の友人たちも、あの過酷な水運びを体験するために「ドク・チャレンジ」に参加。参加者の一人、ジムさんは、「水があたり前にある国から来た私にとって、この重労働は、単なるバケツ一杯どころではない、感情にぐっしりと響く重みがあった」と語っています。

 

 

 

 

パイプラインが村にもたらしたもの — 蛇口から出る「時間」と「希望」

 

集まったお金は、ただの井戸掘りだけに終わりませんでした。イアンさんと村の人々は、水を自宅まで届けるための「パイプライン敷設」という、もっと大規模なプロジェクトに挑んだのです。

 

このプロジェクトが素晴らしいのは、村の全員が参加しているということです。

 

 

“イアンさんの呼びかけで始まった支援は村全員参加のパイプライン敷設へと発展し、ビミリ村の全家庭に水道が通って女性と子どもたちの時間と未来を解放し、生活と希望を大きく広げる結果につながった。”

 

 

子どもから大人まで、皆が一緒になって水道管を埋めるための溝を掘り、地元のエンジニアが技術指導を行いました。時には、資材を運ぶために道を作ったり、電気を引いたりといったインフラ整備にまで発展しました。まさに、「自分たちの手で未来を創る」という共同作業です。

 

そして、ついに成果が。ビミリ村の全ての家庭に水道が通り、蛇口から水が出るようになったのです!

 

これにより、10歳くらいの幼い女の子たちを含む女性たちが、毎日何時間も費やしていた水くみの重労働から解放されました。彼女たちが得たのは、水だけではありません。「時間」です。

 

得られた時間で、子どもたちは学校で学ぶことができ、女性たちは小さな飲食店を始めたり、家畜を増やしたりと、家族の暮らしを豊かにするための活動に専念できるようになったのです。水が、彼女たちの「可能性」と「希望」を広げたのです。

 

一人のスコットランド人男性の「もったいない」という怒りから始まった活動は、国境を越え、多くの人々の心を動かし、ネパールの村に命の水を届け続けています。

 

 

次の目標はナモブッダ地区全域へ!

 

最初の村で成功を収めたイアンさんの次の目標は、ビミリ村の周辺にあるナモブッダ地区全域の家庭に、一つずつ蛇口を設置すること。「すでに費用の計算を始めていて、すぐにでも作業を始めたい!」と意欲満々です。

 

さらに、スコットランドの小学校と連携し、生徒たちがネパールを訪れてイアンさんの活動をサポートし、「人を助けることの大切さ」を学ぶ教育プログラムも計画しています。

 

一人の男性の勇気ある行動が、世界を動かし、たくさんの笑顔を生んでいるこの物語。

 

私たちが日々当たり前に使っている「水」について、そして私たちの身近な行動が世界を変える力を持っていることを、改めて教えてくれます。

 

 

参考記事:https://www.goodnewsnetwork.org/from-the-water-wasting-ice-bucket-challenge-comes-pipelines-built-in-nepal/

【レビュー】『Love on the Spectrum』が教えてくれた、本当の「愛し方」

 

 

誰だって、一度は夢見たことがあるんじゃないでしょうか。
まるでおとぎ話みたいな恋を。

 

子どもの頃の私は、少女マンガにすっかり心を奪われていました。
不器用で、ちょっと頼りない男の子が、物語の最後には必ず主人公の女の子に恋をして、
まるでこの世界に彼女しか存在しないかのように見つめる――そんなシーンに胸をときめかせて。

 

 

おすすめ記事:【映画レビュー】Minari | ミナリとアメリカン・ドリーム

 

 

10歳の私には、それが「恋の理想」そのものだったのです。

 

でも、大人になるにつれて、恋の形はいろいろあることを知りました。
マンガの中で輝いていた恋は、現実では少し違う。
皮肉屋になったわけじゃないけれど、人の心はそんなに単純じゃないって気づいたんです。
正直でいるほうがきっと楽なのに、私たちはそれを怖がって、
争いも、痛みも、真実も避けてしまう。
そして、「うまくやろう」とついた小さな嘘が、
気づけば大きなもつれになっていく。

 

 

“『Love on the Spectrum』を通して、私は「誠実さ」と「静けさ」の中にこそ、本当の愛の優しさがあることに気づかされた。”

 

 

30代のある日、Netflixで『Love on the Spectrum』という番組を見つけました。
自閉スペクトラム症の男女が「恋」を探すドキュメンタリー。
最初は、自閉症のことをほとんど知りませんでした。
「スペクトラム」という言葉の通り、人によって度合いが違い、
主にコミュニケーションや人との関わりに影響がある――その程度の知識。
だからこそ、「恋愛」という誰にとっても難しいテーマを、
彼らがどう歩んでいくのかが気になったのです。

 

 

 

 

観始めたら、あっという間に時間が過ぎていました。
この番組には、描かれ方に対する批判もあると聞きます。
私は「定型発達者」だから、その立場から何か言えるわけではありません。
ただ、出演者の多くが白人で、比較的恵まれた環境にいたことが、
彼らの恋愛経験に影響しているのかもしれないとは思いました。
それでも心を打たれたのは、彼らの「誠実さ」でした。
自分にも、相手にも、家族にも、正直であろうとする姿。

 

彼らのデートに、相手に対する丁寧さと誠実さを感じました。
言葉を練習したり、服を選んだり、
男性たちは椅子を引いて、相手のためにドアを開けて。
会話はぎこちなく、沈黙も多くて、
「友達でいましょう」で終わることも少なくない。
でも、そこには不思議な温かさがあって、
思いがけない愛が、静かに芽を出していく。

 

沈黙が苦手な私にとって、その静けさは小さな発見でした。
言葉のない時間の中に、
優しさや真実が、確かに存在しているのです。

 

 

“彼らの前向きな姿から、恋において大切なのは自分を責めることではなく、「自分だけの光」を信じることなのだと気づかされた。”

 

 

そして何よりも美しかったのは、彼らの「前向きさ」。
うまくいかなくても、涙を流しても、決して諦めない。
「何が悪かったんだろう」ではなく、「きっと縁がなかったんだ」。
その潔さに、私は何度も心を打たれました。

 

恋愛を求めるとき、私たちはつい自分を責めがちです。
「可愛くないから」「細くないから」「背が低いから」――
そんな理由を並べては、
自分を「足りない」と思い込んでしまう。
でも考えてみたら、そんな風に自分を削ってまで恋をするなんて、
少し悲しいことですよね。
世界には、あなたより綺麗な人も、
賢い人も、魅力的な人もいる。
でもそれでいい。
あなたはあなたにしかなれないし、
その中にしかない光が、ちゃんとあるのです。

 

 

 

 

番組を見ながら思ったのは、
自閉症の人たちが持つ「シンプルな視点」が、
人間関係の本質をすっと映し出しているということ。
相手に好かれなかったとしても、
それはただの事実であって、
自分の価値とは関係がない。
痛みはあるけれど、必要以上に掘り下げない。
その潔さが、なんだか眩しく見えました。

 

そして、誰かを好きになったときの彼らの反応――
まっすぐで、純粋で、隠せない。
笑って、飛び跳ねて、全身で「嬉しい!」を表す姿に、
私は高校時代の初恋を思い出しました。
ただ「好き」という気持ちだけでいっぱいだったあの頃。
駆け引きも、言い訳もいらなかった。
ソファの上で笑いながら、
あの頃の胸の高鳴りを、ふと思い出していました。

 

 

“『Love on the Spectrum』を通して、愛とは飾らず正直に向き合い、時間をかけて育てていくものだと改めて教えられた。”

 

 

この番組の意味をめぐっては、
教育なのか、搾取なのか、エンタメなのか――いろいろと言われています。
でも、私にとっては「学び」でした。
自閉症について学んだこと以上に、
「愛」について教えられた気がします。

 

愛は、過去の傷や孤独を埋めるためのものじゃない。
作り笑いの中で育つものでもない。
時間をかけて、正直さの中で、ゆっくり育つもの。
相手の良いところも、弱いところも、
まるごと受け入れる準備ができたときにこそ、
愛は静かに根を下ろす。

 

だから、まずは自分に正直であること。
そして、相手にも誠実であること。
その勇気さえあれば――
愛はきっと、あなたのもとにもやってくる。

過去の失恋が気づかせた、わがままプリンセスすぎた私とパートナーシップの本質

 

 

過去の恋愛を振り返って、穴があったら入りたいくらいの恥ずかしさに襲われること、ありませんか?

 

とはいえ、私はそれほど恋愛経験が豊富ではなく、今も彼氏がいない期間記録を更新中。
過去の恋愛といっても、するめいかをしゃぶるかの如く、同じ思い出を反芻しているだけなのですが…

 

そのなかに「いや~~あのときの私、わがままプリンセスすぎた…!」と、思い出すたび、恥ずかしさに身もだえする思い出があります。

 

エスコートしてくれない、年上の彼

 

私がわがままぶりを発揮してしまったのは、大学時代に付き合っていた先輩と、遠距離恋愛になったときのことです。
彼が先に就職して東京へ行き、私は大阪。
夏休みに会いに行って、数日間彼の家に泊まらせてもらったことがありました。
当然平日は、彼は仕事なので私はひとりで観光するしかなかったのですが、休みの日には一緒に出かける予定にしていたのでそこは特に気に留めず。
むしろ、どんなところに連れてってくれるんだろうかと、ひそかに楽しみにしていました。

 

 

おすすめ記事▶ 大人になってから友達を作るのは大変?でも大人になったから築ける友情もある

 

 

でも、待てど暮らせどどころか、当日になっても具体的なデートプランの話は一切されず…
そう、よく言えば気の向くままに、悪く言えば行き当たりばったりのデートになったんです。

 

そんなの、大阪にいた頃と一緒じゃん…
あの頃はそれで充分だったよ…いつでもどこでも行けたから…
でも、久々に過ごす二人の時間なのに…
あなたは住んでても、私はめったに来れない東京なのに…

 

そんなモヤモヤが、出かけるときから薄っすら溜まっていき、決定打になったのが映画でした。

 

行き当たりばったりのなかで、前から二人とも気になっていた映画でも見に行くかという流れになったんです。
「日本全国どこでも行ける映画…でもまあまあ、まあ」と、心の中で一旦飲み込む私。
気になってた作品だし、それを彼と一緒に見に行けるのは素直に嬉しいし。
ただ、大ヒット映画だったことと、思い立ったのが直前すぎたせいで、なかなか空席のある映画館も、ちょうどいい時間帯の上映が見つからなくて。
ようやく予約できたものの、少し足を伸ばす映画館で、しかも前方のほうの席しかありませんでした。
見上げるような角度で観ることになって、首が痛いなあとは思いながらも、映画自体は普通に面白くて、上映後も感想を言い合ったりしてそれは純粋に楽しかった。

 

 

“年上の彼が自分のためにデートの計画を立ててくれなかったことへの寂しさが積もり、不満として爆発してしまった。”

 

 

 

だけどその後、少し時間が経ってから、ふと話の流れで上映館探しにまごついたことと、バッドコンディションで鑑賞したモヤモヤを思い出してしまい、彼を責めるようなことを言ってしまったんです。
「もっと早く予約してくれてたらよかったのに」的なことをぶつけてしまったんですが、今思えば、映画の座席なんてどうでもよかったんです。

 

本当に引っかかっていたのは、「私のために段取りしてくれなかった」ことに対する寂しさでした。

 

映画に限らず、私が訪問することは決まっていたのに、「ここに連れていきたい」「これを見せたい」といったデートプランを彼が考えてくれていないことが、やっぱりずっとしこりになっていたんですよね。

 

だってさ、年上の彼ですよ。
一足先に社会人、大人になった彼。
こっちはまだ、遠距離をひょいとは会いにいけない大学生。

 

そんなの、正直エスコートされたいとか、甘やかされたい的な憧れ抱いちゃうじゃないですか。

だから、
「毎週は会えないから!!」
「どっか連れてってくれるの?!くれないの?!」
と、ドリカムの『大阪LOVER』(私たちの舞台は東京だけど)さながらに、小さな不満を募らせ、結果、彼を一方的に責めることになってしまったんだと思います。

 

 

 

 

ディズニープリンセスだって自力で道を切り拓くのに

 

そんな感じで、その時の私は、彼に対して「もっとこうしてほしい」「わかってほしい」と求めるばかりでした。
土地勘は彼のほうがあるだろうし、年上だし社会人だし…と、とにかく自分から動くよりも、彼がリードしてくれるのを期待していました。

 

そんなあの頃の私にツッコみたい。

 

「いや、どこぞのプリンセスやねん」と。

 

時代は令和です。(当時はまだ平成ですが)

 

馴染みのない土地だろうが、なんなら海外だろうが、この手のひらに収まっている便利な電子機器1つで何でも解決する時代です。
美味しそうなお店、面白そうなスポット、見たいもの、行き方、リアルなレビューも全部調べられます。
それを彼がするか、私がするか、二人でするか、その三択。

 

というか、新社会人になったばかりの彼は、新しい土地で仕事にも生活にも慣れるのに精いっぱいで、毎日必死だったはずです。
今思えば、デートプランを練る余裕なんてそうそうなかったでしょう。
むしろ、彼が仕事中、ひとりで時間を持て余していたのは私のほうです。

 

 

“彼の優しさや気遣いに十分満たされていたはずなのに、当時の自分は「もっと特別にしてほしい」と受け身のまま欲を募らせていたことに気づき、今では恥ずかしく思っている。”

 

ディズニープリンセスだって、自分の足でたくましく道を切り拓いていく時代に、お城のてっぺんの窓辺で優雅に白馬の王子様を待ち続ける、超受動的プリンセスになってた。恥ずかしすぎる。

 

しかも、彼は何もしてくれなかったわけじゃありません。
滞在中、私は誕生日を迎えたのですが、その日にはおしゃれなレストランを予約しておいてくれたし、プレゼントに手紙まで書いてくれていました。

 

なんて素敵な彼氏!!!
それだけで十分ありがたいでしょうが!!!

 

と、当時の私を引っぱたきたい気分です。

 

それでも、そのときは本気で悪気なく「もっと」を求めていたんだから、恐ろしい話です。

 

 

次こそは、お互い与えあえるパートナーに

 

そんな子どもすぎる不満をぶつけても、彼は私に言い返したり愛想をつかす素振りもなく、むしろ優しく「ごめんね」と謝るだけでした。
もう十分甘やかされていたどころか、私は負担ばかりかけていたのに、そのときは全然気づけなかった。

 

ようやく気づいたのは、自分が社会人になってからのことでした。
社会に出て、右も左も分からない環境で毎日働いて、生活を紡ぐことが、どれだけエネルギーがいることか。
私は慣れ親しんだ地元に帰って、しかも実家から通える会社に入社したのに、それでもしんどかった。
重い足取りで家路につくなかで、ふと彼の顔が浮かび、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

 

“過去の未熟さから彼に思いやりを欠いていたことを今になって悔いながらも、謝るのではなくその痛みを胸に刻み、自分への戒めとして受け止めている。”

 

 

彼はきっと、いっぱいいっぱいの中で、それでも私に時間を割いてくれてたのに。
疲れて帰ってきて、家で一人になれる時間がなかったのもしんどかったよな、きっと。
私だったら、帰って彼氏が居て嬉しいのはせいぜい最初の1-2日だけだもん。
3日目くらいからちょっと鬱陶しくなっちゃうし、休みの日はゆっくり家で寝たいわ。
そう思うと、まあまあ骨の折れる彼女だったなと、失笑してしまいます。

 
でも、気づいたときには、時すでに遅し。
彼とは、私が社会人になる随分前にお別れしてしまっていたので、謝ることも挽回することもできないままです。
何年も経った今も、こうしてたまに申し訳ない気持ちがチクッと心に蘇ります。
でも、これくらいのチクチク、私が彼にぶつけた思いやりのなさに比べたら全然たいしたことありません。
だいたい、今さら謝るのもおかしな話だし、何よりそれは結局自分が許されたい、スッキリしたいだけ。
そんなの、逆にまた彼を傷つけることになります。

だから、このチクチクはそっと胸にしまっておく。
むしろ、これを抱えたまま生きていくことが、自分への戒めになる気がします。

 

 

 

 

…いや、それはさすがに綺麗事かな。
これで多少、当時の罪滅ぼしにならないかなって邪な気持ちもあるし。

 

でも、もしいつかまた誰かとお付き合いできたら、次こそ、求める人ではなく、相手を思いやって自分から与えられる人になりたいです。
子どもすぎる私を受け止めてくれた、優しすぎる彼から教わった大事なこの教訓はこれからも忘れずにいたいと思います。

 

……と言いつつ、書いていたらあまりにも申し訳なさが溢れてきたので、この場を借りてこっそり彼に謝らせてください。

あの時はマジでごめん!!!ほんとありがとう!!!

セキララカードで本音トーク。Humming編集部が試してみた!

 

 

今回は“セキララカード”を使って、編集部メンバーが本音トークをしてみました。

 

セキララカードは、カードに書かれた質問に答えるだけで、自然と心の奥の気持ちが言葉になるコミュニケーションカード。

 

「本音を話すきっかけがほしい」
「いつもより深く話してみたい」

 

そんな時にぴったりのツールとして人気を集めています。

 

Humming編集部は、アメリカ・東京・福岡と、それぞれ離れた場所に暮らしているため、今回は、オンラインで使えるセキララカード for Friendsを使ってプレイしてみました。

 

離れていても、カード1枚で心の距離がぐっと近づく。そんな体験をお届けします。

 

セキララカードの詳細はこちら▼
https://shop.humming-earth.com/products/sekirara-couple

 

 

Q1. もしお金の問題がなかったら、どこに住みたい?

 

純:では、セキララカードを始めましょう!今回は職場の人や友達と使えるカードです。カテゴリーには「アイスブレイク」「価値観」「恋愛感」「セックス」がありますが、どれから始めましょうか?

 

舞麻:価値観がいいです!どうしよう、チームみんなの価値観が違ったら……(笑)

 

純:では1問目。「お金の問題がなかったら、どこに住みたい?」

 

美樹:私が理想とするライフスタイルは、たくさんの本に囲まれて、気持ちのいい椅子に座って、サンルームみたいなところで過ごすこと。海が見えたら最高です。年間を通して気候が大きくぶれないところであれば、場所にこだわりはありません。

 

純:日本以外でも大丈夫?海外だと言葉の壁もありそうですが。

 

美樹:言葉の壁は、怖くないと言えば嘘になります。でも、今の時代は翻訳アプリもあるし、どうにでもなるのかなと。だから日本以外でもOKです。

 

沙織:私はお金の心配がなければ、低層階マンションの一番上の部屋に住みたいです。自分の好きなものだけに囲まれて暮らしてみたい!

 

純:おぉ〜豪華。都会が良いですか?

 

沙織:うーん、東京が良いです。

 

純:私はその真逆です。山の中にある大きな別荘でひっそり暮らしたい。犬や猫も好きだから、旦那さんと動物たちに囲まれて、静かに暮らしたいな。舞麻さんは?

 

舞麻:私は1年を3ヶ月ずつに4分割して、カリフォルニア、ヨーロッパ、日本、ハワイなどのあたたかい場所……みたいな生活がしたいです。その土地に飽きる前に次の場所に行ける、みたいな。どれだけ移動していたいんだろう(笑)。自分を成長させてくれる刺激を求めているのかもしれません。

 

でも、今は子どもたちの学校があるので、移動しながらの暮らしは難しい。同じ場所で毎日同じことを繰り返す今の生活は、自分にとっては試練であり、成長の場だと感じています。

 

 

Q2. 学校で教えてほしかったことは?

 

舞麻:歴史の楽しさ!学生時代に日本史も世界史も学んだけれど、当時はその面白さがよくわかりませんでした。
大人になってから本を読むようになり、歴史がぐっと身近に感じられるようになりました。
もっと早く歴史の面白さに気がつきたかったです。

 

純:すごくわかります。学生時代の歴史の授業は、当時の自分には少し難しく、なかなか楽しめませんでした。学生時代は今よりも自由な時間があったので、もっと歴史の本を読めばよかったと感じています。
あとは「お金について」ももっと学びたかったです。クレジットカードの使い方や、借金の仕組みなど、基本的なことを知る機会がないまま大人になってしまいました。

 

20代の最初は、クレジットカードを使いすぎて借金だらけになった時期も……。親に叱られて、アルバイトを掛け持ちして返済しました。

 

もし高校や大学でお金のことを学んでいたら、もう少し上手にお金を使えていたかもしれません。お金の教育は本当に大事だと思います。

 

沙織:私もお金や税金のことを学生時代に学びたかったです。フリーランスになって、自分で確定申告をするようになった時に、「全然わかんない!」と泣きたくなりました。

 

美樹:私は「自分との約束を守ること」が、どれだけ自分自身を大切にし、ひいては他者を大切にすることにつながるのかを体系的に学びたかったです。というのも、大人になってから、自分との約束を守れなかったことで、痛い思いをした経験がたくさんあるので。

 

部活に打ち込んでいた人は、目標をやり遂げる達成感を通して自分との約束を守る力を身につけているのかもしれません。でも、部活をやってこなかった人とかは、自分との約束を守る大切さを感じる機会が少ないのかなと。

 

純:深い!!

 

 

 

 

 

Q3. 子どもの頃の夢は実現しましたか?

 

舞麻:私はファッションスタイリストかヘアスタイリストになりたいと思っていました。でも叶ってないです(笑)。
今でもおしゃれは好きですが、人のためではなく、自分のために綺麗でいられたら、それで満足!

 

沙織:私は幼い頃から幼稚園の先生に憧れていましたが、結果的に先生にはなりませんでした。でも、大学では教育学を学び、社会人になってから保育士免許も取りました。今は子育てもできているので、ある意味、幼児教育には関われているのかなと。

 

美樹:小学生の頃の夢はイラストレーターになることでした。当時はオリジナルキャラクターを作って、クラス新聞を作っていました。今はブランドディレクターをしていますが、過去にはアートディレクションや編集の仕事もしてきたので、夢は叶っているのかもしれません。

 

舞麻:おー!夢が叶ってる人がいた!

 

純:子どもの頃の夢は、大人になるにつれて変わることもあります。だから、夢が叶っている人は少ないかもしれません。

 

私は子どもの頃、「これになりたい」という夢がなかなか定まらなくて、よく変わっていました。中学生の頃の夢は、声優でした。

 

舞麻:似合うよ!今からでも挑戦したら?!

 

純:中学生の頃、日本に住んでいた時に、声優学校に1年程通いました。声優にはならなかったけれど、その経験はすごく楽しかった。アメリカ育ちで日本に住んでいた期間もインターナショナルスクールに通っていたので、純日本人の同い年の子たちと話すことが新鮮で。あとは、発声がすごく良くなりました。

 

 

Q4. 恋愛において「重い」とは?

 

舞麻:次は「恋愛感」をやってみない?

 

純:そうしましょう!では次の質問は「恋愛において重いとは?」

 

舞麻:重いのは無理!

 

一同:爆笑www

 

舞麻:日常の行動が自立していない人は無理です。落ち込んでいる時に精神的な支えになることはできるけれど、基本的に自分のことは自分でできる人がいい。

 

その点、夫は料理も洗濯も全部自分でできるので助かっています。

 

あとは、嫉妬も苦手。私は私、あなたはあなた。お互いにちゃんと境界線を持っていたいです。

 

沙織:私も同じです。「私を幸せにして」みたいな人は重いですね。それぞれが自分の人生を楽しんでいて、その上で一緒にいられるのが理想。35歳を過ぎてから「自分を幸せにできるのは自分だけ」だと痛感しています。

 

純:うんうん、同感!

 

美樹:重い人って、“テイカー”ですよね。相手から奪おうとしたり、コントロールしたい気持ちが強い人。
でも、私自身も、まだ重いシーンはたくさんあるなと感じます。

 

たとえば、パートナーに「もう寝る時間だから寝ようよ」と自分の軸で決めてしまうことって誰にでもありえることだと思うので。

 

純:私は、自己嫌悪や被害者意識が強い人を重いと感じてしまいます。

 

苦しいことがあっても、自分で立ち上がる力がある人がいい。「慰めて〜」というタイプの人は、少し苦手です。というのも、私、慰めるのがすごく下手なんです。もちろん話は聞くけれど、最終的には自分の力で立ち上がってほしいですね。

 

 

 

 

 

Q5. 両親の関係性は、自分の恋愛観にどう影響している?

 

純:私の両親は性格が正反対で、喧嘩が多い家庭でした。子どもながらに、2人の間にあまり愛を感じられなかったこともあり、恋愛や結婚にはとても慎重になりました。「この人だ!」と100%思えなければ結婚しないし、その人との子どもも欲しくない。だから、41歳になった今も結婚していません。

 

舞麻:両親の関係性は自分の恋愛観に影響するよね。

 

沙織:うちの両親も若い頃は喧嘩が多く、小さい頃は夫婦喧嘩が怖くて兄弟で押入れに隠れていたこともあります。
父は仕事一筋で、子育てはほとんど母が担っていたので、母はきっと大変だったと思います。

 

でも、父が50歳を過ぎて大病をしてから、夫婦の絆が深まったんです。今では2人で仲良く旅行や食事を楽しんでいます。
そんな姿を見ていると、若い頃は色々あっても、歳を重ねればうまくいくこともあるんだと思えるようになりました。

 

美樹:私の母は陶器を使ったアーティスト、父は建築士で、それぞれが自分の世界観を大切にしていました。いい感じにお互いに興味がないけれど、仲は良い、みたいな。

 

ただ、相手が本当に求めている優しさを察するのはお互いに苦手だったようで、求めていない優しさをお互いに降り注いで喧嘩をしていました(笑)。

 

そんな両親をみて、相手が欲しい優しさをどう汲み取るかが大切なことを学びました。

 

純:では最後に、舞麻さん!

 

舞麻:私の両親は、とても仲が良くて、いつもイチャイチャしていました。一方で喧嘩も多く、私が20歳のときに離婚しました。

 

親の離婚を経験してからは、「あんなに愛し合っていた両親でも離婚するのだから、私は結婚しなくてもいいや」と思うようになりました。

 

でも、夫と付き合っていたとき、日本に来るたびに入国審査で止められるようになって。

 

2時間拘束された翌日に入籍しました(笑)。

 

結婚のきっかけは入国審査でしたが、結婚の決め手は「恋心が落ち着いたあとでも、夫となら一緒にいたい」と思えたからです。

 

今振り返ると、宇宙の流れに逆らわず、夫と結婚して良かったです。

 

 

心を開くきっかけをくれるセキララカード

 

純:今日は赤裸々に語ってもらって、みんなのことをさらに知れた気がします。

 

舞麻:楽しかった!

 

美樹:またやりましょう、これ!

 

沙織:ミーティングの前とかに短時間でやっても良さそう!

 

純:セキララカードはただの質問カードではなく、心を開くきっかけをくれるツールですね。読者の皆さんも、ぜひ試してみてください。

 

Humming公式セレクトECショップはこちら▼
https://shop.humming-earth.com/

【ハミングが届けるポジティブニュース】 アマゾンの森から届いたうれしいニュース──火災被害が65%減少

ジョシュア・スティーブンス撮影、NASA地球観測衛星が捉えた2019年のアマゾン山火事

 

 

「地球の肺」とも呼ばれるアマゾン熱帯雨林。2019年には世界中のメディアが「燃えるアマゾン」と大きく報じ、その光景に胸を痛めた人も多いでしょう。干ばつや人為的な理由で広がった火災は、森林破壊だけでなく生態系や地球全体の気候にも深刻な影響を与えるとされてきました。

 

そんなアマゾンから、この9月、希望を感じさせるニュースが届きました。

 

2025年、アマゾンで火災により失われた森林面積は前年より65%減少し、観測が始まって以来の最小を記録したのです。

 

 

昨年の干ばつから一転、今年は雨と人々の努力が守った森

 

2024年には、アマゾン流域で記録的な干ばつが発生し、数十万エーカーの森林が焼失しました。乾いた大地と強風によって火災はさらに広がり、消火活動も追いつかない状況が続いたのです。

 

しかし2025年はこの状況が大きく変わりました。環境研究者フェリペ・マルテネクセン氏によれば、今年は「例年以上に強く、長く続いた雨季」が森林を守り、さらに「農民や住民が火の扱いにいっそう慎重になった」ことが火災の減少につながったといいます。

 

自然の恵みと人々の努力が重なった結果、アマゾンの森はかつてないほど火災から守られたのです。

 

 

衛星が捉えた「観測史上最小」の数字

 

火災の規模は、衛星モニタリングプロジェクト「MapBiomas」によって記録されています。このプログラムは、2019年の大規模火災をきっかけにスタートし、毎年の火災面積を追跡してきました。

 

そのMapBiomasの最新データによれば、2025年にアマゾンで焼失した森林面積は観測開始以来最も小さく、前年から65%も減少しました。さらにアマゾン流域にとどまらず、ブラジル全土でも火災による焼失面積は前年比54%の減少。ブラジル国内全体でも自然環境の回復が進んでいることがわかります。

 

 

 

 

COP30を前に「地球の肺」に注目が集まる

 

今年12月には、ブラジルのベレン市で国連気候変動会議「COP30」が開かれます。このタイミングも象徴的です。開催地はアマゾン流域の都市で、まさに世界中の視線が「地球の肺」に注がれます。

 

ブラジルのルーラ大統領は「2030年までにアマゾンの森林破壊を終わらせる」との公約を掲げています。今回の数字は、その実現に向けた希望のサインともいえるでしょう。

 

 

未来への希望をつなぐ

 

かつて「燃えるアマゾン」と呼ばれた光景は、世界に無力感を与えました。しかし2025年の成果は、そのイメージを大きく塗り替えます。

 

アマゾンの森はまだ生きており、守ることができる。人と自然が協力すれば、地球規模の課題にも希望を見いだせる。

 

このニュースは、そんな力強いメッセージを私たちに届けてくれています。

 

参考記事:https://www.goodnewsnetwork.org/brazil-records-65-percent-drop-in-amazon-area-burned-by-fire-lowest-since-monitoring-began

「頑張りすぎてしまうあなたへ」Hummingが届ける、癒しのセルフケアアイテムとは?!【編集部対談】

 

 

2025年10月13日、HummingのECサイトがOPEN!
コンセプトは「いつも誰かを気づかって、頑張りすぎてしまうあなたへ」。

 

自分へのご褒美にも、大切な人への贈り物にもぴったりな、心と体を癒すアイテムを編集部が心を込めてセレクトしました。

 

今回は、Humming編集部メンバーが、ECサイト立ち上げの想いと、おすすめのアイテムについて語ります。

 

 

 

記事だけじゃ伝えきれない、“本当に良いもの”を形に

 

舞麻:WebマガジンHummingは「これをやって良かったから、みんなにも試してほしい!」という気持ちで記事を書いています。でも記事だけでは伝えきれないこともあって。

 

記事を読んで終わりではなく、実際に手に取って暮らしの中で感じてもらいたい。そんな思いから、ECサイトを立ち上げました。

 

ラインナップは、「これ本当にいい!」と感じて、愛用しているものばかりです。

 

沙織:Hummingで取り扱っているのは、具体的にはフェムケアソープとかアイマスクとか、セルフケアのアイテムですよね。

 

舞麻:そうそう。アイマスクは私にとって欠かせないアイテムです。「ナイトライトをつけて寝ると、目を閉じていても体がしっかり休まらない」と聞いてから、寝る時は光を遮断することを意識しています。就寝時はもちろん、飛行機に乗るときなどにアイマスクを使っています。

 

沙織:Hummingでは、2種類のアイマスクを取り扱っているんですよね。

 

舞麻:ひとつは持ち運びに便利なシルク素材。軽くて、肌触りが良くて気持ちがいい。目に当たる部分がくぼんでいるのでマツエクが潰れないのもポイントです。

 

 

Coming Soon!

 

 

もうひとつは重みのあるタイプ。装着すると目にちょうど良い圧がかかるので、リラックスできます。ベッドで横になって使うと深い休息がとれますよ。

 

 

 

 

沙織:私、最近、夜中に目が覚めて眠れなくて……。アイマスクしてみようかな。

 

舞麻:それ、更年期のはじまりのサインかもしれません。エストロゲンやプロゲステロンといった女性ホルモンのバランスが崩れると、自律神経が乱れて、夜中に目が覚めやすくなると言われています。

 

沙織:えーーー、更年期?!この1ヶ月くらいずっと眠れなくて……。

 

舞麻:30代後半から40代は、プレ更年期に入ってくる時期です。一度ホルモンの数値を調べてみても良いかもしれません。
あとは、ベッドに横になって目を閉じたまま、視線を右・左・右・左とワイパーみたいに動かすのも、眠れない時におすすめです。これは、アメリカの神経科学者アンドリュー・ヒューバーマンが紹介していた方法で、実際にやってみたら本当に良く眠れました!

 

沙織:今夜やってみます。でも……更年期のはじまりだと思うと、ちょっとショックです。Hummingは“38歳から読みたいWebマガジン”とうたっているので、読者の中には、これから迎える更年期に不安を感じている方や、すでに症状に悩んでいる方も多いかもしれませんね。

 

舞麻:そうですよね。HummingのECサイトでは、プレ更年期や更年期の悩みに寄り添えるアイテムを意識して選んでいます。

 

 

編集長おすすめはシルクの足首ウォーマー

 

舞麻:私のいちおし商品は「イオンドクターの足首ウォーマー」です。18年以上愛用しています。

 

 

シルク素材だから軽くて、着けるとすぐにポカポカと体が温まります。妊娠中にも使っていましたし、生理の時にも欠かせません。持ち運びにも便利なので、ホテルでの会議など、冷える場所では、こっそり着けることもあります。

 

日本の家は構造的に寒いと言われているので、足元の冷え対策にぴったりなアイテムです。

 

沙織:在宅ワークをしていると、冬場は本当に足元が冷えるので、私も足首ウォーマーを狙っています!

 

ちなみにHummingでは、ショートサイズのシルク足首ウォーマーを11,880円で販売予定です。

 

舞麻:とても良い商品だから、イオンドクターを試してほしいけれど、「ちょっと値段が……」という人は、他のレッグウォーマーでも全然良いです。大事なのは手首や足首を温めること。体の冷え方が全然違うから、本当におすすめです。

 

 

女性のリズムに寄り添って。生理とフェムケアに込めた想い

 

舞麻:Hummingのチームは全員女性です。既婚の人、未婚の人、離婚している人……、いろいろな立場のメンバーがいますが、みんな女性だからこそ、体調の変化や生理のことも自然に話せます。

 

この間、チームでフェムケアについて話し合う機会があった時に、私の“生理との向き合い方”をシェアしたんです。私は生理の1日目は必ず休むようにしていて、それが自分の体を大切にすることにつながると思っています。そうした考え方は商品の選定にも反映していますし、Webマガジンでも生理について積極的に発信しています。

 

沙織:先日、舞麻さんがLINEグループに9分くらいのボイスメモを送ってくれたんですよね。私はこれまで、生理で貧血がひどくても、子どもを公園に連れて行ったり、いつも通り家事や仕事をしたり、「生理=休む時期」とは考えたことがありませんでした。だから、「生理の1日目は無理せず休む」という舞麻さんの話が新鮮でした。今まで頑張りすぎていた自分を、少し褒めてあげたくなりました。

 

日本でも生理休暇のある会社は増えていますが、実際に利用している人はまだ少ないと思います。だからこそ、「生理の時は体を労わってあげるべき時期なんだよ」というメッセージをもっと日本の女性に伝えていきたい。それに合わせて、ECショップではフェムケアのアイテムも充実させていきたいですね。

 

舞麻:生理があるからこそ、子どもを産むことができる。だから、生理の期間は体を労わり、尊重する大切な時間だと伝えていきたいです。社会の認識が変われば、一人ひとりの行動もきっと変わっていくと思うので。

 

沙織:フェムケアも、ただ流行っているから取り入れるのではなく、生理を正しく理解したうえで、自分の体と向き合うきっかけになればいいですね。

 

生理の話は改めて紹介予定なのでお楽しみに。

 

 

小さな癒しを日常に。心と体を整えるお茶と香りのアイテムたち

 

舞麻:私は「生理から生理まで」をひとつのサイクルとして、体や心の調子を見るようにしています。ホルモンの変化でイライラしたり、眠くなったり、気分が上下するのは自然なこと。気持ちが揺らぐ時こそ、自分をいたわる時間をつくってほしいですね。

 

HummingのECショップで扱っているお茶は、リラックスしたい時にぴったりのアイテムです。

 

沙織:先日、ティートを飲んでみたのですが、茶葉ごと味わえるからゴミも出ないし、満足感があって気に入っています。

 

 

舞麻:ティートは、本来なら捨てられてしまうフルーツを使って作られているんですよね。フードロスの削減にもつながっています。

 

沙織:Hummingでは他にもヨモギ茶を扱っていますよね。

 

 

舞麻:よもぎもすごく大事!

 

沙織:お茶以外だと、エッセンシャルオイルシャワースチーマーなど、香り系のアイテムも取り揃えています。

 

 

舞麻:エッセンシャルオイルは、毎日のように使っています。ニキビにはティーツリー、咳にはユーカリ、蚊に刺されたらペパーミント。夜はラベンダーオイルで子どもをマッサージしてあげることもあります。香りのリラックス効果は本当に大きいですね。もっと深く学んでみたいと思うくらい、日々助けられています。

 

沙織:私もエッセンシャルオイルにはすごく興味があります。でも、普段はディフューザーに垂らして使うくらいで、他の使い方をあまり知らなくて。

 

 

舞麻:たとえば、ラベンダーなら、ホホバオイルやココナッツオイルに混ぜて使います。ユーカリは、旅行中に咳が出た時にトイレットペーパーに少し垂らして枕元に置いたり。かなりズボラな使い方ですが、効果は抜群です。推奨はされないかもしれませんが、ティーツリーはニキビに直接ちょんちょんと塗ってしまうこともあります。

 

 

朝、子どもたちがなかなか起きてこない時は、オレンジやレモン、グレープフルーツなどのシトラスの香りをディフューザーに入れて。ベルガモットを少し足して、香りをアレンジすることもあります。

 

沙織:そんなに自由に使えるんですね。エッセンシャルオイルの活用方法を知らない人は結構多いような気がします。舞麻さんの使い方、ぜひHummingでもシェアしていきたいです!

 

舞麻:自由でいいんです。ダメな使い方なんて基本ないと思う。うちはトイレットペーパーに直接ちょんちょんですから(笑)。

 

 

西洋×東洋のいいとこ取り。セルフケアを日常に

 

沙織:あともう一つ使い方を聞きたいのが、今Hummingで取り扱うか迷っているキャスターオイル。お試しで使ってみたのですが、ねっとりしていて、ボディマッサージしようと思ったら難しくて……。

 

Coming Soon!

 

舞麻:キャスターオイルは、手のひらに出して伸ばしてから、お腹にやさしく染み込ませるといいですよ。ティッシュに染み込ませてお腹に置くだけでも大丈夫。

 

卵巣に良性の腫瘍があったママ友が、キャスターオイルを毎日続けて使っていたら、症状が軽くなったという話を聞いたことがあります。

 

私自身も流産を経験した時に使っていたし、生理の時のケアにもおすすめです。オイルなので、使い方に決まりはなく、体のどこに塗っても安心して使えます。

 

沙織:なんと万能なオイル!

 

舞麻:私が大事だと思っているのは「西洋医学と東洋医学のいいとこ取り」。たとえば、がんを東洋医学だけで治そうとするのはリスクが高いかもしれません。でも抗生剤をむやみに使うのも危険です。抗生剤は悪い菌だけではなく、腸内の良い菌も殺してしまうからです。

 

もちろん命に関わるなら抗生剤に頼るべきですが、「ちょっと風邪だから」とすぐに使うのは考えた方が良いと私は思っています。たとえば、普段から野菜や食物繊維を増やしたり、ヨーグルトや納豆、お味噌といった発酵食品を摂る。泥に触れたりペットと暮らしたりして日常の中で免疫を育てることも大切。

 

お医者さんに頼る前に、自分でケアできることはする。キャスターオイルも、そのひとつだと思っています。

 

沙織:キャスターオイル、扱いたいですね。使い方がわからなかったから、まだ仕入れていないので、商品ラインナップに加えたいです。

 

 

「買うこと」が応援になる。Hummingのセレクトに込めた想い

 

沙織:ECサイトで取り扱う商品は、オーガニックであったり、女性経営者が手がけていたりと、背景にもこだわって選んでいるのが印象的です。

 

舞麻:アメリカでは、女性が社会で活躍することや、対等な賃金を得ることが重視されています。だからこそ、女性が立ち上げたブランドや、小規模でも丁寧にものづくりをしている会社の商品を選んで使おう、という意識が自然と身についてきました。

 

Hummingで扱っている商品も、そうした背景を持つお店から仕入れているものが多いです。

 

沙織:商品を買うことが、小さな企業や作り手を応援することにつながる。今はモノがあふれる時代だからこそ、「どこで買うのか」を考えるきっかけになったら良いですね。

 

 

疲れた時に遊びにきてほしい

 

沙織:どんな方にHummingのECサイトに足を運んでもらいたいですか?

 

舞麻:買うかどうかは別として、「ちょっと疲れたな」「最近、自分をケアできていないな」と感じた時に、気軽にのぞいてもらいたいです。

 

Hummingを通して、自分をケアすることに時間をかけている人もいるんだと知ってもらえたら嬉しいです。

 

「自分をケアすることって、悪いことじゃないんだ」「ちゃんと自分を大切にしていいんだ」と感じてもらえたらと思います。

 

沙織:Webマガジンの記事を読んでいただいて、気になる商品があればECショップに立ち寄ってもらうのもいいですよね。

 

舞麻:いつか東京や大阪でポップアップもしたいですね。

 

沙織:いいですね!ぜひやりましょう。

 

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【映画レビュー】「Strip Down, Rise Up」| ポールダンスを通じて女性が立ち上がるとき

 

 

女でいることって、本当にしんどいときがある。

 

これを読んでいる多くの人もきっと同じように感じていると思う。疲れるんだ。私たちのすべてがジャッジされる――服、声、化粧の量、体重。止まることがない。そして最悪なのは? その基準が、全部男たちが作り出したくだらない「基準」で、社会の隅々にまで染み込んでしまっていること。どこに行っても、何をしても、私たちは「十分じゃない」と言われ続ける。自由に「存在する」ことさえ許されない

 

だからこそ、Netflixのドキュメンタリー『Strip Down, Rise Up』は私の胸を強く打った。これは、女性がポールダンスを通じて自分の身体とセクシュアリティを取り戻していく物語だ。多くの人は「ポールダンス」と聞くと即座に「ストリッパー」を連想し、「恥ずかしいもの」として切り捨ててしまう。いまだに性産業が偏見の対象になっているから。でも、このアートの形にはそれ以上のものが詰まっている。確かに肉体的にハードなワークアウトでもあるけれど、それ以上に深く親密なダンスだ。ポールの上で、女性たちは自分の身体や強さ、そしてセクシュアリティと再びつながるための「深い対話の場」を見つけ出すのだ。

 

 

おすすめ記事 ▶ 「過去の記憶と向き合う:映画『You Were My First Boyfriend』が教えてくれたこと」

 

 

セクシュアリティは恥じゃない

 

なぜ私たちはセックスをそんなに恐れるのだろう?

 

ほとんどの人が食べ物や水のように自然にそれを求めている。ほとんどの人が、誰かと一緒に、あるいは一人で、それを楽しんでいる。閉じられた扉の向こうでは、それは許されていて、ほとんど見えない存在。でも、一歩外に出て、自分のセクシュアリティを主張しようとした瞬間、それはタブーになる。恥ずかしいものとされる。その矛盾が、私にはどうしても理解できない。

 

もちろん、自分のセクシュアリティをプライベートに留めておきたいという気持ちは理にかなっているし、多くの人がそちらを選ぶ。それはその人の自由。でも、違う選択をした人たち――自分のセクシュアリティを堂々と、隠さずに生きようとする人たち――を社会がわざわざ恥ずかしめようとする、その構造こそがおかしいのだ。表現することは黙っていることを否定するものではないし、黙っていることも表現を消し去る理由にはならない。

 

“セクシュアリティは多くの人にとって自然で大切なものなのに、社会はそれを表に出すことを恥とし、しかし『S Factor』のような場では女性が自分の身体や官能性を取り戻し、本来の自分とつながり直していることが描かれている。”

 

映画の中で紹介されるのが、「S Factor」というポールダンススタジオだ。創設者は元女優のシーラ・ケリー。彼女はストリッパー役を演じるための役作りでポールダンスを知り、リサーチのつもりがすぐにそれ以上のものへと変わっていった。最初はフィットネスクラスとしてプログラムを作ろうとした――「男性の視線」とは切り離された、自立したワークアウトとして。でも、彼女は気づいた。彼女のクラスに通う女性たちにもっと深い変化が起きていることに。彼女たちはただ筋力をつけているのではなく、長い間「隠すべき」と言われ続けてきた自分の一部――身体、官能を感じること、心の声――を取り戻していたのだ。その気づきがシーラのビジョンを一変させ、「S Factor」は、女性たちが自分自身と新たにつながることができる場へと変わっていった。

 

 

 

失われた自分を取り戻す

 

私たちが最初に出会うのは、50歳で二人の子どもを持つエブリン。彼女は2年ほど前に夫を亡くし、それ以来ずっと漂うように生きている――かつての自分の殻だけを抱えて。カメラは、キャンディショップの店で働く彼女を追いかける。その声は静かにナレーションとなって響く。「お客さんのお世話はできる。でも車に乗ったら、音楽もない、命もない」。長い迷いの末、彼女は「Strip & Rise」という6か月の初心者向けプログラムに申し込む。これは女性が再び自分自身を愛せるようになるためにデザインされた、S Factor のコースだ。

 

このクラスに入る多くの女性たちは、何らかの「喪失」の物語を抱えている――自分自身を失った人、身体を失った人、力を失った人。長年S Factorに通うパトリシアは、失恋をきっかけに女性としての価値を疑い、ポールダンスを始めた。免疫疾患を患うジェイミーは、長年自分の身体に居場所を感じられずに苦しんできた。そして元体操選手のメーガン。彼女は子どもの頃、コーチから性的虐待を受け、それ以来、自分の身体が自分のものではなく誰かに奪われたもののように感じてきた。

 

“S Factor に集う女性たちは喪失や暴力の経験を抱え、自分の身体や女性性を取り戻そうとする中で、社会に植え付けられた恥や抑圧から解放され、自分自身を再発見していく姿が描かれている。”

 

グループの中には、レイプを生き延びた女性もいた。彼女たちの物語は、言葉にされなくてもクラス全体に流れる痛みとなり、暴力と恥がどれほど深く女性の身体に刻み込まれるのかを思い出させる。

 

そして私も同じように感じる。女である限り、私の身体は完全に自分のものだと感じられたことがない。常に「見られるもの」として存在してきた――通り過ぎる他人にジャッジされるショーウィンドウのマネキンのように。幼い頃から、私たちの女性性は押し黙らされ、形を変えられ、他人によって決められてきた。何が美しいのか、何が望ましいのか、「やりすぎ」なのか「足りない」のか。そうして大人になるにつれて、その恥をまるで二枚目の皮膚のようにまとい続ける。それは私たちを押しつぶし、エロティシズムも、柔らかさも、炎も奪い去る――やがて、自分自身に属するとはどういう感覚だったかすら忘れてしまうのだ。

 

 

恥を解き放つことで始まる回復

 

S Factorでは、深いトラウマを抱える女性と向き合うことが多いため、インストラクターたちは精神科医に相談しながら指導を行っている。精神科医はこう説明する。「トラウマ回復の鍵は“恥を解き放つこと”。セクシュアリティを取り戻すには、自分のペースで、自分の意思で行わなければならない。なぜなら、その力を奪われ、恥にすり替えられてしまったから。恥はあなたを閉じ込めてしまうけれど、本当は光の中にさらされて解き放たれることを望んでいるのです。」

 

身体が直接的に侵害された経験があるかどうかに関わらず、ほとんどすべての女性が「存在するだけで恥を負わされる」感覚を知っている。それはあまりに頻繁に繰り返されるため、もはや自分の一部のようになってしまう――毎日着続ける重いコートのように。それを脱ぎ捨てることは、ぎこちなく、痛みすら伴う。なぜならその恥は同時に、絶え間ないジャッジから自分を守る鎧でもあったから。

 

“アンバーはS Factorの感情を解き放つ生々しいプロセスに耐えられず早々に去り、彼女にとっての力は脆さではなく勝利や規律にあり、その背景には身体を侵害された経験の有無という差も影響していた。”

 

初日の授業で、シーラは生徒たちにこう警告する。「多くの人は途中でやめたくなるでしょう。このプロセスは恐ろしく、そしてとてもプライベートなものだからです。」その言葉通り、一人の生徒アンバーは、わずか1週間で去ることを決めた。最初のクラスのあと、感情の激しさに圧倒されて車の中で大泣きしてしまったと彼女は認めているのに、Netflixのインタビューで彼女は「12歳の息子に、裸同然の姿で床で身をくねらせている自分を見せたくない」と語った。を得るどころか、むしろさらけ出され、性そのものに嫌悪感すら感じたように聞こえた

 

最初はその反応が理解できなかった――だって彼女はこのクラスがどういうものか知っていたはずだから。でも、彼女を揺さぶったのはポールダンスそのものではなかったのかもしれない。感情を解き放ち、抑え込んできたものを感じろと求められる、その「生々しさ」だったのではないか。

 

そして、ある意味で私は共感もした。私も感情をあからさまに表現することが苦手で、あのようなむき出しの脆さに囲まれる居心地の悪さを知っている。それでも彼女たちの中にある恐れや怒り、悲しみは、私自身も抱えてきたからこそ、理解できる――自分の身体が自分のものではないと感じる感覚。

 

けれどアンバーは、少し違っていた。彼女は常にアスリートであり、強くタフであるように鍛えられてきた人間だった。彼女にとってのエンパワーメントは、涙や降伏からではなく、勝利、規則、パフォーマンスから得られるものだった。もしかすると、彼女がこのクラスと繋がれなかったのは、繋がる必要がなかったからかもしれない。あるいは、それは「自分の身体を侵害された経験がない」という特権からきているのかもしれない。

 

 

 

ポールダンスが与える力と再定義

 

このドキュメンタリーには、複雑な過去を持つポール競技者でありスタジオオーナーのエイミーも登場する。彼女はもともと俳優を目指してロサンゼルスに来たが、生活費を稼ぐために短期間ポルノに出演したことがある。性産業は苛烈だ――人々はその向こう側をほとんど見ようとせず、消費しながらも同時に糾弾する。エイミーはそのスティグマを背負ったが、その時期に出会ったのがポールダンスだった。それは彼女の内側に火をつけ、強さと高揚感をもたらし、最終的に競技的ポールに特化したスタジオを開くきっかけとなった。

 

また、シルク・ドゥ・ソレイユで活躍したポールアーティストのジェナインにも出会う。彼女は世界を巡り、鍛えられた肉体性、芸術性、そして官能性を融合させた圧巻のパフォーマンスを披露している。彼女の舞台は、ポールダンスが単なる見せ物ではなく「芸術」であることを思い出させてくれる。それはダンスであり、体操であり、動きを通じた物語だ。セクシーであることは確かにその一部だが、それはむしろ力の源だ。そもそも、セクシーであることが罪であるはずがない。魅力的でありたい、自分の官能性とつながりたいと思うのは、人間であること――女性であることの一部なのだから。私たちの身体は強力な表現の道具であり、誰とそれを分かち合うかは私たち自身が選べる。

 

もちろん、誰もがエイミーやジェナインのようにステージに立ちたいと思うわけではない。しかし、ポールダンスが与えてくれるのは「再びつながる」ためのチャンスだ――女性らしさを感じてもいい、自分のその一部を堂々と受け入れていいのだと思い出させてくれる。映画に登場する多くの女性たちにとって、この実践は命綱のようなものとなった。彼女たちの多くは男性から傷つけられ、虐げられ、小さく扱われ、その痕跡が「価値は男性の視線に収まるかどうかで決まる」と囁き続けてきた。ポールダンスは彼女たちにそれを取り戻させたのだ――「自分の条件」で見られる許可を、自分が女性であることの意味を再定義する力を。

 

 

誰もが持つ比類なき美しさ

 

映画の後半で、エブリンは胸を締め付けるような事実を打ち明ける。夫は一度も「君は美しい」と言ってくれなかったのだ。彼女はずっとその言葉を望んでいたが、夫は言わないまま亡くなってしまった。死後、彼が不倫をしていたこと、そして愛人にはためらいなく「美しい」と伝えていたことを知る。その瞬間、彼女の心は打ち砕かれた。

 

その痛みを抱えていたのは彼女だけではなかった。ドキュメンタリーに登場する何人もの女性が「妊娠や出産を経てから、自分をセクシーだと感じられなくなった」と告白する。その言葉には重みがある。なぜならそれは、多くの私たちが静かに抱えている現実だから。私たちはしばしば自分に対して最も厳しい批評家となり、他人と比べ、他者からの承認を必死に求めてしまう――男性からも、女性からも、社会からも。

 

“エブリンや多くの女性が自己価値を他者の承認に縛られて苦しむ一方で、本当の美しさは誰とも比べられない唯一無二のものであり、経験や生き方そのものがその輝きを深めていくのだと語られている。”

 

けれど真実はこうだ。あなた以上に美しい人はいない。私たち一人ひとりが、比べることのできない唯一無二の美しさを持っている。その美はパートナーによっても、母であるかどうかによっても、他者との関係によっても決まらない。むしろ、そうした経験があなたの存在にさらなる深みと豊かさを与えているのだ。

 

 

 

 

女性の光を奪わせない

 

この映画はまた、保守主義――宗教を含む――と性的自由との衝突についても描いている。宗教的な家庭で育ったエイミーは、ポルノ出演の過去を知られ、教会から追放された。彼女が指摘するように、処罰されたのは彼女だけで、裏でポルノを消費している人々は罰せられなかったのだ。

 

さらに、アリソンというポールインストラクターも登場する。彼女はかつて保守的な男性と結婚していたが、夫は彼女の身体を支配しようとし、SNSに写真を投稿することさえ禁じた。やがてアリソンはそれに逆らい、Instagramアカウントを開設した結果、二人の結婚は終止符を打った。これらの物語はより深い真実を示している――セクシュアリティはスペクトラム上に存在するのだ。すべての人がオープンな表現を価値あるものと考えるわけではないし、それはそれで構わない。しかし、誰も他人の身体の使い方を決める権利は持っていない

 

映画の中でシーラはこう語る。「女性が満ちて、豊かになり、爆発的に輝きだすと、それを受け止められない男性もいる。どうやってその事実を受け入れればいいのか、どうやって共に存在すればいいのか、分からなくなるのです。」これは事実だ――女性が変われば、周囲の世界も変わる。

 

“映画は宗教や保守的価値観と性的自由の衝突を描きつつ、女性が自分の身体とセクシュアリティを自由に表現し合い、互いを支え合うことこそが力と連帯を生むのだという強いメッセージを伝えている。”

 

もしパートナーがその炎を消そうとするなら、その人の中にあなたの居場所はない。私たちの光は、私たちを見て、敬い、美しいと伝えてくれる人々に囲まれてこそ強くなる。ポールダンスはこの意味で、単なる動き以上のものだ――それはコミュニティである。女性たちは競うためではなく、互いを引き上げ、壊れたピースを再び繋ぎ合わせるために集まる。確かにその結束は強烈で、時に「カルト的」とさえ感じられるかもしれないが、その強さは連帯から生まれるのだ。女性が女性を支えるというラディカルな行為から。

 

そして私がこのドキュメンタリーから受け取ったメッセージはこれだ――誰も私たちから女性性を奪い、セクシュアリティを黙らせることは許されない。すべての女性は、自分が生きるこの身体を愛し、自分のタイミングで、自分の方法で表現する権利を持っている。だからこそ、あなたの周りにいる女性を愛してほしい。彼女たちに「あなたは美しい」「私たちはあなたはいつも見守っているし、声に耳を傾けている」と伝えてほしい。女性は人生のあらゆる方向から重荷を背負っているのだから――せめて、安全で温かな場所を作ること、それができる最低限のことだ。

 

SNSで時間を溶かしまくって気づいた「本当に心が満たされるご自愛」のコツ

 

 

仕事から帰宅した夜。

 

「疲れたからちょっと休憩」と、なんとなくスマホを手に取ってSNSを開く。

 

気がつくと3時間、4時間があっという間に過ぎている。そんな経験、ありませんか?

 

私はよく、このパターンをやってしまいます。

 

寝る前の時間や、予定のない休日の昼間にも、平気で数時間溶かしてしまう。

 

しかも、たいていその後に待っているのは、強烈な自己嫌悪です。やらなければいけない家事も、翌日の仕事への準備も、全く手につかなくなってしまいます。

 

ところが、同じように「ゆっくり過ごす」時間でも、全く違う結果をもたらすこともあります。

 

“同じ「ゆっくり過ごす」でも、SNSで時間を溶かすのは自己嫌悪を招く一方、気ままな散歩や寄り道は心を満たし翌日への活力につながることに気づいた体験でした。”

 

ある時、やるべきことがいろいろ山積みだったにもかかわらず、なんだかどうしようもなく外に出たい気持ちが湧いてきた日がありました。

 

もういいや!と、すべてを翌日に後回しにして、身支度もそこそこに適当な服を着て、あてもなく散歩に出かけてみたんです。

 

買う予定もないけど家具屋さんを目指して、その道中もまっすぐ行くわけではなく好きなように寄り道しながら歩き、帰りはたまたま見つけたコーヒーショップに入ったりして、とにかく好きにのんびり過ごす。

 

しかもそのコーヒーショップで初めて見るケーキに出会って、それがまぁとても美味しくて。それ以降もちょこちょこ買いに行くほど、すっかりお気に入りになりました。

 

でも何より大きかったのは、その日の帰宅後の気持ちの変化です。

 

なんて良い一日だったんだろうと心はとても満たされ、後回しにしたことも明日しっかり頑張ろうと前向きな気持ちが自然に湧いてきたんです。

 

でも別に、SNSをスクロールする時間だって、同じように「ゆっくり過ごした」はずなのに、むしろそっちのほうが体力も使わないし、なぜこんなにも「その後の気持ち」が違ったのでしょうか。

 

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「ただの甘やかし」と「本当のご自愛」の境界線

 

 

 

本当の意味で自分を労われたとき、気分はすぐに前向きになって、なんだか温かい気持ちがしてエネルギーも湧いてくる。

 

一方、自分を「ただ甘やかしてしまった」ときは、何時間経っても心のモヤモヤは晴れず、むしろ自己嫌悪で状況が悪化することもある。

 

振り返ってみると、先ほどの例に限らず、どちらのパターンも何度も経験したことがある話です。

 

でも自分としては、いずれの場合も「何も考えず好きに過ごすことで自分を労わっている」つもりなのに、かたや前向きな気持ちをもたらし、かたや自己嫌悪を誘発する。

 

なんとも不思議な話です。

 

で、私なりに考えてみて少し気づいたことがあります。

 

それは、よくあるSNSはエネルギーを削ぐといったような話ではなく、それ以前に、自分の状態を正確に見極められているかどうかによるのではないかと。

 

例えば、漠然と気分が落ちていると感じただけで、「なんかもうキャパオーバーなんだろうな」と判断してしまうことがあります。

 

でも実は、たまたまやるべきことや予定が一気に押し寄せて圧倒されているだけで、本当はまだ余力があるのかもしれない。

 

そうした考察もしないまま、すぐに「もう無理だ…」と結論づけてしまうから、本当に気分も体もどんどん重くなって、ご自愛タイムが必要なんだと思い込んでしまう。

 

ちゃんと自分の状態や本当の欲求を見極めないまま、なんとなく「疲れたから休もう」と判断してしまうと、SNSのような手軽な逃げ道に頼ってしまいがちです。

 

SNSなら、受動的でいても、特に何も考えなくても、時間を消費できるから。

 

で、こうなるパターンは「甘え」であり、「逃げ」なのではないかと思います。

 

例としてSNSを挙げましたが、無思考でとりあえず「ご自愛っぽい」ことをするなら、他のことでも同じ結果だと思います。

 

なんとなく溜まっていたドラマを見ても、積読のままになっていた本を読むことで自分時間を取った気になっても、それが本当にその時自分に必要なご自愛でなければ、さほど満足感は得られないと思います。

 

“本当のご自愛は自分の状態や欲求を正しく見極めたときに前向きなエネルギーを生む一方、思考停止で選んだ「ご自愛っぽい」行動は甘えや逃げとなり、自己嫌悪を招いてしまうのだと気づいた話です。”

 

一方、一呼吸置いて自分の状況を冷静に見つめられたら。

 

「最近、あの仕事結構重かったもんな」
「プライベートもバタバタしてて、ずっと張り詰めてたんだよな」
「私のキャパからしたら結構限界まできてるよな」

 

そう自分の中で納得できたら、次は自然と「じゃあ今どんな癒しが自分に必要なんだろうか」という思考が浮かんできます。

 

そうやって、自分の状態を正確に把握するからこそ、適切な対処法が分かって、結果として本当のセルフ・コンパッションになるのではないかと、最近思うのです。

 

実際、冒頭の散歩に出かけた日は、いろいろ頑張りすぎていたことを自覚していたし、だからこそ、ここでもうひと踏ん張りするより「外に出たい」という自分の欲求に、素直に従うほうが大事だと気づけたんだと思います。

 

私なりのご自愛タイムには他にも、映画やドラマを見たり、本やゲームに没頭したり、旅行を計画したり、いろんな選択肢がありますが、それぞれやっぱり適切なタイミングがある気がします。

 

「外に出たい」と思った日に、「もう遅い時間だから」などと理由をつけて、ドラマの一気見でお茶を濁そうとしても、そんなに満たされない。

 

本当の意味で自分に優しくするということは、今の自分がどういう状態で、何を欲しているのか、ちゃんと理解することなんだと思います。

 

つまり、良いご自愛と、そうでないご自愛、両者の違いの根本にあるのは「過程」。

 

どちらも同じ「好きに過ごす時間」だけど、そこに至るまでの経緯、ちゃんと考えてそこに至ったかが、ご自愛の「結果」を大きく左右するのではないかと、最近ヒシヒシと感じるのです。

 

 

自分の状態を正しく見極める難しさ

 

 

 

とはいえ、自分の状態を正しく見極めるということ、自分の疲れや頑張りに気づいてあげるのは、思っている以上に難しくもあります。

 

他人には優しくできても、自分にはなかなか優しくできない理由も、一つはここにある気がします。

 

だって、実は他人に優しくすることって、意外と簡単じゃないですか?

 

傍から見ていると、みんなすごく頑張っているように見えるから、「ギアを落としてもいいんじゃない?」と自然に思えます。

 

でも自分に対しては厳しくて「あの人に比べたらまだまだ」とか、「こないだ自分を甘やかしてしまったから、もっともっと頑張らないと」となる。

 

これって、完璧主義とか自分に厳しいという言葉で片づけられるものではなく、自分を適切に評価できていないからだと思うんです。

 

他人の状況は客観的に見ることができるのに、自分の状況となると主観が入りすぎて、「まだ頑張れるはず」という思い込みに囚われて、本当に必要な休息を取れなくなってしまう。

 

歩みを緩めることを許してあげられない。というか、怖い。

 

でも心の底では、もう休みたいという本音もある。

 

…はぁ、正しいセルフ・コンパッションって、ほんとーーーに難しい!!

 

ただ、逆にいえば、この評価さえきちんとできれば、意外とセルフ・コンパッションは簡単に実践できるものなのかもしれません。

 

だからこそ、最近は「自分のやったこと」を正しく把握することに重きを置いています

 

私が実践していて効果を感じているのは、定期的に自分の状況を書き出して、客観的に見つめることです。

 

“気持ちが淀んだときは書き出して自分の状態を正しく見極め、その状況に合った対応を取ることで安心感が生まれ、自然と前向きな気持ちに切り替わるのだと気づいた話です。”

 

漠然と気持ちが淀んでいるように感じたときこそ、一旦立ち止まって自分の状況や気持ちを一つひとつ紐解いてみる。

 

最近どのくらい忙しかったか、何で忙しかったのか、それは客観的に見ても膨大な仕事量だったのか、もしくは気疲れしていただけなのか、単に予定が重なってキャパオーバーだったのか。

 

頭の中で考えてもいいのですが、文字にした方が冷静になれるので、とにかく書き殴るのがおすすめです。

 

ぶわーっと現状を書き出していくと「いや、たしかに最近めっちゃ頑張ってたわ」とか「あれは結構ハードワークだったのでは?」と思えたり、

 

逆に「いや、そうでもないな。何をすべきか分かってなくて不安なだけだ」とか「整理したらもう少し頑張れるかも」と、冷静に見えてくることもあります。

 

前者の場合なら、今の自分に必要な癒しは何か自問自答し、それを実現する。

 

後者なら、どうやったらもうちょっと頑張れそうかを考え、それを実行する。

 

ただそれだけに、全集中する。

 

いずれの状況にせよ、それぞれ正しい対処法が取れたら、不思議と(後者の場合でも!)すぐに気持ちは復活するんですよね。

 

自分の状態を正しく把握して、それに応じた適切な対応を取れたという安心感が、前向きな気持ちを生み出してくれるのかもしれません。

 

 

セルフ・コンパッションは技術

 

 

自分に優しくするというのは、思っているほど簡単ではありません。

 

ただ自分を甘やかせばいいというわけでも、厳しくすればいいというわけでもない。自分の状態を正しく見極めて、そのときの自分に本当に必要なものは何かを判断する「一つの技術」なのだと思います。

 

頑張るときは頑張る、休むときは思いっきり自分を甘やかす。

 

そんなメリハリのある理想的な生活を実現する第一歩は、今の自分がどんな状態にあるのかを、できるだけ客観的に、そして優しい目で見つめることから始まるのかもしれません。

【本レビュー】私たちが背負う重さ:『Wild』を読んでの個人的な感想

 

 

ときどき、心に引っかき傷を残していくような本に出会うことがあります。私にとって、シェリル・ストレイドの『Wild』がまさにそれでした。

 

一見、私には関係ないように思えるかもしれません。私は結婚したこともないし、母は健在で、ドラッグやアルコールに苦しんだ経験もありません。でも、シェリルの混乱に満ちた、無防備で、生々しい人生の意味を探す旅が、思いがけず私の深い部分に触れてしまったのです。正直に言うと、その感情に出会いたくなかった。

 

物語は、シェリルが母の死と向き合うところから始まります。彼女はまだ22歳、ようやく大人になろうとしていた頃、最も大切な存在が、がんによって突然奪われようとしていたのです。

 

「私は22歳だった。彼女が私を妊娠したのも同じ年齢だった。私が彼女の人生に現れたその時に、彼女は私の人生から去ろうとしていた」

 

母娘の関係は、たとえ健全であっても常に複雑です。説明のつかない、繊細でややこしい感情が、あなただけの記憶に結びついて織り込まれているようなもの。私は母を愛しています。でも、近しいと感じたことはあまりありません。母親と“親友”のような関係を築いている友人たちが、少しうらやましかった。

 

でも、その距離が私にくれたものもあります。それは、強さや自立心。そして、孤独の中でしか育まれない、静かな平穏。

 

シェリルと母親との関係もまた、複雑でありながら、深い愛に支えられていました。暴力的な夫と別れた母は、3人の子どもを一人で育てあげます。その後パートナーも見つけ、厳しい暮らしの中でも「あなたは愛されている」と伝え続けました。その静かで確かな愛が、シェリルの世界の土台だったのです。

 

母の病がわかると、事態はあまりにも早く進行しました。その衰え方は、残酷で容赦がなかったのです。生き生きとして笑っていた母が、少しずつその光を失っていく姿を見ることは、運命に何度も背後から刺されているような苦しみだったのです。

 

そして母が最期の息を引き取ったとき、シェリルはそばにいませんでした。彼女は弟と妹に、病院に来るよう説得していたのです。きっと最後になるかもしれないから、と。でも、彼らは恐怖と拒絶感に縛られて、来ることができなかったのです。ようやく全員が病院に来たときには、すでに母は亡くなっていました。

 

 

 

その出来事が、彼女を完全に打ちのめしました。深い悲しみが彼女を飲み込み、浮気をし、ドラッグやアルコールに逃げ、自己破壊のスパイラルに陥っていきます。深い喪失をどう処理していいかわからないときに、多くの人がたどる道でもあります。尊厳も、アイデンティティも失い、彼女は「やり直す」ことを選びました。その手段が、米国西海岸を縦断する過酷なハイキングコース「パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)」だったのです。

 

最初は、「ちょっと大げさじゃない?」と思いました。失恋や人生のどん底を癒す手段が、荒野を一人で3か月も歩くこと?いかにも主人公気取りだな、とすら感じました。

 

もちろん、心が傷ついたときに旅に出る人はたくさんいます。新しい趣味を始める人も。でも、トレーニングもろくにせず、国内でもっとも過酷なハイキングに挑むなんて、無謀にしか見えませんでした。

 

案の定、準備不足は明らかでした。重すぎて持ち上げられないバックパックに「モンスター」と名付け、靴のサイズも小さすぎて、すぐに足が血だらけに。読んでいて「なんでそんなこともわからないの?」と呆れてしまったほどです。

 

でも、もしかするとその無鉄砲さこそが、彼女の内面を表していたのかもしれません。彼女はとにかく、自分を縛るすべてから逃げ出したかった。冷静な判断なんてできる状態ではなかった。ただ、何かを変えたかった。

 

それでも彼女は、歩き続けました。絶望、涙、後悔、あらゆる感情に飲まれながらも、足を止めなかったのです。なぜならこれは、自分に誓った旅だったから。

 

ここで、私の中の何かが変わりました。

 

シェリルは、自分を美化しようとしません。むしろ正反対。怒りっぽくて、無計画で、性に奔放で、心がごちゃごちゃ。でも、それって誰しもが一度は経験する姿ではないでしょうか。もしかすると、あなたも今その途中かもしれない。

 

道中、彼女はさまざまな人に出会います。温かい言葉、ちょっとした食べ物、乗せてもらった車。ほんの小さな助けが、彼女の壊れかけていた「人への信頼」を少しずつ修復していきます。どん底のときに手を差し伸べてくれる存在は、どんなに短い出会いでも、永遠に心に残ります。

 

彼女がサイズの合わない登山靴を崖から投げ捨てる場面があります。それは象徴的な瞬間でした。もう必要のない自分を手放して、本当の自分に少しずつ近づいていく。それは物理的な軽さだけではなく、心の重荷を下ろしていく過程でもありました。

 

『Wild』の魅力は、彼女が特別な人ではなかったこと。ハイキングのプロでもなければ、人生をうまく生きていたわけでもない。ただ、自分の人生を立て直したいと願った、ひとりの壊れた女性だったのです。

 

 

私自身、ずっと自分で自分を守らなければならない人生を送ってきました。だからこそ、彼女の物語には静かに共鳴しました。私たちは時に、自分を守るあまり、大切な人を傷つけてしまいます。そして、自分自身が傷ついて初めて、愛はちゃんとそばにあったんだと気づくことがあります。

 

「カリフォルニアが、絹のヴェールのように私の後ろに流れていった。もう自分がバカだとは思わなかったし、“最強のアマゾネス”でもなかった。ただ、私は強くて、謙虚で、自分の内側にちゃんと集まっていた。私も、この世界でちゃんと安全なんだと思えた。」

 

限界まで自分を追い込むと、謙虚さを思い出します。汗をかき、血を流し、痛みを感じる。それは不快だけど、確かに“生きている”という感覚です。

 

人から「すごいね」「タフだね」と言われることがありますが、私自身はそんなふうに思ったことはありません。ただ、何度も転びながら立ち上がった、それだけです。

 

人は痛みに耐えたくないから、自分を変える旅に出ることを恐れます。でもその不快さこそが、感謝や優しさ、謙虚さを教えてくれるのです。

 

人生は一直線ではありません。失敗し、立ち止まり、道を修正しながら、ようやく「信じられる自分」に近づいていく。シェリルはそれをやったのです。理由がわからなくても、自分を信じて歩き出し、歩き続けました。

 

彼女は3か月におよぶ長い旅の果てに、オレゴン州の「ブリッジ・オブ・ザ・ゴッズ」にたどり着きました。白いベンチに腰を下ろし、水面を見つめながら、そっとこうつぶやきました。

 

「それを、ただ“そうあるもの”として受け入れるって、なんて野生的(Wild)なんだろう。」

些細なことにイライラ…HSP気質な私のストレス攻略法

 

「何でもかんでもストレス」になる性格

 

私はいわゆるHSPだと思います。
基本的に、何でもかんでもストレスに感じやすい性格

 

 

誰かのちょっとした素振りや声色、何気ない一言が、のどに刺さった魚の小骨みたいに、地味にずーっと心に残り続けるんですよね。

 

 

相手はもう忘れているような些細なことでも、私の中では延々とリピート再生されて、気がつくとその場面をぐるぐると思い返している。

 

 

それが知り合いに対してだけでなく、街ですれ違う人、電車で乗り合わせた人、カフェで隣になった人。

 

 

そんな、もう二度と会わないかもしれない人のことまで、いちいち気になってしまうんですよね。

 

 

そんなだから、自分の言動にも厳しくなります。

 

 

相手が不快にならないよう、場の空気を悪くしないよう、いろいろ細かいところに気を遣うわけで、そりゃもう毎日気疲れですよね。

 

 

ましてや、相手がそれに気づかない、無下にする、当たり前のような態度を取るなど、思いやりに欠ける言動をされると、そのストレスは一気に膨らみます。

 

 

道を譲ったこちらに、目もくれずに電話に夢中になる人や、電車の座席で、荷物も体もギュッと縮めて座るこちらに、スマホを操作する肘をガンガンぶつけてくる人とか。

 

 

そんな場面に出くわすと「こっちの気も知らないで…!」と勝手にイライラしてしまうんですよね。

 

 

自分でも嫌になっちゃう。

 

 

そして、そんな私の様子を見て、周りが言うのは「気にしすぎ」の一言。

 

 

そう言われるたび「そんなこたぁ、分かってるんですよ」と、いつも心の中で言い返します。

 

 

 

諦めの境地、性格は変えるものではない

 

 

だから、おおらかに、鈍感に生きていけたらどんなにラクだろうと何度思ったことか。

 

 

イライラを感じるたびに「気にしない気にしない」とか、「私だって同じような言動をすることがあるじゃない」と言い聞かせ、マインドや思考回路をどうにか変えられないかと試行錯誤した時期もあります

 

 

でも、30年以上この性格と付き合ってきて、はっきりわかったことがあります。
今さらこの性格を変えることは、きっとできない。

 

 

というか、そうやって無理に自分を変えようとすることが、また新たなストレスになるんですよね。「なんでいつまでも変われないんだろう」と自分を責めるループに入ってしまって、結局二重に苦しくなる。

 

 

だから最近は、その代わりにこういうイライラや感情を、上手く処理してコントロールすることに重きを置くようになりました。

 

 

完全にストレスを断ち切ることはどうやっても無理、でも感じたストレスとどう向き合うか、どうやって消化するかは工夫できるはず。そう考えを切り替えたら、少し心が軽くなりました。

 

 

性格は変えるものではなく、上手く付き合うもの。

 

 

やっとそう思えるようになってきました。

 

 

そもそも、この性格で「生きづらさ」を感じる場面は恐ろしくたくさんあるけど、もちろん長所になる場面もあるわけです。

 

 

細かなところまで気がつくから防げるミスがあるし、仕事が丁寧とか思慮深いと言われることもある。そうやって見てくれてる人だってちゃんといる。

 

 

そう思うとなおさら、性格を変えることに固執しても意味がないようにも思えてくるんですよね。

 

 

自分の感じ方や受け止め方を否定せず、「自分は自分」と思ってあげること。

 

 

そのうえで、生きづらいと感じる瞬間をいかに減らせるか、逆に、自分の性質に胸を張れる瞬間をどれだけ増やせるかを考えることが、結局は一番ラクな生き方に繋がると思うのです。

 

 

 

 

ストレスと付き合うには、一旦切り離す

 

 

そうしていい意味で諦めの境地に至った今、ストレスやモヤモヤと向き合うために、私が大事にしている習慣があります。

 

 

それが「書き出すこと」です。

 

 

イライラやモヤモヤって、それに振り回されているうちは何も生み出さないし、害でしかありません。でも、グッと立ち止まって一度冷静に見つめてみると、実はいろんな気づきが詰まっていることも多々あります。

 

 

ただ、頭の中だけで考えていると、どうしてもネガティブな方向に飲まれたり、同じところを堂々巡りしてしまいがち。

 

 

そんなとき、書くことの一番の効用は、自分の内側を一歩引いた目で見つめ直せることです。

 

 

「なんでそう感じたんだろう」「いつもこのパターンかも」「私にはこういう傾向があるのかも」「これが嫌だと思っていたけど、根っこは違うところにあるのかも」

 

 

そうやって自分の感情を分析しながら、文章として吐き出すだけで、ちょっと心が落ち着くんですよね。

 

 

もちろん、書き出したからといって、現状が何かすぐに解決するわけではありません。むしろ、何も解決しないことのほうが多いです。

 

 

でも、文字にして外に出すだけで、自分の中でグルグル渦巻いていた感情が、ほんのちょっとだけ他人事のように、距離を取って見られるようになる。そんな不思議な効果があるのです。

 

 

さらに、そうやって言語化した内容を、こういうエッセイや趣味で書いているnoteなどで人に見せると、思いがけず共感してもらえることもあります。

 

 

「私もそう思ってました」「まさにそれです」なんてコメントをもらうと、自分だけじゃなかったとか、誰かの気持ちを代弁できたと思えて、いつの間にかストレスも一緒に消化されていく感覚があります。

 

 

でも、いつも人様に見せられるような、よそ行きの文章に昇華できるわけではありません。

 

 

どうにも整理がつかないときや、どす黒い気持ちや汚い言葉しか浮かんでこないときもあります。

 

 

そんなときは、誰にも見せない「吐き出し用ノート」に殴り書きすることもあります。このノートは私にとって、とにかく自分の本音をストレートにぶつけられる安全地帯、シェルターのような場所です。

 

 

どす黒い感情も、乱暴な言葉も、すべてOK。ただひたすら自分の本音に耳を傾けて、吐き出すだけの時間――それが私にとっての“ご自愛”になるんですよね。

 

 

普段、細かなところまで気を遣いまくる分、何も気を遣わず「”雑”で居られる場所」をつくっておくことは、思っている以上に心を守ってくれています。

 

 

(実際、割合でいえば外に出せるエッセイが2、誰にも見せられない吐き出しノートに書くのが8くらいなので、このノートは私にとってかなり重要なストレス発散法です。)

 

 

 

 

ストレスと付き合うには、自分の「王道」を心得ておく

 

 

考えてみれば、書き出すことは昔から無意識にやっていました。学生時代の日記から始まって、何となく思ったことをメモしたり、感情をぶつけるように文字にしたり。

 

 

でも、それが自分に一番合う方法だと気づけたのは、実は最近のことなんです。

 

 

ストレス解消法といえば、SNSを見ていると本当にいろいろなアイデアが流れてきます。「運動が一番」「アロマを焚くといい」「とにかく寝るのが最強」など、どれも効果がありそうだし、たまに参考にして試してみることもあります。

 

 

けれど、誰かの“正解”がそのまま自分にも合うかというと、必ずしもそうとは限らない

 

 

逆にいえば、私が最終的に行きついたのは「書くこと」だけど、それも皆さん全員に効くとは限りません。

 

 

いろいろと新しい方法を試すのは大切ですが、同じくらい、自分に合った「王道」のストレス対処法をきちんと知っておくことも大切です。

 

それが運動でも、瞑想でも、書くことでも、食べることでも、自分に合っていれば何だっていい。

 

 

だから、今日も自分なりのやり方で、心に積もった小さな石たちを一つずつ片づけていこうと思います。

瞑想をするのにベストな時間は?自分に合ったタイミングで、心と体を整えるヒント

 

あなたは瞑想をしていますか?

 

著者は、朝起きたらするようにしています。……いや、正直に言うと、「するようにがんばっている」のが本音。というのも、瞑想する前についパソコンを開いてしまったり、メールをチェックしてしまったり。気がつけば、もう他のことをしている……なんてこともしょっちゅうです。

 

そんな時、ふとよぎるのがこの疑問。

 

「瞑想って、いつするのがベストなんだろう?」

 

忙しい毎日の中で、つい後回しになってしまいがちな瞑想の時間。でも、どのタイミングで取り入れるかが大切だということもよく聞きます。

 

今回は、アメリカの記事から「瞑想はいつするのがベストか?」という問いに対するヒントをお届けします。
これを読むと、自分の生活リズムに合った瞑想スタイルがきっと見つかるはずです。

 

 

そもそも、なぜ瞑想をするの?

 

 

「心を静める」瞑想には、自分を客観的に見つめたり、ストレスの反応を減らしたりと、さまざまなメリットがあります。

 

瞑想アプリ「Unplug Meditation」の創設者スーズ・ヤロフ・シュワルツ氏はこう言います。
「反応するのではなく応答できるようになり、人をジャッジせずに耳を傾け、ストレスよりも優しさをもって行動できるようになります」

 

でも、そんな良いことづくめの瞑想も、「毎日続ける」ことが意外と難しい。特に私たち現代人の生活は、常に慌ただしいものです。

 

だからこそ、自分に合った「ベストなタイミング」を見つけることで、瞑想を習慣にしやすくなります。

 

 

朝の瞑想で1日が変わる

 

 

科学的にも「朝の瞑想」は続けやすいことがわかっています。

 

2023年の研究では、朝に瞑想をする人の方が集中度が高く、習慣として定着しやすいという結果が出ています。

 

アーユルヴェーダの専門家エリン・キャスパーソンさんは、「朝は一日の中で最も静かな時間。たとえ数分でも、心と体の安定につながります」と話します。

 

シュワルツさんも「朝を逃すと、1日を逃してしまう可能性が高い」と言い、朝の瞑想をすすめています。

 

朝の瞑想がもたらすもの

 

朝の瞑想は、自分自身の「軸」を整える時間。
「目覚めてすぐにスマホをチェックしたり、メールを開いたりするのではなく、まず自分の内側に向き合う時間を持つことで、自分らしい1日が始められます」とシュワルツさん。

 

私たちはつい、「他人のリクエスト」に応えることで1日が始まりがち。でも朝の静かな数分間があるだけで、「今日はこう過ごそう」と自分のペースで1日をスタートできます。

 

 

 

 

夜の瞑想で、心をしずめて眠る準備を

 

 

一方、夜の瞑想は「手放し」の時間。
1日の終わりに、心にたまったストレスやモヤモヤをリセットするのにぴったりです。

 

シュワルツさんいわく、「夜の瞑想は、心を落ち着かせ、深く長く眠るために効果があります」。 ただし、キャスパーソンさんは「夜は眠気もあるため、集中力が途切れてしまうこともある」と注意もしています。

 

夜におすすめの瞑想スタイル

 

1日の出来事を振り返る

感謝することを思い出す

音声ガイド付きのリラクゼーション瞑想

 

心と体を「おやすみモード」に切り替えるやさしい瞑想が理想的です。

 

 

 

実は午後の瞑想もおすすめ

 

午後になると、エネルギーが切れてきたり、集中力が途切れてくる人も多いはず。
そんなとき、5〜15分ほどの短い瞑想が、リフレッシュにぴったり。

 

キャスパーソンさんは「午後の瞑想は、コーヒーの代わりになることも」と話します。

 

夕方以降の予定に向けて頭をスッキリさせるのにも効果的。ガイド付きの瞑想を取り入れると、集中しやすくなります。

 

ただし、午後はスケジュールが詰まりがちな時間帯でもあるため、毎日決まった時間をとるのは少し難易度が高めかもしれません。

 

 

ハミング編集部5人の瞑想スタイルをご紹介

 

ちなみに、私たちハミング編集部でも、瞑想はちょっとしたマイブーム。
5人それぞれのスタイルをご紹介します。

 

永野さん(編集長):

毎朝、朝起きたらまず窓開けて、太陽光の中で10分間次女とメディテーションします。レモンとジンジャー入れたお白湯を飲んで、朝ごはんの前に便を出します!小さなメモ帳を持ち歩いて、感謝を感じたことをどんなに小さくても良いので、その都度書き留めます。夜はまた次女と一緒に10分間メディテーションします。それ以外に日中に1時間一人でメディテーションもするようにしています。

 

 

純(オペレーション)

毎朝、起きてから10分間だけ瞑想の時間をとっています。背筋を伸ばして座り、目を閉じて、ただ呼吸に意識を向けるだけ。頭の中にいろんな考えが浮かんできても、それにとらわれずに、静かに「今ここ」に戻るようにしています。この小さな習慣が、1日の始まりを落ち着いた気持ちにしてくれるんです。

 

 

さおりさん(ライター)

朝起きたら、ベッドの上でチャイルドポーズをしながら深呼吸をします。
また、スキンケアで化粧水をつけるときには、肌に優しく触れながら目を閉じて呼吸に意識を向けます。
週に1〜2回はヨガのレッスンにも参加。最近はホ・オポノポノも取り入れています。

 

 

みきさん(ブランドダイレクター)

皆様と違いちゃんとした瞑想はしてませんが、
添付の音楽を聴きながら入眠する
https://youtu.be/vcqpMAznmX0?si=Eii8lRoEOaGlnwPL
筋トレ週4と有酸素運動しているので、筋トレ終わりにストレッチしながら軽く瞑想、有酸素運動した後に軽く瞑想

 

 

ともこ(ライター)

平日の朝起きてすぐ、誘導瞑想の音声を聞きながら20分ほどの瞑想。パソコンやメールを見る前の「朝いち」にやるように意識しています。
あなたにとっての「ちょうどいい瞑想時間」は、どのタイミングでしょうか?
ぜひ、自分なりのスタイルを見つけてみてくださいね。

 

 

参考記事:https://www.yogajournal.com/meditation/best-time-to-meditate/

 

【編集部対談】情報溢れる今だからこそ、大切にしたい「マインドフルネス」

 

スマホを見ながらなんとなく食事をすませたり、
次にやることを考えながら大切な人と会話していたり。

 

「今この瞬間に意識を向ける」、いわゆるマインドフルネスな状態を保つのは、簡単そうで意外と難しいものです。

 

今回はHummingが「マインドフルネス」について発信している理由や、編集部メンバーが実践しているメディテーション方法について話をしました。

 

「今ここ」に意識を向けること。それがマインドフルネス

 

純: Hummingでは「マインドフルネス」「性のはなし」「美と身体」「人間関係」「ライフスタイル」の5つのテーマで情報を発信しています。今回はその中の「マインドフルネス」について話をしていきたいと思います。

 

舞麻さんがマインドフルネスをテーマに選んだ理由を教えてください。

 

舞麻:私にとってマインドフルネスとは、「目の前のことに、100パーセント意識を向けること」。たとえば、今、純との会話に100%集中できているかとか、食事のひと口ひと口をちゃんと味わえているかとか。

 

情報が溢れるこの時代だからこそ、今に集中することはすごく大切。「マインドフルネス」は絶対に扱いたいテーマでした。

 

Hummingでは、メディテーション(瞑想)やジャーナリングなど、自分と向き合う方法を紹介しています。

 

純:私もマインドフルネスは本当に大切だと思います。

 

私は子どもの頃から、テレビを見ながらご飯を食べるのが当たり前の家庭で育ったので、食べることだけに集中すると、そわそわしちゃいます。

 

電車に乗りながらスマホを見たり、食事をしながらテレビを見たり、「〜しながら」が癖になってしまっているかも。カフェで友達と話している時も、「ちゃんと話を聞こう」と思っているのに、無意識に窓の外を見て人間観察をしてしまうこともあります(笑)。

 

今この瞬間に意識を向けることは、簡単なようで難しい。だからこそ、マインドフルネスを意識することが大切だと思っています。

 

 

無理なく続けるために。自分に合った方法を見つけて習慣に

 

舞麻:私は、メディテーションをするようになってから、「今」に集中しすぎてしまって、タイマーをかけないと予定をすっかり忘れてしまいます。子どもにも「ママ、迎えに来るの忘れないでね!」と心配されるくらい。だから大事な予定の前には、タイマーが必須!

 

人間は、習慣の生き物です。 たとえば、認知症の人でも、毎週通っていた場所には自然と行けるくらい、習慣は強い力を持っています。

 

だからこそ、マインドフルネスを日常に取り入れる習慣ができれば、今この瞬間を大切にする意識が少しずつ育っていくと思います。

 

純:習慣にできたらすごく楽だけど、習慣にするまでが大変で、諦めてしまうこともあります。だから、継続するためには、自分に合うやり方を見つけることが大切だなと。

 

私は、座ってじっとするタイプのメディテーションは、正直苦手。だから、週に1〜2回ほど、スマートフォンのアプリでガイドを聞きながら、ひたすら歩いています。いわゆる「ウォーキングメディテーション」です。ジムで運動を始めたときと同じで、最初は少しキツかったけれど、続けていくうちに気持ちが整っていく感じがしています。

 

「メディテーション」や「瞑想」と聞くと、少しハードルが高そうに思えるかもしれませんが、長時間座り続ける必要はないし、もっと気軽に取り組んでほしいです。

 

たとえば、ソファに座って目を閉じて心を落ち着かせる。それだけでも立派なメディテーションです。 1日5分でもいい。朝起きてすぐにスマートフォンに手を伸ばす代わりに、呼吸に意識を向けるだけでも変化を感じられると思います。

 

鼻から空気を吸って、口からゆっくり吐く。深い呼吸を意識するだけでも、脳がマッサージされてるような感覚を味わえますよ。

 

舞麻:私はけっこうストイックだから、1時間座ってメディテーションをするのが好き。この間ママ友に「前世はお坊さんか尼さんだったんじゃない?」って笑われたくらい。

 

でも、純が言っているように、自分に合う心地良い方法を見つけることが大切です。

 

:1時間も静かに座っていられる舞麻さんはすごいと思います。舞麻さんの家には、3人の娘さんや旦那さん、同居している方、犬もいますよね。そんな中で集中するのは大変なのでは?

 

舞麻:部屋の扉に「ママは◯時までメディテーションをしています」と張り紙をして、メディテーション中は話しかけられても答えません(笑)。子どもが小さいときは、私の上に乗ってきて集中力が途切れてしまうこともあったけれど、今はこしょこしょ話しているくらいなら気にならなくなりました。

 

 

:娘さんたちも、メディテーションに興味を持っていますか?

 

舞麻:子どもたちが心配事で頭がいっぱいになってる時には、「5分だけ一緒に座ってみようか」と声をかけて、ブレスワークをしたり、私がガイドをしながらメディテーションをしたりすることもあります。そうすると娘たちも落ち着くようです。

 

でも、強制はしません。お父さんが脳の研究をしている友人は、メディテーションすることを親から強制されるのが本当に嫌だったと話していました。そんな彼も今ではメディテーションの先生になっていますが、「自分が親になったら、子どもには強制せずに自分がメディテーションする姿勢だけを見せたい」と言っていたのがとても印象的でした。

 

だから、私もメディテーションすることを娘たちに強制はしない。だけど、心を落ち着ける選択肢の1つとしてメディテーションがあることは、娘たちにも伝わっていると良いなと思います。

 

「自分のための時間」を少しずつでも、日常に

 

:ここまでマインドフルネスについて話をしてきましたが、マインドフルネスのテーマを通じて伝えたいことは「自分のための時間を持ってほしい」ということ。

 

日常の様々な役割をいったん脇に置いて、 自分と向き合う時間を持つ。その方法は座ってメディテーションをするでもいいし、外に出て少し歩いてみるでもいい。どんな形でもいいから、自分だけの時間をつくって、それを少しずつ習慣にしてもらえたら嬉しいですよね。

 

舞麻:一人で買い物に行ったり、美味しいご飯を食べに行ったりするのも、もちろん素敵な過ごし方です。でも、「自分のための時間」と「自分と向き合う時間」は、少し意味合いが違うように感じています。

 

私たちがHummingを通じて伝えたいのは、静かに自分と向き合う時間を、日常の中に少しずつ取り入れていってほしいということです。

自分と向き合うことの大切さを実感してきた私たちだからこそ、その経験をシェアしながら伝えていけたらと思います。

 

Humming編集長 永野 舞麻 

1984年生まれ。16歳までを日本で過ごした後、海外へ移住。大学で出会ったアメリカ人の夫と結婚し、現在はカリフォルニア在住。3児の母。

高校時代、スイスに住んでいたときに自然の偉大さに触れ、地球環境保全について学び始める。アメリカの美術大学でテキスタイル科を専攻。

今でも古い着物の生地などを使って、子育ての合間に作品を制作し続けている。

 

Humming編集部Project Coordinator 條川純 

カリフォルニアで日本からの移民の両親のもとに生まれ育った私は、まったく異なる2つの文化に触れるという貴重な経験をしてきました。それによって、世界や人との関わりについて幅広い視点を持つことができたと思います。人々が安心して休めたり、心が癒されるような場所があることはとても大切だと思っていて、Hummingがそんな場所になれたらと願っています。

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\ポッドキャスト はじめました/

編集部対談の内容はポッドキャストでも配信しています。ぜひ、音声でもお楽しみください。

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コスタリカでのリトリート体験談。メディテーションを続ける理由とは

 

Humming編集長の永野舞麻が、コスタリカで開催されたメディテーションリトリートに参加しました。

 

彼女はなぜリトリートの場所にコスタリカを選んだのか。
メディテーションを続けることで、どんな変化を感じているのか。

 

編集部メンバーが話を聞きました。

 

 

雨に打たれ、ジャングルの中でメディテーション

 

ーー 舞麻さんは、昨年12月にリトリートでコスタリカに行かれていましたよね。どうしてコスタリカに行こうと思ったのですか?

 

夫のメディテーションの先生が「今度コスタリカでリトリートをやるよ」と教えてくれて、夫婦で参加することにしました。

 

これまでは私から「このリトリートに参加してみない?」と夫に提案しても、却下されることが多くて。でも今回は夫から誘ってくれたので嬉しくて!「これはもう行くしかない!」と思って、初めてコスタリカに行ってきました。

 

ーー 日本ではリトリートにあまり馴染みのない方もいると思います。コスタリカではどのようなことをされたのですか?

 

コスタリカの自然をたくさん味わってきました。ちょうど雨季の終わり頃に行ったのですが、毎日すごい雨で。土砂降りの中でメディテーションをしたり、日中はハイキングに出かけてウォーキングメディテーションをしたり、みんなでレインフォレストにも行きました。

 

これまで朝4時半から夜9時半まで一日中メディテーションを行うストイックなリトリートにも参加したことがありますが、今回の先生は「目を閉じて座ることだけがメディテーションではない」という考え方。料理をしているとき、子どもと接しているとき、仕事中、電車や車に乗っているとき、お風呂に入っているとき……、日常のすべての場面でメディテーションはできると教えてくれました。

 

ーー 以前参加された一日中メディテーションをするリトリートと、今回のコスタリカでのリトリート、どんな違いがありましたか?

 

以前のリトリートは、食事の時間以外はほぼメディテーション。電子機器やノート、本の持ち込みも禁止で、自分の内側にある雑念や思考をひたすら見つめる時間でした。

 

一方で、コスタリカでは自然の中でメディテーションをするので、いろんなノイズが入ってきます。目を瞑って呼吸を整えても、目を開いて活動し始めると、また雑念がやってくる。外から入ってくるものをどう受け止めるか、自分の中にどう取り入れるかを練習できました。

 

ーー ジャングルの中での瞑想。なかなか想像ができないのですが、どのように行うのでしょうか?

 

たとえばハイキングの最初に「ウォーキングメディテーションをしましょう」と先生が言ってくれて、そのときは足の裏に意識を集中させて、一歩一歩を感じながら歩きます。

 

最初はみんな黙って集中して歩いているけど、しばらくすると誰かが話し始めて(笑)。後半は普通におしゃべりしながら歩いていました。

 

ーー コスタリカでのリトリートを経験して何か変化はありましたか?

 

一番大きな変化は、「予想外のことが起こったときに、過剰な反応をせず、落ち着いて対応できるようになった」ことです。

 

たとえば、空港から宿まで本来は3時間半で着くはずだったのが、運転手さんのスピードがゆっくりで5時間もかかってしまったんです。宿に到着してから1時間ほどメディテーションをする予定でしたが、それができずに代わりにバスの中でメディテーションをしました。

 

でも、「こんなところでメディテーションなんて」「予定と違うじゃん」と思うのではなく、現実を受け入れて、次にどう動くかを考えられるようになりました。

 

あとは、メディテーションの仲間ができました。私の理想は毎朝4時半に起きて、子どもたちが起きる前に1時間メディテーションをすることですが、予定通りにできないことも多くて。でも、コスタリカで出会った仲間と「今日は◯分メディテーションできたよ」とお互いにチャットで報告し合うようになり、思い通りに時間が取れない日でも、できる範囲でいいからやろうと思えるようになりました。

 

「無」になることは宇宙と繋がること。全ての人やモノに優しくなれる

 

ーー 自分と向き合う時間を意識的にとる。簡単そうで意外と難しいですよね。

 

 

違うメディテーションの先生から「みんな毎日いろんな人とミーティングや商談をするのに、どうして自分と対話する時間は取らないの。自分のことをきちんと知らない状態で、どうやって他の人に自分の意見を言うの。朝一番に、自分と向き合う時間を持つことが大事だよ」と言われたことがあって、すごく納得したんです。

 

 

ーー 確かに!でも、私、不思議なんです。メディテーションをして「無」になることが、どうして自分と向き合うことになるのでしょうか?

 

たしかに、「無になること」と「自分と向き合うこと」は、一見つながっていないように思えるかもしれません。でも、続けてみると少しずつわかってくるんです。

 

私たちは普段、過去の記憶や思考に引っ張られて、無意識のうちにプレッシャーを感じながら意思決定しています。でも、毎日20分でも30分でも良いからメディテーションを続けていると、「プレッシャーをかけてくるもの」と「自分」のあいだに、ほんの少し隙間ができてきます。その隙間があることで、恐怖や不安といったネガティブな感情だけでなく、「好きな人のことが頭から離れない」みたいなポジティブな感情に対しても、冷静に向き合えるようになります。

 

感情に巻き込まれすぎず、「本当の自分は、今なにを感じているんだろう?」と立ち止まって考えられるようになる。すると、自分の直感や、本当に大切にしたいことが少しずつ浮かび上がってくるようになるんです。

 

 

ーー 舞麻さんはメディテーションを始めてどのくらいで変化を感じましたか?

 

「あ、変わってきたかも」と感じたのは、メディテーションを始めて2ヶ月くらいです。
「なんとなく優しい自分でいられているな」とか、「話し方が少し落ち着いている気がする」とか、小さな変化が重なっていきました。

 

メディテーションの習慣を続けていくと、まるで玉ねぎの皮を一枚ずつ剥くように、「永野舞麻」というアイデンティティをはじめ、「母親」「娘」「妻」「編集長」「プロデューサー」……あらゆる役割や肩書きが取り除かれていく。すべてを剥き終わったときに残ってる芯の部分が「本当の私」です。

 

 

ーー おっ、なんだか深い!

 

私が信じていることは、仏教の考えに近いと思っていて。「すべてのことには意味があって、すべてのことには意味がない」。それは矛盾しているけど真理だなって。

 

科学的に見ると、宇宙にあるすべての物質は「アトム(原子)」でできています。アトムは常に振動している。つまり、動かないもの、変わらないものは存在しないんです。

 

たとえば、家も、木も、時間が経てば崩れて土に戻ります。私たちの体も心も、日々少しずつ変化していて、今日と明日でまったく同じ「私」なんてありえない。

 

私とあなたも、目の前にある机やパソコンだって、組み合わせ方が違うだけで同じ物質でできている。そう思うと、「これは私」「あれは他人」って分けようとすること自体が不思議ですよね。

 

メディテーションをして「無」になれた瞬間は、宇宙と繋がっている状態です。自分より大きな宇宙の一部になれている瞬間に、自由を感じます。私はその状態を少しでも長くするために毎日メディテーションをしています。

 

ーー 「宇宙と繋がる時間」が長くなると、 舞麻さんにとってどんなメリットがあるのですか?

 

「無」の感覚でいられる時間が長くなればなるほど、争いごとがバカバカしく思えてくるし、誰かのことをジャッジすることもアホらしくなってくる。みんな同じなのに、どうして批判しあうのって。

 

私もあなたも、目の前にあるものもみんな一緒なんだって思えたら、心の底から人を愛せるし、全てのものを大切にできます。

 

たとえば、目の前でのろのろ運転してる車にも、「私がスピードを出しすぎないように、この人が現れてくれたんだな」って、ポジティブ思考になれます。得体の知れない心の底からの愛が溢れ出てくる感じを味わえるんです。

 

ーー その感覚、味わってみたいです。

 

でも、それを夫に話すと、「じゃあなんで娘たちに怒るの?」って言われちゃう。常に「無」になって、すべてを愛することは、やっぱり難しい。でも、そんな時間を1秒でも長く持てるように、私はメディテーションを続けています。

 

 

しんどい時は10分間のメディテーション。意識的にスピードを落とすことも大切

 

ーー 舞麻さんの話を聞いて、私もメディテーションに挑戦してみたことがあるのですが、なかなか継続できなくて。

 

私がやって良かったのは、朝起きたらすぐにメディテーションができるように、ベッドの横に椅子を置いたことです。寒くて起きられないなら椅子にブランケットを置いておくとか。「どこでやろうかな」「寒くてなかなか起きれない」といったハードルを一つひとつ減らしました。

 

「5分だけでもやろう」と思って椅子に座ると、気がついたら50分くらい座っていたりします。結局、私はメディテーションが好きなんですよね。

 

ーー メディテーションは毎日やることが大切なのでしょうか?

 

 

変化を感じたいのなら、毎日やるのが良いです。できれば、朝と午後の2回。午後はお昼を食べて、お腹が落ち着いた3時くらいがおすすめです。そのタイミングで10分でも良いからメディテーションをすると、体力も気力も夜まで持つんです。

 

 

小さな子どもがいると、子どもが寝るまでの夜の時間って「鬼ママ」になりがちですよね。イライラして、パートナーにきつくあたってしまったり。でも、午後にメディテーションをしておくと、気持ちに余裕ができて、踏ん張りがきくんです。

 

 

今って、みんなすごく生き急いでるじゃないですか。だからこそ、毎日少しだけでも、意識的にスピードを落とす時間を持つことが大切だと思います。

 

 

もし今、「しんどいな」とか「心がパンパンだな」と感じているなら、ショッピングに行くより、友達とお茶をするより、美味しいごはんを食べに行くより、映画を見るより、 私は10分間のメディテーションをおすすめします。

 

 

私がメディテーションをするようになって変われたので、きっとどんな人でも変化を感じられると思います。

音楽は心の処方箋。メンタルヘルスとの関係とは?

 

今は、音楽ストリーミングの普及により、CDを買わなくても気軽に音楽を楽しめる時代。スマートフォンとイヤホンさえあれば、いつでも、どこでも、お気に入りの曲を聴くことができます。

 

我が家では、朝は「朝にぴったりの音楽を流して」、子どもたちの兄妹喧嘩に疲れたときは「リラックスできる曲が聴きたいな」、寝る前には「心を落ち着ける音楽をかけて」と、そのときの気分や状況に合わせて、スマートスピーカーに音楽を選んでもらっています。

 

また、お気に入りの曲を流すと、再生が終わった後に別の曲が自動で流れ、思いがけず素敵な音楽に出会うことも。音楽は、日々の生活に欠かせない存在です。

 

実は、音楽にはリラックス効果やストレス軽減、さらには気分を高める力があると言われています。

 

この記事では、音楽がどのように私たちの心を支えてくれるのか、私が勇気づけられたお気に入りの曲とともにご紹介します。

 

『やろうとするのが大事』。迷ったときに背中を押してくれる音楽

 

何かをやるべきか迷ったとき、最近よく聴くのがAIさんの「みんながみんな英雄2024」です。

 

“できるできない なれるなれない
そりゃ全部が全部は叶わない
誰でもそうさ 彼でもそうさ
でもやろうとするのが大事
いま何が やりたいの
いま何に なりたいの
予定通りにいかなくたって
確かに前には進んでいる
踏み出せば それが道
飛び出せば そこが夢
汗かけば きっと 輝くさ
なりたかった自分が待っている”

 

https://www.youtube.com/watch?v=8RFwWUgL8Xw

 

この曲を聴くと、「迷うぐらいなら、まずはやってみよう!」と背中を押してもらえます。

 

実際に、好きな音楽を聴くと、脳内で「幸福ホルモン」と呼ばれるドーパミンが分泌され、気持ちが落ち着いたり、やる気が湧いたり、メンタルにポジティブな影響を与える力があることが科学的にも証明されています。

 

自分を励ましてくれる曲があると、迷った時に一歩踏み出す勇気がもらえるかもしれません。

 

『感じたままに進む 自分で選んだこの道を』フリーランスになりたての頃、励まされた曲

 

フリーランスのライターになったばかりの頃、「私の文章は本当に誰かの役に立つのだろうか」「正しい情報を届けられているのか」「ライターとしてこれからもやっていけるのか」と自信を持てずに悩んでいた時期がありました。そんなとき、何度も聴いて励まされたのが、YOASOBIの「群青」でした。

 

“嗚呼 感じたままに進む
自分で選んだこの道を
重いまぶた擦る夜に
しがみついた青い誓い
好きなことを続けること
それは楽しいだけじゃない
本当にできる
不安になるけど”

 

https://www.youtube.com/watch?v=Y4nEEZwckuU

 

「好きなことを続けること、それは楽しいだけじゃない」、このフレーズが、当時の私の心境にぴったり重なりました。

 

「不安を感じてもいい、続けていこう」と思える、お守りのような1曲です。

 

『幸せになりたい気持ちがあるなら 明日を見つけることはとても簡単』友達と一緒に泣いた曲

 

学生時代に親友が失恋したときには、カラオケに行って、2人で竹内まりやさんの「元気を出して」を思いっきり歌いました。

 

“涙など見せない強気なあなたを
そんなに悲しませた人は誰なの?
終わりを告げた恋に
すがるのはやめにして
ふりだしからまた始めればいい
幸せになりたい気持ちがあるなら
明日を見つけることはとても簡単”

 

https://www.youtube.com/watch?v=Dyd1BOPXu_A

 

 

大声で歌った後に、「彼だけが男じゃないよね!」なんて話をして、沈んだ心に元気をもらえた思い出の1曲です。

 

音楽は言葉以上に心に響き、時に心の支えになってくれます。悲しいときは悲しい曲を聴いて思いっきり泣いたり、前向きな歌詞に背中を押されたり。その時の気持ちに寄り添う一曲があるだけで、少し心が楽になるかもしれません。

 

音楽は「心の処方箋」

 

音楽には、心と体に働きかける不思議な力があります。

 

医学雑誌「JAMA Psychiatry」や世界保健機関(WHO)の報告によると、音楽はうつや不安の軽減にも効果があり、特に音楽療法は専門的な治療と併用することでその力を発揮すると言われています。

また、音楽を聴くことで脳内のドーパミンやセロトニンが分泌され、幸福感が高まったり、ストレスホルモンであるコルチゾールが減少し、リラックス効果が生まれることもわかっています。

 

悲しいときや寂しいとき、自分の気持ちに寄り添う曲を聴いて涙を流すのは、「カタルシス効果」と呼ばれる自然な感情の発散方法です。また、歌詞に共感することで「自分だけじゃない」と感じ、孤独感が和らぐこともあるでしょう。

 

もし最近、なんとなく気持ちが沈んでいると感じたら、自分にとっての「癒しの曲」を探してみませんか? お気に入りの音楽を聴くことは、手軽にできるセルフケアのひとつです。

 

 

〜Humming読者さんから届いた想い出の1曲〜

 

HummingのInstagramで「音楽に助けられた経験はありますか?」と質問したところ、素敵なメッセージをいただいたのでご紹介します。

 

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多感な中学生時代、今考えるとちっぽけで可愛い悩みだけど、当時は本気で悩んで、泣いて、笑って過ごしていました。

 

そんな時に聞いていたのが、中山美穂さんの「未来へのプレゼント」。

 

「大人になると、今現在のことが過去になるんだな」と考えさせられました。

 

この曲に出会えたことで、「今を一生懸命生きることが、未来へのプレゼントなんだ」と思い、がむしゃらに青春時代を満喫していました。

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=_mnBfYHrLdo

 

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素敵なメッセージをありがとうございます。

映画レビュー:「食べて、祈って、恋をして」— 人生で出会う人はすべて意味がある

 

あなたは二度目のチャンスを信じますか?

 

『食べて、祈って、恋をして』は、リズという女性が自分の人生を見つめ直す物語です。彼女は、今まで築いてきた人生が本当に望んでいたものではなかったことに気づき、大きな決断をします。よくある話ですよね。人生に何か大きな変化が起こると、人は「自分探し」のために思い切った行動をとるものです。

 

正直に言うと、最初はこの映画に懐疑的でした。これまでにも、白人の主人公が外国に行って自己発見するという映画や本をたくさん見てきたからです。でも、ジュリア・ロバーツ演じるリズには、不思議な親しみやすさがありました。気取らない雰囲気と、誰もが共感できるような心の傷を見せる彼女を、つい応援したくなったのです。この作品は、実在する女性の体験に基づいているので、物語にリアリティがあり、私自身も共感できる部分がありました。それが、この映画を好きになった理由かもしれません。

 

この物語の核となるのは、「愛」と「恐れ」という人間のテーマ。映画の冒頭で、リズは8年間連れ添った夫との結婚生活に終止符を打ち、若くて売れない俳優と恋に落ちます。しかしその恋愛関係を通じて、いつも長続きしない恋愛を繰り返し、自分自身の時間を持つことなく生きてきたことに気づきます。恋愛は、良くも悪くも私たちの人生に深く関わっています。私たちは常に人とのつながりを求め、他人の目を気にしながら生きています。「もしも…」という幻想にとらわれ、気づけば足元を見失い、転んでしまうこともあるのです。

 

 

映画の冒頭で、作家であるリズはこう語ります。

 

「私は自分の人生を築き上げるために積極的に取り組んできたのに、なぜその中に自分自身の姿が見えていなかったのか?」

 

彼女が言っているのは、夫と築いた人生のことです。自分で選び、作り上げてきたはずなのに、それがどこか他人事のように感じられる——そんな感覚に戸惑っているのです。

 

多くの人が、幼い頃から「誰かを良い人を見つけて結婚し、子どもを持つのが幸せな人生だ」と教えられてきたのではないでしょうか。そのために私たちは、「運命の人」を探し求め、焦り、時にはパニックにさえなります。でも、その過程で立ち止まって考えたことはあるでしょうか? 私たちは「幸せとはこうあるべきだ」という固定観念に縛られすぎて、いつの間にか自分の本当の幸せを見失ってしまうのです。

 

リズはまた、こうも言います。


「このままここにいることよりも難しかったのは、今の状態から離れることだった。」

 

なぜでしょう? なぜ人は、自分を傷つけると分かっているものから離れられないのでしょうか? 相手を傷つけることが怖いから? それとも、一人になることが怖いから? それとも、未知の世界に飛び込むことへの恐れでしょうか?

 

 

“リズは孤独を恐れて不健全な関係にしがみつく自分と向き合い、離婚と破局を経て傷ついた心を癒すために「食・祈り・愛」を求めて一年間の旅へ踏み出す。”

 

 

リズは離婚してすぐに、年下の男性と付き合い始めます。しかし、その関係は決して順風満帆とは言えません。あるシーンでは、二人がベッドに横たわりながら、彼がリズに「この関係を続けよう」と懇願します。しかし、彼らはしょっちゅう喧嘩をし、二人の関係が悪化していきました。彼は、「幸せではなくても、一人でいるよりはマシ」と考えていたのです。たとえ相手が自分に合わなくても、「誰か」と一緒にいることのほうが、孤独よりもましだと

 

私はこの考え方に驚きましたが、決して珍しいものではありません。友人たちを見ていると、何度も同じようなことを繰り返しているのに気づきます。彼らは孤独を感じると出会いを求め、マッチングアプリを利用します。でも、結局は相手に傷つけられ、落胆してアプリを削除します。それなのに、しばらくするとまたアプリを利用するのです。

 

なぜでしょう? なぜ、痛みと失望をもたらすものに、繰り返し戻ってしまうのでしょうか?

 

離婚と年下の恋人との破局を経て、リズは限界を感じます。そして、思い切って1年間の旅に出ることを決意しました。行き先は、イタリア、インド、そしてバリ。それぞれの場所には意味があります。イタリアでは「食」を通じて自分を取り戻し、インドでは「祈り」を通じて過去を手放し、バリでは再び「愛」を受け入れます。まさに、Eat, Pray, Love(食べて、祈って、恋をして)です。

 

 

イタリアで彼女が学んだのは、「崩壊」は終わりではないということ。人間は驚くほど回復力があり、何度でもやり直せるのです。恋愛は出会いと別れの繰り返しであり、それは自然なこと。それなのに、多くの人は築き上げたものが崩れることを恐れ、必死に壊れた欠片をかき集め、なんとか元に戻そうとしますそんな時は、一度すべてを手放し、崩れ落ちるのを見届けるしかありません。確かに、それは痛みを伴いますが、その度に私たちはより強い土台を築くことができます。

 

リズはインドでは、過去の恋を手放さなければ前に進めないことを学びます。かつて愛した夫を傷つけたことに罪悪感を抱いているリズ。結婚した当時の「愛のかたち」や「理想の人生」は、年月とともに変化していました。二人が出会い、結婚したのは20代の頃。でも、人は変わるものです。私自身、20代の頃と今とでは全く違う人間になったと感じています。彼女は確かに夫を愛していました。でも、彼が望むリズではいられなくなったのです。そして彼は、その現実を受け入れる準備ができていなかったということです。成長には別れが伴うことがある——インドでの時間は、彼女にその真実と向き合う機会を与えてくれました。

 

 

“リズは旅を通して、崩壊を恐れず手放すことで人は何度でも再生でき、そして成長の過程では過去の愛や罪悪感とも向き合い別れを受け入れる必要があると学んでいく。”

 

 

バリで、リズはフェリペという男性と出会います。彼もまた、離婚による心の傷を抱えていました。最初は警戒していたものの、自分がリズに恋をしていることに気づき、その気持ちと正面から向き合うことを決めます。フェリペは、愛情深く、感情を隠さず、涙を流すことも恐れない人。一方のリズは、恋愛に対して心を閉ざしていました。彼女は怖かったのです。

 

フェリペが「愛している」と告白すると、リズは言葉につまります。唇は震え、目には涙がにじみ、体はその場から逃げ出したくて仕方がないとでもいうように。しかし、フェリペは彼女を逃がしません。まっすぐに問いかけます——「君は僕を愛しているのか?」と。彼には迷いがありません。いや、もしかすると彼も怖いのかもしれません。でも、彼はその恐怖を力に変えて前へ進もうとしています。リズは違いました。彼女はその恐怖に飲み込まれ、動けなくなってしまうのです。もし愛している」と認めてしまったら、また自分を見失ってしまうのではないか。これまで積み上げてきたものがすべて無駄になってしまうのではないか。

 

でも、その瞬間、彼女は自分がかつての彼氏に言った自身の言葉を忘れていました—— 「変化を恐れないで」。

 

変化はバランスを壊すものではなく、新しい形へと作り変えるものです。変化を恐れていては、本当の意味で生きることはできません。そう気づいたリズは、ついにその恐怖を乗り越え、一歩を踏み出します。

 

物語の終盤で、彼女はこんな美しい言葉を語ります。

 

「もしあなたが、慣れ親しんで心地よいものすべてを勇気を持って手放し、真実を探し求める旅に出ることができるなら。そして、その旅の中で起こるすべての出来事をそのままに受け止め、旅で出会うすべての人を師として受け入れ、何よりも、自分自身の厳しい現実と向き合う準備ができているなら——真実は、あなたから決して遠ざかることはないでしょう」

 

 

“人生の困難や出会いを抗うのではなく学びとして受け入れることで、すべての人との縁が自分を成長へと導いてくれるのだと映画は教えてくれる。”

 

 

最後に、あなたに問いかけたいことがあります。

 

私たちはいつも、障害や困難、そして不快なものに抵抗し、戦おうとします。でも、もし戦わずに受け入れたらどうでしょうか?もし、それらが私たち自身の選択の結果だと認めることができたなら?

 

私は、この映画の中でリズが言った 「出会うすべての人が師である」 という言葉が大好きです。なぜなら、それは真実だから。元恋人でも、一瞬の友情でも、出会った人すべてが私に何かを与えてくれました。そのおかげで私は成長し、より良い人間になれたのです。そして何より、自分が本当に幸せになるために必要なものが何かを知ることができたのです。

 

この映画は、それを教えてくれます。

 

人生で出会う人々は、すべて意味があって現れます。そして、たとえ二度と会うことがなくても、その瞬間の出会いは確かに存在し、価値があります。たとえ苦い経験だったとしても、それを学びとして受け取ることができれば、人生はもっと豊かで、もっと面白くなるのではないでしょうか。

音楽で自分のご機嫌をコントロールするヒント&おすすめプレイリスト

 

あえて強く意識することはないけど、暮らしの中にはいつもあってほしい。
呼吸をするのと同じくらい無意識だけど、無いと生きていけない。

 

音楽を聞くことは、私にとってそんな感じです。

 

ただ、こんな感じのトーンなので、ミュージシャンや音楽ファンのような、熱量も密度も高い「好き」とはちょっと違うんですよね。

 

音楽は呼吸と同じくらい必要不可欠

 

思えば小さい頃から、音楽が身近にありました。

 

小学生のころ、母から近所のピアノ教室のチラシを見せられ、良くも悪くも意思がなかったので、言われるがままその教室に通うことに。

 

結局、そのまま10年近くピアノを習い続けました。

 

中学に入ると吹奏楽でサックスをはじめ、大学ではテイストを変えてジャズ研に飛び込んだり、社会人になってからは唐突にボイトレに通いはじめたり。

 

バンドを組みたいとかプロになりたいとか、熱い気持ちがあるわけでもないし、正直練習も真面目にやらないタイプなのに、気づけばいつも音楽に手が伸びている、そんな人間へと成長していました。

 

思い返せば、最初のピアノ教室の時点で拒否反応が出なかった時点で、もはやもともとの性質というかDNAに音楽好きが組み込まれていたのではないか?という気すらします。

 

そんな感じでここまで生きてきたので、今も音楽を聞かない日はありません。

 

 

“音楽は、聴けない時間が続くと落ち着かなくなるほど私の日常に寄り添い支えてくれる、恋人ではなく“結婚相手”のような存在だと気づかせてくれる。”

 

 

気がつけばスマホでSpotifyを開いていつものプレイリストをとんとんとタップして、シャッフル再生している。

 

何も流さず耳を休める時間もあるので常に流したいわけではないけれど、イヤホンを忘れたり、音楽を流したくても流せない時間が続くと、だんだんと落ち着かなくなってきます。

 

なんだかこう書いていて、ふと「恋人じゃなくて結婚相手」というフレーズが浮かんできました。

 

こじつけた比喩にも思えますが、私にとっての音楽に対する「好き」の気持ちは、まさにそんな感じなのです。

 

音楽は、毎日を、人生を、前向きに生きていけるよう、さりげなく寄り添ってサポートしてくれる大切なパートナーです。

 

音楽は気持ちの「切り替えスイッチ」

 

そんな大切なパートナーですが、「ただご機嫌にしてくれるもの」というよりかは、そのときの自分のムード切り替えを手伝ってくれるスイッチという感覚があります。

 

シンプルにテンションを上げたいときはもちろんのこと、イライラをどうにか前向きに変換したいとき、一旦悲しいモードに沈みきりたいとき、漠然とした不安を落ち着けたいとき、ちょっと殻にこもって現実逃避したいとき。

 

私たちは日々いろんな気持ち・感情を抱えていて、時にはそれらが目まぐるしく入れ替わって、コントロールを失いかけるときもあります。

 

常に、明るい曲を聞けば明るい気分になれるという単純な話ではないはずです。

 

だからこそ、なりたい気分やよく陥る自分のメンタルのパターンを意識して、それぞれに合わせてプレイリストを使い分けるようにしています。

 

モヤモヤしたときも、イライラしたときも、ちょっとハイになりすぎたときも、それぞれこのプレイリストを流して身をゆだねれば、また心の舵を取り戻せる、そんな安心感を音楽は与えてくれます。

 

 

“音楽は気分を無理に上向かせるものではなく、揺れ動く感情に寄り添いながら心の舵を取り戻させてくれる、ムード切り替えのための大切なスイッチのような存在だ。”

 

 

当然のことながら、これにより音楽は素晴らしいワークアウトの相棒にもなります。運動のテンポに合わせた音楽は気分やパフォーマンスを高め、酸素消費を改善し、疲労を忘れさせ、運動の時間を延ばすことができます。

 

音楽で意図的に気持ちのモードを切り替える、これが私にとって何よりの効果になっています。

 

一種のお守りのような、スポーツ選手や経営者のルーティンのような、そんな感覚に近いかもしれません。

 

そんなプレイリストの一部を、伝わる層は少ないかもしれませんが、個人的にしっくりきたドラクエになぞらえてご紹介したいと思います。

 

…とはいえ見出しに添えているだけで元ネタが分からなくても支障はないので、安心して読み進めてください。

 

 

 

 

バッチリがんばれ、基本のプレイリスト

 

まずは単純なパターンです。

 

好きな曲でとりあえずほどほどにテンションをあげたい、そんなシンプルな気持ちの時に使う基本のプレイリストです。

 

朝の身支度の時や家事に集中したいとき、ドライブするときなど割といつでもしっくりくる万能プレイリストです。

 

基本、メンタルがニュートラルな状態で聞くことが多く、そこからちょっとご機嫌モードに気分を上げるために聞いています。

 

アップテンポで好きな曲に出会ったら、深く考えず、このプレイリストにどんどん追加していきます。

 

ちなみに私はリピート魔なのでピンとくる曲に出会ったら、1日中その曲を無限リピートしたり、あるいはその曲から波及してそのアーティストの曲を一気追加したりするクセがあります。

 

なので、時期によっては、アーティストやジャンルが偏ることもしばしば。

 

でも、そうやって集まった曲ばかりなので、シャッフル再生していると「あ~これ聞きまくってたときは、ああいうことがあったな、ああいうことで悩んでたな、でももう笑い飛ばせるな」なんて、途中でちょっとエモい気持ちになることもあります。

 

自分の足跡が残っていく感じがするのも、このプレイリストの好きなところ。

 

ちなみに最近追加したのは、B’zの「ultra soul」です。紅白のステージですっかり魅了されてしまいました。

 

これを聞くと、年越しのあの特別な雰囲気と、年始にちょっと高まったモチベーションを思い出して、頑張んなきゃなと前向きな気持ちにさせてくれます。

 

ガンガンいこうぜ、イライラ昇華プレイリスト

 

次はちょっとだけオラオラした雰囲気の曲のリストです。

 

カチンときたときやどうしてもイライラが収まらないとき、状況が許す限り、イヤホンをノイズキャンセリングモードにしてこれを爆音で鳴らして外の世界をシャットアウトします。

 

むしゃくしゃした気分を無理して抑えつけるのではなく、いっそ曲の雰囲気に乗せて加速させてしまうと、気づいたときには意外と前向きなパワーに転換されていたりするんですよね。

 

仕事中、「は???」と内心キレそうになってしまったときに、これを聞きながら単純タスクを爆速で終わらせるのも嫌いではない、というか結構快感だったりします。

 

 

 

些細なことが目につくのでそもそも余計なイライラが多いタイプではあるのですが、最近はこうして自分でコントロールしてご機嫌を取り戻せるなら別にいいかなと思うようにもなりました。

 

こんな風に、普段心の中でおとなしくしている気持ちの蓋を少し開けて、ブーストをかけてくれるプレイリストなので、特にイライラはしていないけどとにかく集中したいというときも結構使えます。

 

入っている曲はとにかくアップテンポで、できれば重低音もガンガンにかかった音圧のあるものが中心。

 

そうした「ノリ」重視で選んでいるので、必然的に推しているダンスパフォーマンスグループの楽曲や、彼らがおすすめしていたダンスミュージック系が多くなっています。

 

なかでもお気に入りはs**t kingzの「Get on the floor」です。

 

音以外の要素でいえば、「やってやるぞ」「見てろよ」みたいな、ちょっと歌詞がオラオラした雰囲気の曲も好きで入れています。

 

自分では言えないしそもそも言う気もあまりないけれど、代弁してもらってスカッとする気持ちと、なんだか自分も強気になれる気がするんですよね。

 

 

いのちだいじに、心を落ち着けるプレイリスト

 

ここまでの2つはテンションを上げるプレイリストでしたが、もちろん心静かに落ち着かせてくれるのも音楽です。

 

楽しかった日も腹が立った日も、特に何もなかった日も、1日の終わりに一旦気持ちをリセットする時間って大事ですよね。

 

お風呂に入って肩の力を抜きたいとき、ベッドに入ってうとうと眠気を誘ってほしいとき、そうした身も心も回復するための静かな時間に流すプレイリストです。

 

こちらはバラード系が多いのですが、私は特にJUJUのジャズカバーが好きで、だいたい毎日シャッフル再生のスタートは「Misty」か「Girl Talk」にして、心地よく心をほぐしてもらっています。

 

眠るときは聞こえるか聞こえないかくらいのごくごく小さい音量で再生すると、子守歌を歌ってもらっている感じがして特に癒されます。

 

せかいじゅのしずく、万能薬のアルバム

 

ここまでご紹介したのは「今こういう気分」と自分で自分の状態が分かっているときに、切り替えスイッチとして使うプレイリスト。

 

でも自分の今の状態が掴めていないと、どのリストをシャッフルしてもあまり上手くハマりません。

 

好きな曲でも、その時の気分に合うかどうかって日によって微妙に変わりますよね。

 

それでも個人的には、とんとんとんと3つくらいシャッフルすればしっくりくるものにたどり着くのですが、たまに何度スワイプしてもそういう曲が出てこない日があります。

 

テンションを上げたい気がしたけどなんか違う、でもやっぱりテンポは速いのがいい、でもこれじゃなくて、いやこれでもなくて…と延々とスキップしながら「あれ…私って今どんな気分なんだろう?」と、急に迷宮入りしてしまう時があります。

 

そんなとき、私が引っ張り出すのが「推しのアルバム」です。

それをシャッフル再生ではなく、順番通りに再生する。

 

推しのアルバムという時点で好きな曲が詰まっているのはもちろんなのですが、どちらかというとポイントはこの順番通りに再生するというところにあります。

 

アルバムって何度も聞くうちに、曲が終わると次の曲のイントロが勝手に頭のなかで流れるようになったりするじゃないですか。

 

だから、その通りに再生されると「そうそう、これこれ」と安心感がある。

 

そもそも推しの好きな曲でじわじわ心が満たされていくところに、この予定調和があると、掴みどころのなかった気持ちもだんだんと地に足がついて落ち着いていくんです。

 

まあその予定調和って、作り手側が練りに練って考えられた順番なわけですから、そりゃ普通に流れとして心地良いのは当たり前なんですけどね。

 

ここまでのプレイリストとはちょっと毛色が違いますが、このアルバムも冒頭の一種のお守りやルーティンのようなものという意味では、同じ効果をもたらしてくれます。

 

ちなみに私にとっての万能薬は藤井風の「HELP EVER HURT NEVER」です。

 

 

音楽は自分のご機嫌を取るための最強ツール

 

普段、あまり深く考えず垂れ流しているつもりだった音楽も、こうして意識してみると私にとっていろんな意味を持っているということに改めて気づかされました。

 

自分のご機嫌は自分で取るというのは、最近よく言われることですが、それを実現するのに一番手軽で最強なツールはきっと音楽なのではないでしょうか。

 

よければ皆さんのおすすめ曲やプレイリストもシェアしてくださいね♪

今の自分にできることを、精一杯やる。それが結果、未来に繋がる。環境問題ドキュメンタリー『EARTHBOUND(アースバウンド)』制作秘話【Humming編集長永野舞麻】

 

ケニア・ダンドラのゴミ捨て場には毎日2000トンものゴミが運ばれ、そこには日本からのゴミも含まれています。「2050年には海の魚よりプラスチックの方が多くなる」と言われる今、環境問題は決して他人事ではありません。

 

深刻化する環境問題。一方で、世界には未来を見据え、具体的な行動で希望の種を蒔く人々がいます。

 

今回ご紹介する『EARTHBOUND』は、地球環境に真摯に向き合うチェンジメーカーをフィーチャーするドキュメンタリーシリーズの第1作。その主人公が、ケニアの女性起業家ンザンビです。

 

ケニアでは、プラスチックゴミの問題と未舗装の道路という2つの課題が長年続いています。ンザンビは、それを同時に解決するため、廃プラスチックを活用した舗装レンガを開発。コンクリートよりも強度が高く、軽量で低コストな舗装レンガを使い、街のインフラ改善に取り組んでいます。

 

WebマガジンHummingの編集長であり、『EARTHBOUND』の総合プロデューサーを務める永野舞麻。彼女がなぜ環境問題をテーマにしたドキュメンタリー映画を制作したのか。映画に込めた想いや、舞台裏のストーリーを伺いました。

 

 

深刻な環境問題。だからこそ、主人公ンザンビが届ける希望の光

 

ー ンザンビの明るさが本当に素敵ですよね。私も2回拝見しましたが、ンザンビの前向きなエネルギーに惹きつけられました。

 

ンザンビの明るさは『EARTHBOUND』の大切な要素です。環境問題をテーマにした映画には、観た後に「もうこの世の終わりだ……」と感じてしまう作品も少なくありません。でも、問題の大きさに直面して「私には何もできない」と無力感を抱き、心も体もフリーズしてしまうのが一番よくない状態だと思います。

 

だからこそ、『EARTHBOUND』は観た後に「私にも、小さくても今日からできることがあるかもしれない」と思えるような作品にしようと思いました。

 

― 私は特にンザンビが森の中で踊っているシーンが好きでした。

 

あの森は、ワンガリ・マータイという女性が守った森なんです。ワンガリ・マータイは、ケニア出身の環境活動家で、アフリカで初めてノーベル平和賞を受賞した方です。妹と一緒に撮影のためにその森に足を運んだのですが、力強いエネルギーを感じる場所でした。

 

ンザンビが情熱を持って向き合っているのはプラスチック問題ですが、彼女の生きるエネルギーになっているのはダンス。だからこそ、この特別な森でダンスシーンを撮影することにしました。

 

― 舞麻さんがお気に入りのシーンを一つだけ選ぶとしたら、どのシーンですか?

 

ダンドラのゴミ集積場からプラスチックゴミを集め、それをレンガにして歩道を作る。一見、リサイクルが進んでいるように見えても、実際には膨大なゴミのほんの一部、1年間に捨てられるゴミの100分の1にも満たない量しか再利用できていないんです。ダンドラには毎日2000トンものゴミが運ばれているからです。そんな現実を目の前にし、「私の努力に意味はあるのだろうか?」と、ンザンビがお母さんに弱音を打ち明けるシーンがあります。

 

その時、お母さんがンザンビに語ったのは「燃え盛る森に、一滴ずつ川の水を運び続けたハミングバードになりなさい」という言葉でした。そして、「ワンガリ・マータイも世界中の木を守ろうとしたわけではなく、自分の森を大切に守ったよね」と続けるんです。そのシーンを見るたびに涙がこぼれます。

 

― 私も映画の中に出てきたワンガリ・マータイの言葉、「世界中の問題を解決しようとせず、自分の地域の問題を一つ解決すればいい。小さなことの積み重ねが違いを生む。」という言葉がすごく印象に残っています。

 

私は、何か一つでも、自分が大切だと感じることを取り組むことに意義があると思っています。

 

たとえば、莫大な資産があれば、新しいエネルギー発電の技術を開発できるかもしれません。でも、誰もがそれを実現できるわけではない。だからこそ、誰かの真似をする必要もなければ、誰かと比べる必要もありません。

 

プラスチックゴミを減らしたいなら、毎朝の水筒にペットボトルの水ではなく、ろ過した水道水を入れるとか、買い物に行くときはコットンバッグを持ち歩くとか。頭の中で「自分の出したゴミが他の国に輸出されている」と記憶しておくだけでも、日々の選択が変わってくると思います。何よりも、小さなことでも続けることが大切です。

 

環境問題を「見て」、前向きに向き合える作品を届けたい

 

―そもそも、どうして環境問題をテーマにした映画を作ろうと思ったのですか?

 

パンデミックがはじまった頃、「このままだと、あと10年で気候変動の転換点を迎えてしまう。そうなると、その後どんなに人間が行動を変えて気候変動を止めようとしても、もう止めることはできない」という話を妹から聞き、このまま個人でできることを続けるだけでは手遅れになると思いました。そこで、妹たちと一緒に、一般社団法人ハミングバードを立ち上げ、すでに環境問題改善に取り組んでいる方々の活動を広めることにしました。

 

最初に取り組んだのは、J-WAVEのラジオ番組での発信です。日曜日の朝に5分間の枠をもらい、世界各国で環境問題に取り組む人々を取材しました。

 

でも、「百聞は一見にしかず」というように、環境問題の深刻さを100回説明するより、実際に映像を見てもらうほうが伝わりますよね。たとえば、家族が突然病院に運ばれたと聞いたら、すぐに駆けつけるのと同じように、私たちが住む地球が危機的状況にあることを知れば、行動を起こす人が増えるはず。環境問題に対して、一人ひとりが今できることを考え、立ち上がるきっかけになればと思い、映画を作ることに決めました。

 

でも、最初は10分ほどのショートフィルムを想定していて、こんな大作を作るつもりはなかったんです。

 

― どうして45分のドキュメンタリー映画にされたのでしょう?

 

環境問題に取り組む人々の姿を映像で伝えるなら、単に情報を伝えるだけでなく、目を引く映像とストーリーがあるほうが、より多くの人の心に響くのではないかというのが監督のアイディアでした。

 

一度は「私が目指している方向と違うのでは?」と迷い、その気持ちを正直に監督に伝え、別の道を選ぼうとしたこともありました。でも、話し合いの後に監督が電話をくれて、改めて彼の熱意を語ってくれたんです。対話を重ねるうちに、「どうせやるなら思い切りやろう」と45分間のドキュメンタリーシリーズとして制作することにしました。

 

― シリーズで展開されていくのですね。

 

現在候補に上がっているのは、アルゼンチン、日本、スペイン、そしてインドです。全部で6つのストーリーを作る予定です。

 

ゴミ問題は世界共通の課題。ンザンビの魅力に惹かれダンドラへ

 

 

― ドキュメンタリーの第1弾としてプラスチック問題を、そしてケニアのダンドラを選んだ理由は何ですか?

 

ゴミ問題は、国や宗教、人種に関係なく、誰もが一目で理解できる問題だからです。

 

「今のペースでいけば、2050年には海の魚よりもプラスチックの数の方が多くなる」と言われています。環境問題の中でも、ここまで目に見えて深刻さが伝わるテーマは少ない。だからこそ、最初のエピソードでは、プラスチックゴミを中心に扱うことにしました。

 

そこで、ゴミ問題に関わる人々を十数人ほど取材し、その中で最もカリスマ性を感じたンザンビを主人公に選びました。

 

だから、ダンドラという場所を選んだのではなく、ンザンビのストーリーを伝えたいと思った結果、舞台がダンドラになりました。

 

― 映画の中で、ンザンビのお母さんが「メディアの興味は表面的だった」というお話をされていましたよね。映画の制作の話を持ちかけたとき、ンザンビや彼女のご家族の反応はどうでしたか?

 

最初の1カ月は断られ続けました。過去に取材を受けた経験から、メディアへの不信感があったのだと思います。それでも、監督が何度も電話をかけ、話を重ねることで、少しずつ私たちの熱意を理解してもらえました。

 

今では、撮影チームはンザンビのママのことを「ママ」と呼んでいます。彼女も「日本ってどんな国?」と興味を持って話しかけてくれたり、一緒にランチをしたり、オープンな関係が築けています。

 

腹の底から湧き起こる「楽しい」気持ちを大切に臨んだ映画撮影

 

 

ー ケニアでの撮影、大変だったことはありますか?

 

んー、特にないですね。すごく楽しかったです。あえて大変だったことをあげるなら、映画制作と子育てのバランスかな。私には3人の子どもがいるのですが、映画の制作時期がちょうどパンデミックの時期で、子どもたちの学校がお休みでした。当時はまだ3人とも10歳に満たなかったので「ママといたい」と泣く子どもたちを置いてケニアへ向かうのは葛藤がありました。

 

ケニアの首都ナイロビは音楽が盛んな街です。仕事が終わった後に、食事を兼ねて制作チームでクラブに行って音楽を楽しんだり、DJのいる野外スペースで踊ったり、映画制作の合間の楽しい思い出になりました。

 

― 何事も楽しむって大事ですよね。

 

私は何かを選択する時は、お腹の底から込み上げてくるワクワクした感覚を大切にしています。心の底から自分の選択を信じることができなければ、困難に直面したときに乗り越えることができないと思うからです。映画制作は自分の感覚を信じて決めたことなので、すごく楽しかったです。

 

そもそも、私は、自分の時間とエネルギーを、世の中がより調和のとれた場所になるために使いたいと考えています。環境問題、児童虐待、食育……、テーマにこだわりはないですが、自分の行動が「より良い未来につながっているか」は常に意識しています。

 

― 調和のとれた世界とは?

 

たとえば、プラスチックは環境負荷が高いと言われる一方で、医療現場では人命を救うために欠かせない存在です。「プラスチックは悪」と一括りにしてしまうのは危険だなと。

 

大切なのは、極端に白黒をつけるのではなく、必要なものは活かしながら、むやみに使わない選択をすること。人間と地球が共存できる道を探すことです。

 

環境問題をテーマにした映画を作っておいて、こんなことを言うのは意外かもしれませんが、そもそも環境破壊と呼ばれる現象も、人間の視点だからこそ「破壊」と捉えられているだけなのかもしれません。だって地球が誕生したばかりの頃は、今よりずっと高温で、人間が生きられる環境ではなかったですよね。地球や微生物にとって「温暖化」や「気候危機」は危機ではないかもしれない。誰にとっての「破壊」や「危機」なんだろうとよく考えます。

 

でも、私はこの美しい地球を未来の子どもたちのために守りたい。それは自分の子どもだけでなく、世界中の子どもたちのためです。

 

だからこそ、彼らが安心して生き続けられる環境を残すために、今の自分ができることを続けていきたいですね。

 

貧困、紛争…環境問題だけではない、目を向けるべき社会問題

 

― 『EARTHBOUND』の制作も、調和のとれた世の中を作るためのひとつ取り組みということですね。舞麻さんが環境問題に危機感を持つようになったのは、いつからですか?

 

高校生のときに、スイスに留学してからです。壮大な自然の中で暮らし、アルプスの山々に登ったとき、自然と共存することの大切さを肌で実感しました。

 

その後、環境問題に詳しい枝廣淳子さんの講義を受け、学びを深めました。一時は、「私が生きていること自体が環境破壊につながっているのでは」と思い詰めて、気持ちが沈んだ時期もありましたが、自宅にソーラーパネルを設置して太陽光エネルギーを活用するなど、まずは身の回りから持続可能な選択を増やしていきました。

 

― 自分なりに行動する段階から、今は環境問題を人に伝えるようになったんですね。

 

そうですね。でも、環境問題は決して単独で解決できるものではなく、貧困や紛争など社会全体の構造と密接に関係しています。だから今は、環境問題に限らず、自分が気になる社会課題にも積極的に働きかけたいと思っています。

 

― 『EARTHBOUND』では、環境問題以外にもメディアによる搾取や女性の活躍推進についても考えさせられる場面がありました。環境問題以外に、伝えたかったテーマはありますか?

 

起業家として活動する場合、欧米の白人男性と、アフリカの女性とでは、資金の流れがまったく異なります。同じように努力していても、得られる機会や支援には大きな格差がある。そうした現実にも焦点を当てたいと考えました。

 

映画の制作チームも、できるだけ多様性を重視して構成しました。プロデューサーにはアメリカ人の男性とケニア人の女性が1人ずつ。監督はイラン出身の男性。そして、このプロジェクトを立ち上げたのは、私たちアジアの女性。撮影スタッフの多くも現地のカメラマンや音声スタッフです。さまざまなバックグラウンドを持つ人々が関わることで、より多角的な視点を取り入れることができました。

 

また、映画制作に関わってくれた方々に、適正な報酬を支払うことも大切にしました。成功した映画のクレジットに名前が載ることで、「自分もこの作品に携わった」という実績が生まれ、新たな仕事につながるチャンスが増える。そうしたサイクルを生み出すことで、より多くの人に機会が巡る仕組みを作りたかったからです。

 

ー 製作総指揮は英俳優のオーランド・ブルームさんですよね!

 

そうなんです。実は、監督の友人とオーランド・ブルームさんがパパ友だったんです。

 

プロジェクトの構想が固まり始めた頃、オンラインでお話しする機会がありました。映画制作への想いを伝えると、「僕も2児の父として、特にプラスチック問題には強い危機感を持っている。ぜひ参加させてほしい」と言ってくれました。

 

「未来の子ども達のために、地球をより良い方向へ導きたい」。その想いを共有し、一緒に作品を作れたことは光栄でした。

 

「ビジネスが成長しているよ!」ンザンビからの喜びのテレビ電話

 

 

― 映画が完成したあと、ンザンビたちの反応はいかがでしたか?

 

とても感動してくれて、「素晴らしい映画に仕上げてくれてありがとう」と言ってくれました。

 

ニューヨークで開催されたカンファレンスに、監督と私が登壇することになり、その場にンザンビも招待しました。このカンファレンスにはアメリカの資産家や有力な投資家が多く集まっていたので、彼女にとっても良い機会になると思ったからです。ンザンビは映画の中と同じく明るい性格で、ニューヨークでも積極的に人と交流していました。映画を通じて、新たなご縁が生まれていたら嬉しいですね。

 

― 映画を通じて、ンザンビの会社や活動に何か変化はありましたか?

 

ありました!映画の撮影中にダンドラで出会った男性を、試験的にンザンビの会社で1年間雇うことにしたんです。資金はこちらでサポートしました。

 

彼はダンドラ出身で、地域の事情をよく理解している。彼のおかげで、ビジネスがさらに広がり、プラスチックを集めてレンガを作るだけでなく、リサイクル会社に販売する新しい事業もスタートしたようです。

 

先日、ンザンビとテレビ電話をしたとき、「今、ビジネスがこの段階まで成長しているよ!」と、興奮しながら話をしてくれました。映画をきっかけに、彼女の活動が前進していることを感じられて、本当に嬉しかったです。

 

映画を通じて、環境問題を自分ごととして考えられる機会を提供したい

 

― 数々の賞を受賞してきた『EARTHBOUND』がついに日本上陸ですね。

 

これまでは主にアメリカの映画祭で上映させていただきました。映画館で期間を設けて上映するのは日本が初めてです。日本では、2025年3月14~20日まで東京・下北沢トリウッド、3月15~21日まで大阪・第七藝術劇場で上映が決まっています。

 

― 今後は『EARTHBOUND』をどのように広めていきたいと考えていますか?

 

ヨーロッパでは、テレビ局に上映権を購入してもらうために販売活動を続けています。『EARTHBOUND』を世界各国のテレビで見ていただけるようにするのが目的です。

 

日本では、学校や企業で活用していただけたら良いなと。映画を見るだけではなく、ワークショップを組み合わせた上映会を行いたいです。

 

たとえば、映画を観た後に「自分が何を感じたか」を5分間ペンを止めずに書き続けるとか、今の自分にできることをみんなで話し合ったりとか。

 

映画を通じて、環境問題や社会課題を自分ごととして捉え、行動のきっかけを作れるような場を提供したいです。

 

― 最後に、これから『EARTHBOUND』を観る日本の皆さんに向けてメッセージをお願いします。

 

『EARTHBOUND』は、今地球で起きている現実を知ってもらうために作った映画です。

 

広大なダンドラの景色、ゴミを拾い続ける人々の姿、ンザンビたちの言葉。どこに心が動かされるのかは、人それぞれ違うと思います。もし、映画を観て何かを感じていただけたなら、その気持ちを映画を観た後すぐに書き留めてもらいたいです。スマートフォンのメモでもいいし、ほんの5行でも構いません。

 

そして、その言葉を日々の暮らしの中で思い出し、小さな行動につなげてもらえたら嬉しいです。

 

『EARTHBOUND』を観ていただける機会があれば、ぜひ先入観なく、オープンな心で向き合ってみてください。

 

『EARTHBOUND』上映情報

■東京会場

@下北沢トリウッド (https://tollywood.jp/)

上映期間:2025年3月14日(金)〜20日(木祝)

 

■大阪会場 

@第七藝術劇場 (https://www.nanagei.com/)

上映期間:2025年3月15日(土)〜21日(金)

 

「幸せって何だろう?」目指すのは未来を追うより、今を感じる生き方

 

午前9:00、娘を保育園に送り届け、そのままコワーキングスペースのあるジムへ向かう。午前中のタスクをこなし、お昼休憩を兼ねて45分間のホットヨガに参加した。たっぷり汗をかいた後、シャワーを浴びてすっきりしてから、お気に入りのデリでケールのサラダを買って帰宅した。

 

木漏れ日が揺れるリビングで、買ったばかりのサラダを口に運びながら、「なんだか幸せだな」と感じた。

 

編集部から「幸せについて、沙織さんなりの考えを書いてほしい」と依頼を受けて以来、私の頭の中は「幸せって何だろう?」という問いでいっぱいだった。

 

 

おすすめ記事 ▶ 「本当の自分」が分からない?迷ったときに思い出したい考え方

 

 

疲れた身体をベッドに委ねるとき。ホットヨガで温まった体に冬の空気が心地よく感じられた瞬間。大好きな人と食事を楽しみ、たくさん話をした日。「このチキンソテー、今までで一番美味しい!」と、作ったご飯を息子がモリモリ食べてくれたこと。

 

最近の嬉しかったこと、心地よかった瞬間、思わず口角が上がった出来事をノートに書き出してみる。すると、日常にはすでにたくさんの幸せが溢れていることに気がつく。

 

幸せの基準は人それぞれだし、年齢や体調によっても変化するだろう。たとえば、どんなに美味しいごはんを食べても、体調が悪ければ味わう余裕はない。考えれば考えるほど、「幸せとは何か」という問いに明確な答えはないように思う。だからこそ、私なりの「幸せ」をじっくりと見つめ直してみることにした。

 

 

振り返ると、10代や20代の頃は、憧れのブランドバッグを手に入れたり、大企業から内定をもらったり、目に見える成果やステータスに幸せを感じていたように思う。でも、30代後半になった今、昔よりも何気ない瞬間に幸せを感じることが増えた。

 

それは、20代の頃に甘いも苦いも経験し、「誰かに依存する幸せは不安定。自分のことは自分で幸せにするんだ」という思いが強くなったからなのかもしれない。

 

とはいえ、どうすれば自分を幸せにできるのか……。 今の私がたどり着いた答えは、日常に潜む小さな幸せにしっかり目を向けるということだ。なぜなら、幸せは「手に入れる」ものではなく、「感じる」ものだと思うから。

 

たとえば、
朝起きて窓を開け、澄んだ空気を深く吸い込んでみる。
湯気立つコーヒーの香りを楽しみながら、一口ずつ味わってみる。
疲れたら無理をせず、心と身体が求めるままに休んでみる。
大切な人と過ごすときはスマホを手放し、目を見て会話を楽しむ。
周りの評価にとらわれず、自分が本当にワクワクすることを選ぶ……。

 

でも、忙しい毎日を送っていると、小さな幸せに気がつく感覚が、いつの間にか鈍くなっていく。SNSで流れてくる誰かの華やかな日常と自分の暮らしを比べてしまったり、仕事や将来への不安で頭がいっぱいになって、目の前の心地よさを感じられなくなったり。

 

誰かと比較したり、未来の幸せを追い求めるあまり、今この瞬間の幸せを見失うのは、もったいなさすぎる。

 

きっと、幸せは、「遠く」ではなく「近く」に、「未来」ではなく「今」にある。だからこそ、日常にある嬉しいこと、心地よいこと、楽しいこと……。 そんな「幸せのかけら」に気づくことこそが、自分を幸せにするための一歩なのかもしれない。

 

私たちは、幸せに対して不感症になっていないだろうか。

 

今この瞬間を大切に、もっと敏感に、もっと素直に、幸せをキャッチできる自分でありたいなと思った。

おすすめのメンタルケアアプリ3選!使ってみた本音レビューつき

 

ストレス社会と言われる現代で、注目を集める「メンタルケア」

 

ストレスや不安を感じる人が激増する中、心のケアのための手軽なツールとして、近年、メンタルケア系のアプリが多く提供され注目を集めています。

 

メンタルヘルスケアアプリとは?

ストレス増加に比例するように、それをケアする方法も近年グッとバリエーションが広がっている感じがします。

 

瞑想にマインドフルネス、そしてジャーナリング。

 

でも正直、どうやって始めたらいいか分からないし、何より習慣化が大変。そう感じる人も多いのではないでしょうか。

 

そもそもメンタルケア自体が比較的新しい概念のため、手探り状態になって当たり前。詳しい人だってなかなか身近にはいませんよね。

 

そんな時に助けてくれるのがアプリです。

 

メンタルケアの手法がたくさんあるように、アプリの種類もさまざまですが、代表的なものをざっくりご紹介します。

 

  1. 瞑想・マインドフルネス系 瞑想のガイドや音楽を提供し、リラックスを促すアプリ。代表的な例は「Calm」「MEISOON」「Upmind」などです。
  2. 感情記録・日記系 日々の感情や出来事を記録し、自分の状態を客観的に振り返るのに役立つアプリ。例えば「muute」や「Reflectly」があります。
  3. カウンセリング系 AIや専門家とチャットやビデオ通話で相談できるアプリ。「emol」や「うららか相談室」などが知られています。

 

 

メンタルヘルスケアアプリ3選を本音レビュー

機能も種類もさまざまになり、どんどん進化しているメンタル系のアプリですが、一方で、選択肢が多いからこそ、結局どれが自分に合うのか選べない、というのが本音かもしれません。

 

正直私も、いろいろインストールしては削除しての繰り返しです。

 

今回はそんな模索のなかで、個人的に使い勝手の良かったアプリを3つピックアップしてご紹介します。

 

主観にはなりますが、それなりの期間継続して使って感じた良い点とイマイチな点を本音でレビューしますので、参考になれば幸いです。

 

 

Upmind (アップマインド)

https://upmind.co.jp/

 

「Upmind」はさまざまな機能が実装されているマインドフルネスアプリです。

 

今まで試したなかでは私に一番合っていて、たしかリリース当初あたりから、かれこれ4年くらいと長く愛用しているアプリです。

 

機能の一例を挙げると、

・自律神経の状態の計測
・瞑想やヨガのガイド音声
・コラムなど学習系コンテンツ
・習慣化のためのリマインダー機能

 

などなど、メンタルケアの総合アプリという感じ。

 

なかでも自律神経の状態の計測は面白くて、スマホカメラに指をあてるだけで簡単に計測できるんです。

 

すごくないですか?

 

 

私自身、この機能が目についてリリース当初にインストールした記憶があります。

 

仕組みや指標の詳細までは分かりませんが、測定結果は結構その日の気分と近いので、感覚値では精度もそれなりに優れているように思えます。

 

ただ最近は、この計測よりも「眠りにつくためのお供」としてUpmindを愛用しています。

 

メンタルケアにおける睡眠の重要性は、言うまでもありませんよね。

 

Upmindには「熟睡」というタブがあり、睡眠の質を上げるためのコンテンツが結構充実しているんです。

 

寝ながらできる瞑想やリラクゼーションBGM、自然音、スリープストーリーなどがあり、どれも相性がいいのか流している間にいつの間にか寝落ちしてしまっています。

 

特におすすめはスリープストーリー。

 

昔話の朗読なんですが、これを枕元で流していると、幼い頃、母に寝かしつけられていたときの安心感が蘇るのか、心も体もほぐれてぐっすり眠れるんです。

 

使い始め当初は寝落ちしすぎて、そんなに長い話ではないのに、いつまで経っても物語の結末までたどり着けないなんて状態でした。

 

最近はキッズ向けの瞑想やスリープストーリーも追加されたので、お子さんとも使えるアプリです。

 

正直悪い点はあまり思いつかないほど愛用しているのですが、強いて言えば、多機能がゆえに活用しきれてない部分も多いことです。

 

また、全てのコンテンツが使える有料プランの料金が少し高めなのもネックかもしれません。

 

年額で支払えば他のアプリと同程度の価格帯にはなりますが、いきなり1年分支払うのはハードルが高いですし、かといって月額だとかなり割高になります。

 

ただ、先ほどの自律神経の計測含め、無料の範囲内でも使える機能は十分ありますし、実際私も無料プランで不自由なく使用できています。

 

 

muute (ミュート)

https://muute.jp/

 

muuteは最近特に流行ってきたジャーナリングの習慣化にぴったりなアプリです。

 

ジャーナリングについて詳しく知りたい方は、関連記事もあわせて読んでいただきたいのですが、単純に言えば、日記を一歩深めたものです。

 

日々の出来事だけでなく、それについて感じたことや考えたことを書き出して、自分の思考や感情のクセを冷静に見つめる手法です。

 

▼こちらもチェック:ジャーナリングのやり方は?日記との違いや効果について
https://humming-earth.com/iikoto/journaling/

 

ちなみに私は昔から、ちょっとイライラした日はノートに書きなぐって心情を吐露する習慣がありました。

 

ジャーナリングという概念に出会う前から、本能的にその手法にたどり着いたんだと思います。

 

モヤモヤが溜まった日は、寝る前にちょっと時間を取って書き留める。学生の頃まではこれで事足りていました。

 

 

でも、社会人になるとそんなのでは間に合わない…!

 

常にストレスが降りかかってくる…!

 

元々、考えすぎ感じすぎ人間で人より過敏に反応してしまうこともあり、ストレスが降りかかってきたそばから吐き出さないと気が狂いそうでした。

 

とはいえ、そのためにノートとペンを持ち歩くのも面倒だし、だいたい、職場で何もかもを吐き出したノートを広げて書きなぐるほどのメンタルは持ち合わせていない。(そんな鋼のメンタルならそもそもストレスを感じませんよね)

 

そんなときに出会ったのがmuuteでした。

 

スマホ一つで吐き出せる利便性はもちろんのこと、muuteでは、書いたことをカテゴリで整理したり、感情を紐づけることも簡単にできます。

 

あと、アプリのデザインは温かみがあってかわいいので、やさぐれているときも、アプリを開いただけでちょっと癒されるのもいいところですね。

 

何より私が気に入ったのは、振り返りを深められる点です。

 

イライラを吐き出しっぱなしにしても、それはただの愚痴日記で次につながりません。

 

書いたことをあとから読み返して、冷静に自分の思考や感情を見つめて対処法を考えるときこそが、ジャーナリングの効果が発揮される瞬間です。

 

muuteはSNSのタイムラインのように、書いたことがスレッド形式で残っていくので振り返りも気軽におこなえます。

 

さらに良い点がWeeklyとMonthlyでレポートが届くところ。

 

投稿のカテゴリや感情のタグ、使用した言葉などから、全体的にどんなムードだったかをAIが客観的に分析してくれるんです。

 

このレポートは結構面白くてモチベーションになります。

 

また、最近ガイドジャーナリング(テーマに沿って考えや感情を書き出す)も追加されたようなので、ジャーナリングに興味があるけどどう始めていいかわからないという人でも安心だと思います。

 

ただ個人的にはアプリの動作が鈍くなってきている感覚があり、そこは少し残念な点だなと感じています。

 

感情と出来事をより密に紐づけて記録できるようになのか、外部カレンダーやストリーミングサービスと連携できるようになったのですが、そのあたりから若干アプリが全体的に重くなり、反応も鈍くなったなという感覚です。

 

このアプリの挙動の変化に加え、自分のメンタルとの付き合い方が少し掴めてきたのもあって、最近はまたノートとペンのアナログスタイルに戻っています。

 

それでも突発的に吐き出したくなるときはあるので、お守りのようにずっとスマホには入れたままにしています。

 

アプリとしてはどんどん多機能になり、カスタマイズ性もさらに向上しているので、挙動がそんなに気にならなければ、ジャーナリング初心者から深めたい人まで幅広く対応するアプリだと思います。

 

 

MEISOON (メイスーン)

https://yoga-lava.com/meisoon/

 

MEISOONは、ホットヨガスタジオLAVAがプロデュースする瞑想アプリです。

私がメンタルケアや瞑想に興味を持ちはじめて、初めてインストールしたアプリでもあります。

 

瞑想アプリはそれこそたくさんの種類がありますが、MEISOONの特徴は何と言ってもシンプルな機能とUIでしょう。

 

シーンに合わせて瞑想ガイドのコンテンツが分かれているので、好きなものを選んで再生して瞑想に取り組むだけ。

 

タブがいろいろ分かれていたり、操作が分かりにくかったりということもないので、気が散ることなく瞑想に集中できます。

 

また、ログインボーナスや瞑想が完了するごとにポイント加算されるので、継続するモチベーションが維持しやすいのも特徴です。

 

今は仕様が変わったようですが、以前はこのポイントで有料コンテンツも一部レンタルができたので結構ハマってました。

 

一方で、シンプルかつ無料コンテンツも少ないので、すでにある程度瞑想に慣れている人は物足りなさを感じるかもしれません。

 

実際私も、瞑想に慣れてきてマインドフルネスなど、より大きな枠組みでメンタルケアに取り組みたいと思うようになってから、だんだん使わなくなりました。

 

逆に、瞑想はまったくのゼロからで、とりあえずちょっとはじめてみたい、むしろ最低限のシンプルなアプリがいいという人にはおすすめです。

 

 

メンタルケアの入門編として使って、より深めたい、レベルアップさせたいと思ったら、他のアプリを試す。

 

個人的にはそんなエントリーモデル的な立ち位置のアプリだと思います。

 

 

自分に合ったメンタルヘルスケアアプリの選び方

 

ここまで私が実際に使ってみたアプリをご紹介しましたが、いかがでしたか?

 

それぞれメリットデメリットを本音でレビューしてみましたが、結局どのアプリが一番いいのかはやはり人によって異なるというのが私の結論です。

 

なので、最後に選び方のポイントもお伝えしておきます。

 

目的をはっきりさせる

アプリを使ってどうメンタルにアプローチしたいのか、どんな機能が必要なのか、課金をしてでもがっつり使いこんでいきたいのか。

 

アプリで実現したいことが自分の中で掴めていないと、機能が足りなかったり、逆にオーバースペックなものを四苦八苦して使うはめになってしまいます。

 

アプリを使うことではなく、あくまでメンタルをケアすることが一番の目的であることを忘れないでください。

 

直感を信じる

アプリの各ジャンルのなかで、正直、機能的な違いがあまりないものもあります。なので「直感」も意外と大切な決め手になります。

 

なんとなくデザインが好き、瞑想ガイドの声が好き、この機能がおもしろいなどはっきり言い表せなくても、そのしっくりくるという「感覚」を大事にしてください。

 

習慣化が肝であるメンタルケアにおいては、機能性の高さよりも、使っていて気分が良いことのほうが重要です。

 

常にアップデートする

ここでいうアップデートはシステム的なものではなく(もちろんそれも大切です)、常に「自分とアプリとの相性」をチェックしておくことを意味します。

 

先ほどご紹介したMEISOONが良い例で、私の場合、当初はとても相性が良く使い込んでいたのですが、だんだん物足りなさを感じていきました。

 

同時に瞑想以外にも何かできないかと思い始めていたので、改めてアプリを探していたところmuuteに出会いました。

 

メンタルケアのレベルや方向性は変わっていくものなので、その都度、相性のいいアプリを探すように意識しておくと、自分に合ったアプリに出会える確率もアップします。

 

 

アプリを上手に活用して心をケアしよう♪

 

メンタル系アプリは、自分の心と向き合うきっかけを作ってくれ、さらにその習慣化を助けてくれる素晴らしいツールです。

 

心身ともに健康にストレス社会を生き抜くためにも、文明の利器を上手に活用してみてくださいね!

大人になってから友達を作るのは大変?でも大人になったから築ける友情もある

 

大人になると学生の頃からは180°変わるもの。

 

その一つに”友達”の存在があると思います。

 

どれだけ仲が良かった人も、それぞれの道を歩むうちにいつの間にか疎遠になっていたり、逆に苦手なタイプと思っていた人と急激に仲が深まったり…

 

今回は大人になって感じた、”友達”という存在に対する捉え方の変化をシェアしたいと思います。

 

 

おすすめ記事 ▶ 親しい友人関係における「開かれた、思いやりのある衝突」のすすめ

 

 

大人になると”友達を作る”の難しすぎる問題

 

私は学生の頃から友達はあまり多くなく、狭く深い人間関係に心地よさを感じるタイプでした。

 

しかも、自ら外に出て新しい交友を築くのではなく、自分のもとに舞い込んできてくれた縁を大事に育てていきたいタイプ。

 

そんな人間が大人になると、どうなるか……

 

あるときから、友達がぱったりできなくなりました。

 

社会に出て数年は、それを実感する機会はさほどありませんでした。

 

 

“学生時代から狭く深い関係を好み、新しい出会いを自ら求めなかった私は、大人になるにつれ環境の変化や友人たちの転居・結婚などで、気軽に誘える友人がいなくなった現実に直面した。”

 

 

 

Uターン就職で地元に帰ったことで昔の友達もいたし、会社は会社で同期が150人もいたので、研修などで顔を合わせるうちにすぐに何人か気の合う友達ができたからです。

 

ただ、しばらくすると地元の友達は結婚などで、同期も異動や転職などで県外に出ていってしまう、そんなことがちらほら起こりはじめました。

 

ふらっと誘える友達が、急に減っていったんです。

 

それでもまだ「まあそのうち新しい縁がどこかから舞い込んでくるだろう」と呑気に構えていたのですが、自分自身も異動や転職をするうちに、とうとう現実に直面にします。

 

新しい縁が、舞い込んでこない…。

 

異動先や転職先がそもそも同世代の少ない職場だったり、会社の飲み会もコロナ禍以降は必要最低限みたいな雰囲気だったり…(会社の飲み会って面倒なことも多いけど、実は受け身人間にとっては唯一縁を取り込むきっかけだったりするんですよね)

 

受け身でいても勝手に縁が舞い込む、そんなことが通用しなくなっていたのです。

 

かといって、腹を括り新しい交友を求めて自ら外に出ても、なかなか上手くいかないもの。

 

まず、どうやったら新しい人と出会えるのかが分からないんです。

 

よく趣味や習いごとを始めたり、行きつけの飲み屋をつくれば人と出会えるなんて言いますが、それはそれでいろいろ考えてしまうタイプの私は、一歩も動けなくなるんです。

 

何の趣味や習いごとをすればいいのか、行きつけにするなら美味しいお店がいいし、なおかつ通えるくらいの予算感であってほしいし、何だかんだマスターとの相性も大事だし…

 

そうやって足踏みしまくった挙句、変な一歩を踏み出して結局誰とも出会えなかったりと、完全に迷走していました。

 

 

大人になって友達を作るのは諦めたほうがいい

 

そんな迷走期をしばらく経ると、途端に何もかもが面倒くさくなる瞬間が訪れました。

 

友達を作るのを諦めた、”開き直りフェーズ”です。

 

一人の時間は大好きなんだから無理して友達を作る必要もないし、どうせ死ぬときには一人なんだし、なんて言い聞かせるように好きなことに没頭。

 

推しのライブに時間とお金を費やしたり、こうしてエッセイのような文章をポツポツnoteにしたためたりしていました。

 

すると不思議なことに、それぞれの領域でいつの間にか”友達”ができていたんです。

 

 

“友達づくりを諦めて一人の時間を楽しむようになった私は、好きな活動に没頭するうちに自然と共通の趣味を持つ仲間と出会い、無理せず心地よい人間関係を築けるようになった。”

 

 

 

推し活で出会ったファンの方が声を掛けてくれて、何度かライブ後にご飯に行くようになり、一緒に泊まりがけで遠征(遠方のライブやイベントに参加すること)までしたり。

 

推しのライブの感想をひたすらぶちまけたnoteには、また別のファンの方たちが反応してくれて、ちょこちょこSNSで交流することもあります。

 

noteではライターさんとも交流も増えました。

 

なかでも特に、直感でもっと仲良くなれそうと感じた方には、私から実際にお会いしたいと声を掛けたりもしました。

 

内向的な人間なはずなのに、自分でも驚きの行動です。

 

実際、当日はとてもドキドキしましたが、いざ会ってみると直感通り。初対面なのにとても居心地がよくて会話が弾み、その後も相手からお誘いがあったりと定期的に交流が続いています。

 

無理やり奮い立たせて友達を作ろうとしてもダメだったのに、開き直った途端、急に自然な流れで友達ができるようになったんです。

 

大人になると”気の合う友達”の幅が広がる

 

もちろん、こういう機会がたくさんあるわけではありません。

 

ただこうした流れでできる友達って、なんというか、相性の精度がとても高い気がします。

 

出会ってそんなに月日が経っていなくても、会話のテンポが気持ちよくハマったり、泊まりで旅行までできたり、お店選びのポイントが似ていたり。

 

そういうのって、長く付き合うからこそ構築されるものだと思っていました。

 

学生の頃は無意識に「過ごした時間が長いほど仲良くなる」という感覚が、根底にあった気がします。

 

長く時間を共にすることでお互いをよく知り、好みや考え方のすり合わせもできるから、親友と思えるほどの仲になる。

 

でも逆に、クラス替えや進学、あるいはもっと他愛もない要因で一緒にいない時間が続くと、仲が悪くなったわけではないのになんとなく疎遠になる。

 

学生の頃は、そんなことが自分も周りでもよく起こっていました。

 

皆さんもそういう経験ありませんか?

 

当然それでも、れっきとした友達だったとは思うのですが、大人の友情は必ずしもそういうことでは成り立たない。

 

仕事に家庭にそれぞれの人生があり、べったり一緒にいることなんてできませんもんね。

 

では、一緒に過ごした時間の長さではないとしたら、仲のいい友達になれる要素はどこにあるのか。

 

 

個人的にはどれだけ「コイツ、おもろいな」と思えるか、これに帰結するのではないかと感じています。

 

分かりやすいのは、考え方や嗜好が近いことでしょう。

 

実際私も、推し活やライターなど好きなことを通して友達ができています。

 

好きなものやマインドの傾向を同じくして集まった人とは、たとえバックグラウンドがバラバラでも結構すぐに仲良くなれる。

 

今となっては、趣味や習いごとで友達を作ることの真意も、ここにあったんだなと腑に落ちます。

 

一方で、大して価値観が近くなくても仲良くなれるケースも多々あります。

 

よく驚かれるのですが、私は未だに小学校の同級生何人かと結構な頻度で交流があります。

 

幼馴染というほど濃い関係ではなく、卒業来連絡を取っていなかった人、しかも小学生当時すらほとんど交流がなく顔見知り程度だった人も多いです。

 

にもかかわらず、ひょんなことから十年越しに再会し、今では朝まで飲む仲になっています。

 

そのメンバーの性格は本当にさまざまです。

 

 

 

“小学校時代の同級生と再会し多様な価値観を持つ仲間と心地よい関係を築く中で、私は「似ている」ことよりも「人として面白い」と感じる直感こそが大人の友情を育む鍵だと実感している。”

 

 

 

大学も業種も当然バラバラ、大切にしたいこと、好きなことも違うし、私と似てちょっと閉鎖的な人もいれば、軽やかでオープンな人もいます。

 

共感しあって盛り上がることもあれば、興味のない話はお互い適当にあしらうこともある。

 

それでも険悪にはならないし、だいたいはくだらないことでゲラゲラ笑っていて、妙に居心地のよいメンバーなのです。

 

共通点はただ同じ小学校に通っていたというだけで、再会までの約十年は全く違う道でバラバラの価値観を形成してきたはずのなのに。

 

それでも自然とわらわら定期的に集まるのは、お互いどこかしらに”人としての面白さ”を感じていたり、違う中にも一瞬見える”同じ匂い”を感じ取っているからなのかもしれません。

 

そしてこの感覚こそ、大人になるうちに体得したものだと思うんです。

 

歳を重ねるごとに自分の常識はどんどんぶち壊され、どんどん知らなかった世界を知り、たくさんの人や価値観にも出会います。

 

いろんな人がいるという数の話だけではなく、一個人のなかにすら、様々な経験や価値観が複雑に絡み合っているという深さも分かってくるようになる。

 

それまで自分が持っていた”人間データベース”に膨大なデータが流れ込んできて、急速にアップデートされていく感じ。

 

その中で、価値観が近かろうが正反対だろうが人として面白さを感じることはあるし、そう感じた時点で良い友達になれる確率は結構高いということを、身をもって学んできたのではないか。

 

そういうことを最近しみじみ感じるのです。

 

 

友情にも”メンテナンス”が必要

 

友達という存在について、もう一つ最後に書いておきたいことがあります。

 

それは旧い友達と久々にお茶をしていたときに、その友達から飛び出したことばです。

 

「友達も、メンテナンスが大事やんな」

 

メンテナンスというと事務的で無機質に聞こえるかもしれませんし、私も一瞬「めっちゃ機械みたいに言うやん…」と思いました。

 

意図としては、どれだけ仲の良い人も定期的に会ったり話したりしないと、関係は意外と簡単に崩れてしまうと言いたかったそう。

 

 

“どれほど気の合う友人でも放っておけば関係は自然と薄れるため、大切な縁を保つには意識的に会い、つながりを点検する“メンテナンス”が必要だと私は気づいた。”

 

 

 

私も一瞬はたじろぎつつも、すぐにそれを直感的に理解しました。

 

親友だと思っていた学生の頃の友達も、今となってはどこで何をしているのかも知らない、そんなことが私自身ちらほらあるからです。

 

卒業してからも連絡を取ろうと思えば取れたし、実際ご飯にも何度かは行ったけど、その後はお互い特にアクションを起こさなかった。

 

大人になると、仕事に家庭にそれぞれまったく違う人生を歩むからこそ、意識してつながろうとしないとはぐれてしまうのは考えてみれば当然ですよね。

 

だからこそ、いつまでも縁の糸をつないでいたい相手はちゃんと定期的に会う

 

糸が切れかけていないか、変にねじれて絡まっていないか、点検するメンテナンスが必要なんだと思います。

 

近況報告をして、新しい刺激を与えあって、いろんな困難を乗り越えてきたことを称えあって、くだらないことで笑い飛ばすことで、その糸はまた頑丈になっていく。

 

期間が空いても、会うとすぐいつも通りに戻れる友達って、このメンテナンスがきちんとできている証拠だと思うんです。

 

そう気づいてからは、私も会いたい人やもっと仲良くなりたいと思った人には、自ら声を掛けるよう意識しています。

 

誘うのって正直勇気がいるけれど、逆の立場だったら声を掛けてくれただけで嬉しいものですからね。

 

たとえ断られて、その後の音沙汰がなかったとしても「あら、片想いだったか~」とか「今は違ったかな」で済ませればいいのです。それも縁だから。

 

お互い縁をつなぎたいと思ったら、またいつかどこかでつながる。

 

それくらいゆるく長い目で捉えるようになったのも、大人になってからの変化かもしれません。

 

大人になったからこそ築ける友情を大切に育む

 

大人になるとどれだけ一緒にいるかではなく、その友情が続いていること自体が心の支えになるし、人生を豊かにしてくれる。

 

最近しみじみそう感じることが多く「やっぱり私は狭く深くの人間関係を大事にしたい」と一周回って腑に落ちています。

 

会いたいから会う、知りたいから話す、そういうシンプルな理由で素直に動いていれば、自分の人生で本当に大事にすべき友達はちゃんとずっとそばに居てくれるのではないでしょうか。

 

子どもとのふたり旅 。24時間以上一緒に過ごすことで見えてくる一面【Editor’s Letter vol.11】

 

2024年度は、長女とバージニア州、次女とシアトル、三女とはサンディエゴへ、それぞれ「ふたり旅」に出かけました。

 

毎年恒例となったそれぞれの娘たちとのふたり旅。一対一の時間を過ごす中で、子どもたちの新たな一面を知り、親子の絆が深まる瞬間がたくさんあります。

 

今回は、ふたり旅を始めたきっかけや、旅を通じて気づいたことをお伝えしたいと思います。

 

 

おすすめ記事 ▶ まずは自分を大切に。子育てには”Boundary(境界線)”が必要?! 【Editor’s Letter vol.09】

 

 

きっかけは「ママは私のことを何もわかっていない」というひと言

 

私が子どもとふたり旅を始めたきっかけは、次女のひと言でした。

 

「ママは私のことを何もわかってない」
「ママと二人きりの時間が欲しい」

 

三女が生まれてしばらくした頃、次女はそんなふうに言いました。きっと妹が生まれたことで、ママを取られたような寂しさを感じていたのでしょう。

 

子どもが複数いると、常に一人ひとりと向き合うことは難しいのが現実。もっと娘たちの気持ちや思いを知りたいと思い、子どもたちそれぞれとふたりきりの旅に出ることを決めました。

 

スマホと距離をとり、旅行中は子どものやりたいことをやる

 

行き先は子どもの興味に合わせて事前にいくつかピックアップして、最終的には子どもと一緒に決定します。

 

たとえば、去年は長女と独立戦争にゆかりのあるバージニア州にあるウィリアムズバーグへ訪れました。彼女がアメリカの独立戦争に興味を持っていたからです。

 

 

“母子ふたり旅では、子どもの興味を最優先に行き先を決め、スマホ使用を最小限に抑えることで、穏やかで充実した時間を共に過ごしている。”

 

 

旅の最中で意識しているのは、基本的には子どもの「やりたいこと」を優先すること。そして、スマホを見る時間を必要最低限にすることです。

 

もちろん事前の下調べはある程度行います。たとえば、美術館のチケットを取ったり、プールのスケジュールを確認したり、レストランを予約しておいたり。現地では、地図やUberを使うとき以外はなるべくスマホを見ないようにし、地図を見るときも子どもと一緒に画面を確認するようにしています。

 

普段私がイライラしてしまう原因のほとんどは姉妹喧嘩ですが、母子ふたり旅では姉妹喧嘩は起こりません。そのため、私自身も穏やかな気持ちで子どもと向き合えます。

 

 

2人だけで24時間以上過ごすからこそ見えてくることがある

 

日常の合間に子どもと二人でご飯を食べに行ったり、買い物をしたりするのも、もちろんかけがえのない時間です。でも、24時間以上一緒に過ごすことで、普段とは違う一面にたくさん気づけるのです。

 

たとえば、次女は普段、ダラダラ遊んで後回しにして歯磨きやシャワーにとても時間がかかるタイプです。ところが、ふたり旅の間は、自分でさっさと準備を進めて、私の支度が終わるのを待ちながら一人で持っていった少量の小さなお人形やホテルにあるノートに絵を描いて遊んでいました。

 

また、いつもは甘えん坊で私にくっついていることが多いのに、旅先では少し自立しているように感じ会話もたくさん楽しみました。普段は、お姉ちゃんと妹に囲まれているので「もっと私を見てほしい」という気持ちが行動に表れて逆にウニャウニャしていたのかもしれません。

 

 

“母子ふたり旅を通して、筆者は子どもの新たな一面や成長に気づき、普段のレッテルや思い込みを見直しながら、それぞれの子に合った関わり方を学んでいる。”

 

 

そしてそんな彼女の成長をみて「〇〇ちゃんは準備が遅くて甘えん坊な性格」。そんなふうに無意識にレッテルを貼っていた自分にハッとしました。

 

旅先で夜寝る前に、次女に「旅行の時は支度が早くさっさとできるけれど、家だとどうして時間がかかるの?」と聞いてみました。すると、「家だと、いろんなものが目に入ったり、音や皆んなの声が聞こえたりして、集中できないんだよね」と返ってきたのです。あー、やりたくないからダラダラしてしまうのではなくて、周りに気が散ってしまうのか。

 

家族で暮らしているので生活音を減らすのはなかなか難しいけれど、歯磨きをする場所を変えてみたり、先に始めるよう促してみたり、小さな工夫で改善できることがあると感じました。

 

一番下の娘とは、彼女が4歳のときにパームスプリングスへ行きました。ホテルのプールをメインに、ゆったりと過ごす旅です。

 

プールでしばらく遊んでいると、三女が「もう部屋に帰りたい」と言い出しました。部屋に戻ってからは、お絵描きをしたり、のんびりおやつを食べたりして過ごします。そして1時間ほど休むと、「またプールに行こう!」と元気いっぱいに誘ってくれるのです。

 

 

この旅を通じて気づいたのは、三女は周りの音や情報に疲れやすく、時折休憩を挟むことで自分をリセットできるということ。だから、家族全員での旅行では皆んなのペースに合わせないといけない場面も多く、彼女の限界を越えてしまう場合に泣いたり駄々をこねたり、わざわざ喧嘩を姉妹にふっかけたりしていたのか。これもふたり旅をしたからこそ気がつけたことです。

 

また、長女とのふたり旅では、「ママはここに行ってみたいな」「これをやってみない?」と、私自身が長女に提案する場面が多いことに気がつきました。長女はあまりこだわりがなく、ママと一緒にいられればそれでいいタイプの子でこれやりたい、あれやりたいと願望が強くありません。日頃から自分の意思を言葉にすることの大切さを話していますが、「ママ、私がどっちでもいいよ、っていつもいう時はね、本当にどっちでもいいってこだわりがないからなんだよ。」と言われました。それでも、普段上手に甘えられないお姉ちゃんにとってママを独り占めできて、また、彼女にとって興味のあることがたくさん知れてかけがえのない時間です。

 

本当に困った時に頼ってもらえる、親子の絆を育むために

 

私にとって娘たちとのふたり旅は、日常ではなかなか気づけない子どもの一面を知る貴重な機会であり、今からきちんと信頼関係を築いておきたいと願う私の「将来への貯金」です。

 

子どもたちが大きくなって手が離れてきた時でも、本当に困ったときには真っ先に相談してほしいし、ひとりで苦しまないでほしい。そんな願いを込めて、年に一回ふたり旅に行き、娘たち一人ひとりと向き合う時間を大切にしています。親にしっかりと向き合ってもらった記憶は、成長していく中でその子の自信や心の支えになると信じているからです。

親子でも、パートナーでも、友達でも、きちんと向き合い、時間を共に過ごさなければ、気づかないうちに心の距離が離れてしまうものです。人との絆を育むためには、心を通わせる努力が必要です。これからも大切な人とじっくり向き合う時間を積み重ねていきたいと思います。

運動嫌いの私が「運動はメンタルにいい」を少しずつ信じはじめた話

 

突然ですが、皆さんは体を動かすことは好きですか?

 

“適度な運動習慣”、ついてますか?

 

運動はしたほうがいい、それはおそらく誰もが同意することでしょう。

 

 

運動したほうがいいなんて、百も承知

 

かく言う私は、圧倒的インドア派。できるだけ外に出たくないし、体も動かしたくない派です。

一方、世の中では一時期こんな言葉まで流行りました。

 

「筋肉は裏切らない」

 

なんてキャッチーでインパクトのある言葉なのでしょう。

“裏切らない”の解釈にはいろいろありますが、個人的に私がよく目にする文脈は「メンタルを強くしたいなら、運動をしろ」、そういった類のものです。

 

 

 

“運動嫌いの私はコロナ禍で抑うつ状態を経験し、医師から勧められた「外に出て体を動かすこと」の大切さを、後になって実感するようになった。”

 

近年、うつ病とかメンタルに関する注目が高まっているからか、皆さんも一度はそんなニュアンスの話を聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

特にコロナ禍をきっかけに、運動は精神衛生を保つ上でも重要という意識は、急速に広まったように感じます。

 

私自身、すぐ考え事がぐるぐる頭をめぐるメンタル弱めなタイプで、まさにコロナ禍真っ最中に抑うつ状態に陥った経験があります。

 

そんなとき、心療内科の先生に言われたことがあります。

「少しずつでいいので、外に出て歩いたり運動してみてください」と。

 

そして心の中でこう思いました。

「そんな気力があったら、そもそもこんな状態になってない」と。

 

それからしばらく月日が経ち、うつっぽさからもなんだかんだ抜け出せたころ、今度は友達との何気ない会話で「やっぱり考え事が止まらない」という話になりました。

 

その友達は私の気持ちを汲んではくれつつも、同じタイプではないからか、

最終的にはなぜか「まあもっと体動かしてみたら?運動すれば考え事とか飛んでくよ」と言ってきたんです。

 

そして心の中でこう思いました。

「え…?なんでそこに着地するわけ?そういう話じゃなくない?」と。

 

そしてまたある日、別の友達とデスクワークで体がガチガチ、なんだかやる気もでないという話になりました。

その友達も同じくらいデスクワークで体がガチガチだったのですが、私のような運動嫌いではありませんでした。

 

もう皆さんお分かりですよね。

 

そう、「ガタがきはじめたのかな~」なんて笑い飛ばされるはずだった他愛もない雑談は、

「あんたはもっと運動しな」という、友達の口から放たれた鋭い言葉でバッサリいかれたのです。

 

そして私は、心の中で思いっきり毒づきました。

 

「もー!どいつもこいつも、運動運動うるさ~い!」と。

 

 

 

 

運動に絡めて話を終えなきゃいけないゲームでもしているのかと疑うくらい、みんな口を揃えて運動しろと言ってくる気がして、ほとほと嫌気がさしていたんです。

 

運動したほうがいいなんて、百も承知。

 

でもメンタルが落ちているからそもそも動く気にもなれないし、考えすぎの根本的な解決策が運動なわけないし、

凝りまくった体ではちょっとしたストレッチでもすぐ疲れるし、何より続かない自分にまたメンタルが下がるし…。

 

と、今思えば、壮大な負のスパイラルに陥っていたのかもしれません。

 

「筋肉は裏切らない」とまではいかずとも…

 

それがおかしなことに、運動嫌いだったはずの私が、どうやら最近少し「そっち側」に近づいている気がするのです。

体を動かすと本当にメンタルも上向くのかもしれない、と身をもって実感しはじめているのです。

 

すべてのはじまりは”自転車通勤”

 

一番のきっかけは、転職して自転車通勤になったことでした。

 

新しい職場は、電車で通うにも歩くにも中途半端な場所にあり、一番理にかなった通勤方法が自転車だったのです。

ただそれだけなのですが、今思えばこれが大きなターニングポイントでした。

 

 

“転職を機に始めた自転車通勤がきっかけで、運動嫌いだった私は体を動かす心地よさとメンタルの安定を実感し、自然と運動への意欲が高まっていった。”

 

会社までは自転車で約20分という、これも運動不足な人間にはちょうどいい距離で、ほんのり汗ばむけれど疲れ切って仕事にならないというほどではない。

 

だからこそ、深く考えることもなく毎日淡々と続けられました。

 

あえて意識するというわけではありませんでしたが、心のどこかで「今の私は、日々最低限体を動かしている」という達成感というか充足感というか…そんなものを毎日感じていた気がします。

 

しかもちょうど川沿いを走る経路だったので、開けた景色を眺めながら、微妙に変化する木々や川の香りも感じて、毎日気分がリフレッシュされていました。

 

そのおかげか、それまではおぼろ豆腐のようにすぐ崩れていたメンタルも、木綿豆腐くらいにはなってきた気がするのです。

 

自転車通勤が板につきペダルを漕ぐ足も軽やかになってくると、だんだんこの運動量では物足りなくなってきました。

しかもメンタルが少し上向いているからか「何かもうちょっと運動できる気がする!」と、なんとYouTube動画を活用して自宅で運動する、いわゆる「宅トレ」まではじめたのです。

 

帰宅後、仕事着を脱ぎ捨てながら動画を選び、そのまま15~20分程度汗をかく。

そんな日々の達成感は自転車通勤の比ではありません。

 

毎晩「ふ~~今日も動いた動いた~!」と満足感と心地よい疲れを感じながら、布団に潜り込む気持ちよさを初めて知った気がします。

 

 

 

 

じわじわ実感する“運動とメンタル”の関係

 

少しずつ運動が習慣化しつつも、まだベースには運動嫌いが残っているので、よく怠けたくなるのも事実。

ましてや仕事でモヤモヤした日や疲れて元気がない日は、余計運動なんてする気分になれません。

 

とはいえ、人生初というくらい続きはじめた運動習慣を途絶えさせるのも癪なので、しぶしぶ2分くらいのトレーニング動画を探し出して、とりあえず動いてみます。

 

すると、さっきまでのどんよりした気持ちはどこへやら。ささくれ立っていた気持ちがだんだん和らいでいくんです。

「何をそんなむくれてたんだ?」と思いはじめ、さらには「もうどうでもいいや、それよりもっと汗かきたい!」と、前向きな気持ちすら湧いてそのままトレーニング続行。

 

「運動しろ」と言われるたびに突っかかっていた人間が、奇跡みたいな話です。

 

 

“運動嫌いながらも続けるうちに、私は気分が落ち込んだときこそ少し体を動かすことで心が軽くなると実感し、運動を心のリセット法として取り入れるようになった。”

 

 

こういう経験を何度かして以来、心がくすぶったときは、とりあえず一旦体を動かすようにしています。

仕事中、何かイライラすることがあったときや、周りと比較して自己嫌悪に陥ったとき、ふと漠然とした不安を感じたとき。

 

黒いものに自分が飲み込まれかけていると気づいたら、とりあえず一旦立ち上がってみます。

実は、そのまま身を任せて闇に飲まれるほうが楽なんだけど、ちょっとだけ踏ん張ってとどまる。

 

それはウォーキングやストレッチなどTHE運動でなくても、トイレに行くとか、ベランダへ出て外を眺めるとか、やり残した食器洗いをするとか。

 

動けたらなんでもいいんです。

 

個人的に負のスパイラルに入るときって、ずっと同じ体勢でいたり、同じ景色ばかり見ていたり、”何かが停滞している”ことが多い気がします。

 

動けば体の血が巡りはじめて、連動するように停滞していた気分も軽やかに巡る。
動けば目線や見える景色が変わって、閉じこもりかけていた気分も少し開ける。

 

動くことで問題そのものが解決するわけではありません。

でも”解決へ向かうための気力”は生まれると思うんです。

 

私にとって運動とメンタルの関係はそんな感じで、根本から働きかけてくれるというより、スタート地点に立つのを優しくサポートしてくれる感じです。

 

「筋肉は裏切らない」とまでは未だに思えないものの、動くことでマインドセットも変わるということは、こんなふうにじわじわ実感しはじめています。

 

運動嫌いが運動を習慣化できた理由

 

その後、諸事情で自転車通勤が難しくなったので、最近は通勤を片道ウォーキングで置き換えて運動量をキープしています。

 

意外と体力もついてきたのか、もう少し慣れたら往復徒歩でもいけそうだなとまで思っています。

少し前の私がみたら顎が外れるくらいの運動量なのですが、そもそもなぜ、運動嫌いが急に運動を習慣化できたのか?

 

正直、なんとなく思い付いてはじめて、気づいたら徐々に定着していたというのが本音ではあるのですが…

よーく思い返すと、それらしきポイントが見えてきたのでシェアしてみます。

 

“自分の意思”ではじめたから

 

なんとなくの思い付きとはいえ一つだけ確かなのは、誰かに言われたからでも、心療内科の先生や友達の言葉が蘇ったからでもなく、”自分で”思い至ってスタートを切ったということです。

 

この”自分の意思”ではじめたという事実は、全ての下支えになっている気がします。

 

たぶん、いつもの癖で考え事をしていた際に、たまたま「まあそりゃあ、健康なほうがいいよな」ということから派生して、

「運動は疲れるけど、かといって、このガチガチの体のまま何十年も生きていくのもしんどいよな」なんてことが頭によぎったんだと思います。

 

体を動かしたほうがいいという言葉の真意が、自分のなかでようやく腑に落ちた。
心にまとわりついていた変な鎖や重りがやっと外れた。

 

何年も鉛のように重く沈んでいた腰が、急にぷか~っと水面に浮かんでこれたのは、この”納得感”が肝だと思います。

 

“生活に馴染む運動”しかやらないから

 

私の場合、自転車通勤が最初のステップでしたが、これをより汎用性高く変換すると、今の生活にごく自然に馴染むことだけやる、これに尽きると思います。

 

この”馴染む”というのは、おそらく一般的なイメージよりも徹底したものです。

たとえば、よく自宅や職場に近いジムだと続きやすいと言われますが、私からすればそれはただ「今の生活の近くに”存在している”」だけ。

 

“運動を完璧にこなすよりも「続けようとする姿勢」を大切にし、自分を許しながら前向きに体を動かす習慣を築いている。”

 

 

実際に通うなら月謝制?回数券?それに何曜の何時に行く?その日は家事をいつやる?買い出しは?子どもたちのお迎えは?

 

考えること、変えることだらけです。

 

通勤経路を数歩それるだけで済む話ではなく、今の生活の流れを変えるという大きな壁がそこにあることに気づくはずです。

 

その点、自転車通勤や片道ウォーキングは、何ら生活を変える必要がありません

自転車、徒歩、電車、タクシー、どんな手段であれ家には帰る、それならできる範囲で運動に置き換えてみる。

 

もちろん、完全リモートの人や仕事をしていない人でも置き換えはできます。

メールチェックだけは必ず立ってやるとか、考え事系のタスクはストレッチしながらやるとか。

 

スクワットのように少し腰を下げて掃除するとか、肩まで大きく使ってテーブルを拭くとか、すでに今の生活には運動にできるポイントがたくさん転がっているんです。

 

運動嫌いだからこそ、これくらい徹底的にハードルを下げないと続きません。

 

 

 

 

“トータルで考える”ようにしているから

最後のポイントは「続けかた」に関することです

実は、先ほど得意げに紹介した宅トレ最近かなりサボり気味なんです…。

でも、いいんです。その分、ウォーキングでしっかり動いているから。

ただ、そのウォーキングもサボって、普通に毎日電車で帰り続けた週もありました…。

でも、いいんです。その翌週からまた再開したから。

 

 

“運動を完璧に続けようとせず、長い目で見て「動き続けていればいい」と柔軟に捉えることで、自分を責めず前向きに運動を楽しめるようになった。”

 

 

 

最近、運動に関する私のマインドは基本こんな感じです。

どの運動をしたかではなく1日でどのくらい動いたか、毎日ではなく月や年単位で見て続いているか。

 

なるべく大きく捉えて、トータルで考える。

 

これくらいどっしり構えるようにしてから、少々サボる日が続いても必要以上に自分を責めることが減りました。

むしろ「いつもよく頑張ってるんだから」と、自分を労わってあげられるようになったかもしれません。

 

あと宅トレに関しては「通勤に比べたら生活に馴染まないから、当然と言えば当然だ!」なんて開き直ってみたり…

やっぱり運動はメンタルを強くしてくれるみたいです。

 

気が向いたら動けばいい

 

そうは言っても、まだまだメンタルが沈むことは当然あるし、気を抜くとすぐに「動かないほう」へ逃げてしまいます。

動けば心も軽くなると身をもって経験したのに、どうしてもうずくまってしまうことはある。

でも、そんな自分を責めず、また動きたくなったら動けばいい。

 

何にせよ大切なのは自分の気持ちということです。

元々運動嫌いなんですから、気が向いて小さなハードルを1つ飛び越えただけで表彰もの。

それくらい図々しくていいと思います。

 

私も気が向くまで、徒歩通勤を往復にしたり宅トレを再開したりもしません!笑

お互い焦らずゆっくり心身の健康を育みましょう。

「過去の記憶と向き合う:映画『You Were My First Boyfriend』が教えてくれたこと」

 

 

「痩せればもっと可愛くなれる。  

もっとおしゃれをすればみんなに好かれる。  

メイクを覚えれば男の子にモテる」  

 

こんな言葉に囲まれながら、私の自分の価値観は形作られていきました。金髪の綺麗なティーンエイジャーがたくさんいる学校で育った私にとって、自分のアジア人としてのアイデンティティは、自己肯定感を低くしていました。だからこそ、ドキュメンタリー映画『You Were My First Boyfriend』に深く共感しました。  

 

この映画は、監督セシリア・アルダロンゴが、主に白人の人々が住むフロリダで成長した経験を描いています。プエルトリコ系である彼女の文化や外見は、同級生からいじめの対象になりました。アルダロンゴは、いじめの理由を映画の中ではっきり語っていませんが、彼女が再現したトラウマ的な体験から、その孤立の原因が彼女の外見にあったことが伝わってきます。  

 

映画の中で、彼女は自分の10代の頃の写真を見せます。それが私自身を思い出させて胸を締め付けられるようでした。私もぽっちゃりしていて、黒い髪と小さな茶色い目をしていました。その隣には、輝くようなハチミツ色の金髪、鮮やかな青い目、スリムな体型の女の子たちが写っていました。彼女たちと比べることで、自分がどう見られているか、自分のことをどう感じているかが影響を受けていたことが、今ではよくわかります。

 

 

“彼女の物語は、10代の頃に他人と自分を比べて抱いていた劣等感が、実は周囲の誰もがそれぞれに不安を抱えていたことに気づかせてくれる、自己イメージの誤解とすれ違いを描いている。”

 

 

映画の中には、セシリアがトリ・エイモスのミュージックビデオを再現しながら、姉妹と共有する心のこもった瞬間があります。  

 

「いつも痩せてたのはあなただった」と、セシリアは痛みを含んだ声で言います。すると姉妹は涙ながらにこう返します。「でも、あなたの隣にいると私は普通に見えたのよ」  

 

このやり取りは、若い時の自分の見え方を見事に捉えています。10代の頃は、自分の見た目や好きな人が自分に気づいてくれるかどうかにばかり心を奪われていました。他の人も、同じように自信がなかったなんて考えもしませんでした。友達が自分より早く大人びていき、男の子たちに注目されているのを見て、いつも自分と比べていました。でも、今振り返ると、彼女たちもまた隠された不安を抱え、私を「地味な女の子」とは見ていなかったのかもしれません。  

 

 

私はいじめられたことがなく、親切な友達に恵まれていたことに感謝しています。それでも、この映画は、不安や辛い記憶がどれほど長く私たちの心に残るかを思い出させてくれます。  

 

映画はセシリアが高校の同窓会に出席する場面から始まります。会場に到着した彼女の緊張感がスクリーン越しにも伝わってきます。大勢の中を歩きながら、彼女は同級生たちから受けたひどい扱いについて語ります。しかし、その同級生たちはと言えば、そんな記憶はないと笑って答えています。彼女には、その瞬間が昨日のことのように鮮明に残っているのに、です。  

 

映画を通して彼女は問い続けます。なぜこれほどまでに過去の記憶が残っているのか?なぜこの痛みにとらわれてしまうのか?  

 

言葉の重みや感情の影響力を考えさせられる興味深いテーマです。私もまた、10代の頃に刻まれた記憶が残っています。サマーキャンプでドッジボールをしていたとき、ある男の子が「デブ」と叫びました。彼の顔も声も覚えていませんが、その時の恥ずかしさ、そして傷ついた感情は今でもはっきり覚えています。言葉はその場限りではなく、それが引き起こす感情によって永遠に心に残ることがあります。  

 

 

“親切な友人に恵まれていても、10代に刻まれた何気ない言葉や出来事の痛みは大人になっても鮮明に残り続けるのだと、この映画は改めて気づかせてくれる。”

 

 

映画には、学校のキャンプでのシーンを再現する場面があります。セシリアは、キャンプ場で寝ている同級生がいじめられているのを見ながら、何もできずにいたことを思い出します。そのとき、自分ではなくてよかったと安心さえ感じたといいます。  撮影の場面では、いじめを受けたクラスメートがその場に立ち会い、再現される場面を目の当たりにしています。この手法には深い意図と配慮が感じられます。なぜなら、いじめを受けた本人を抜きにして、その物語を完全に伝えることはできないからです。

 

その人にとっては、この体験がどれほど辛いものかが伝わってきます。カメラに向かって「もう自分を知っているから、この経験は必要ないと思っていた」と告白します。でも、モニターを見つめ、涙を流しながら彼女はセシリアにそっとささやきます。「これが必要だったんだ」

 

私たちは、今の自分を形作った過去の瞬間にタイムスリップしてもう一度体験することはできません。でも、もしそれができるとしたら、私もそうしたいです。年を重ねると、自分の若い頃に対してもっと優しく、共感できるようになります。どんなに辛い経験も、私たちを強く、賢くし、より良い人間へと成長させてくれるのだと学びます。  

 

映画の最後、セシリアの高校時代の親友キャロラインの死が明らかになります。キャロラインは、他人がどう思おうと気にせず、自分のユニークさにプライドを持っていた、勇敢な人物だったとセシリアは語ります。それこそが、セシリアが彼女から距離を置いた理由だったのかもしれません。キャロラインの強さは、セシリア自身の「受け入れられたい」という欲求と対照的でした。

 

 

10代の友情はもろく、未熟さや不安で満ちています。セシリアはその当時、自分をそのまま愛し、受け入れてくれる人がそばにいたことに気づいていませんでした。でも、気づいたときにはもう遅すぎたのです。最も勇敢で恐れを知らない人でも、時に心が折れることがあるのです。  

 

セシリアは映画を通して、彼女との思い出を再現し、キャロラインを讃えます。この追悼は、温かくも切ないものです。それは、無条件の友情の美しさと、その友情を失う痛みを思い出させます。  

 

この映画を見て、自分の子供時代から大人になるまでの違和感や不安、そして周囲に溶け込みたいという思いが蘇りました。この経験は決して私だけのものではなく多くの人が体験するもの。だからこの物語は重要なのです。私たちが陥りやすい感情の原因を明らかにし、傷ついた人々を癒し、私たちを成長させ、平和を見出す希望を与えてくれるからです。  

 

キャロラインがいなくなったことで、セシリアは友人の存在がどれほど自分の過去を明るくしていたのかを知ります。キャロラインからの本物の友情のおかげでセシリアはあの時代を耐えることができたのです。憎しみは鋭く冷たい孤独の記憶を残しますが、愛は過去の記憶に色彩と温かさを加えてくれます。  

 

私たちに与えられた時間は限られています。本当に自分を理解し、受け入れてくれる人々を大切にしましょう。そのつながりこそが人生に意味を与えるものだからです。気づくのが遅かった後悔する前に、その人たちをしっかりと抱きしめましょう。

 

オフィシャルサイト:https://www.hbo.com/movies/you-were-my-first-boyfriend

  

 

 

「助産師たちの夜が明ける」レビュー

 

子どもを持つことに常に迷いを感じてきた私にとって、出産は大きな恐怖でした。痛みだけでなく、体への影響や、出産中に感じるかもしれない深い孤独感がとても不安でした。その苦しみを乗り越えることが、とても困難に感じました。

 

最近、フランス映画『助産師たちの夜が明ける』(原題『Sages-femmes』)を観ました。この映画は、現実的で過酷な状況に直面する複数の架空のキャラクターを描いています。物語は、フランスの公立病院の産科病棟で、ソフィアとルイーズという新任の助産師2人が初日を迎えるところから始まります。アメリカでは、助産師は個別に雇われ、出産時に立ち会うことが一般的なので、病院内で助産師が出産の最初から最後までをサポートしてくれるという考え方に、とても驚きました。そしてそれがいかに重要で、大きな支えになるかも実感しました。

 

この2人の主人公は、新人である看助産師の典型的な姿を象徴しています。ソフィアは試験ではいつも優秀な成績を収め、失敗を恐れる優等生で、一方のルイーズは内気で控えめ、発言するのに躊躇するタイプ。映画では彼女たちがどれくらいの期間、友達だったかはわかりませんが、ソフィアが初日にルイーズを励ますシーンで、お互いが支え合う友好的な関係がよく表れています。

 

 

“出産への恐怖を抱えてきた私が観た映画『助産師たちの夜が明ける』は、新人助産師たちの奮闘を通して、病院での寄り添いと支えの大切さを改めて感じさせてくれる作品だった。”

 

 

しかし、ソフィアが手伝った出産で、赤ちゃんが危うく命を落としそうになる事件をきっかけに、彼女たちの友情は大きな試練に直面します。冒頭から、看護師や医師などの病院スタッフ全員が手一杯で、患者一人ひとりに十分な注意を払うことができないことが明らかです。病棟は混乱し、助けを求める叫び声が飛び交います。そんな中、ソフィアは異常な痛みを訴える母親の対応にあたりますが、生命に関わる兆候は正常に見えたため、状況を監視しつつ別の患者にも対応しようとします。ところが、赤ちゃんは心拍がない状態で生まれ、蘇生には4分かかり、その結果、赤ちゃんは脳に損傷を負ってしまいます。

 

このトラウマ的な経験によって、ソフィアはPTSDを発症し、深いうつ状態に陥りますが、彼女は自分がうつであることを認めようとしません。一方で、かつて自信のなかったルイーズは成長を見せ、そのことが2人の間に緊張を生み、友情を引き裂くことになります。

 

 

この状況ではソフィアを責めることはできません。成功が目標となる環境で育ったソフィアにとって、ほんの小さな失敗でさえ、心を打ち砕くような衝撃を受けるものです。感動的なシーンで、ソフィアは主任医師のオフィスに呼ばれ、もしかしたら出産の現場は彼女に向いていないかもしれないと言われます。医師は『全員を助けることはできない。助産師は幸せな時もあれば、辛いことに直面しないといけない時もあるのだ』と告げます。打ちひしがれたソフィアは『全員を助けられないなら、この仕事に何の意味があるんですか?』と答え、部屋を後にします。

 

この映画は、助産師たちが直面する大きな苦労を浮き彫りにし、彼らへの深い尊敬の念を抱かせます。赤ちゃんに何が起こったのかについての報告会では、スタッフ不足に対する不満や苛立ちが渦巻く中、ルイーズが印象的な言葉を発します。『私たちは患者とほとんど話すことなく走り回っていて、それは私たちの仕事を人間味のないものにしてしまいます。』本当に助けたいのに、手が足りなくて目の前で患者が苦しむのを見ているしかないという現実が、いかに胸が痛むものかを理解させられます。完璧主義者であれ、自信がない人であれ、彼ら全員が共有している一つの目的は、妊娠中の患者とつながり、支援することです。彼らは皆、本当に人を助けたいと思ってここにいるのです。

 

 

“映画は、さまざまな背景をもつ妊産婦たちの痛みや葛藤に助産師が寄り添う姿を描き、混沌とした現場の中で彼女たちがどれほど大切で感情的に深い役割を担っているかを強く実感させる。”

 

 

助産師たちが直面する課題は、赤ちゃんを取り上げることだけではありません。患者たちの人生や苦難にも寄り添わなければならないのです。あるシーンでは、妊娠したホームレスの女性が、新生児に対して距離を置いており、望まない妊娠だったことを示唆しています。また、娘が出産する場面では、助産師の言葉に耳を貸さない過保護な母親も登場します。さらには、虐待的な夫についての会話が聞こえてくるシーンや、助産師が夫に対して『妻にそんな言い方をしないで』と注意する緊迫した場面もあります。多くのシーンが混沌としていて、感情的に揺さぶられ、生々しいものです。私は何度も涙を流しました。同じ女性として、これらの母親たちが経験する痛み、喜び、恐怖を深く感じ、助産師たちが彼女たちの健康と幸せにとっていかに重要な存在かを痛感しました。

 

物語は、終盤にベテラン助産師のベネがシフトの終わりに突然退職を宣言することで、思いがけない展開を迎えます。彼女の同僚たちは驚きますが、ベネは、食事やトイレを我慢し、息子との時間を犠牲にすることは耐えられても、慢性的な人手不足のために患者を放置することにはもう耐えられないと説明します。この決断は、死産した赤ちゃんの両親が、なぜ出産までに5時間もかかったのかと痛ましく尋ねた場面の後に訪れます。ベネが答えられたのは、仕事に追われていたという弱々しい謝罪だけでした。母親は彼女を何度も拒否しますが、ベネは戸惑いながらも最終的には部屋を出て行きます。退職を告げた瞬間、かつて彼女の情熱を燃やしていた火が、燃え尽きてしまったのが見て取れました。

 

この映画は、どれだけ努力しても、物事がうまくいかないことがあるという現実を教えてくれました。そして、困難な時に自分自身を支え合うことの大切さを示しています。自分が止まってしまえば、患者が苦しむことになるからです。この映画は痛ましい一方で、美しく描かれており、人間関係の複雑さや公的医療制度の中でのフラストレーションを浮き彫りにしています。私たちは皆、利益を優先し、ケアを後回しにする大きなシステムの犠牲者です。そして、世界中で声を上げ、患者だけでなく、献身し犠牲を払ってくれる看護師たちのためにも、より良い生活とケアの質を求めることが重要だと痛感しました。

 

映画公式サイト:
http://pan-dora.co.jp/josanshitachi/

『完璧じゃなくて大丈夫』ヌード写真展に込めた想い

8月に東京で開催された一般女性のヌード写真展「Dear My Body 〜親愛なる私のカラダ〜」 。このイベントの仕掛け役でもあるウィメンズヘルスの小西寛奈副編集長に、写真展を開催することになったきっかけや、女性に伝えたいメッセージについて聞いた。

 

女の子をかわいく撮る天才

クレジット:Women’s Health

 

−−どうしてヌード写真展を開催したのですか?

 

きっかけは、写真家の花盛友里さんの個展での自身の体験でした。彼女の写真展に行った時にとても感激して会場で涙を流しました。その時にこのメッセージを世に広めたい、ウィメンズヘルスでもイベントをやりたい、と強く思ったんです。そのためには、かなりの資金が必要になりますが「絶対に実現させたい」と思い、ゼロから企画をして、8月末に実現できました。夢って実現するんだな、と思いましたね。

 

−−花盛さんの写真をもっと広めたいと思ったのはなぜ?

 

花盛さんは、女の子をかわいく撮る天才なんです。さらに、彼女がライフワークで活動している「脱いでみた」は、かわいいだけでなく、女性のためのおしゃれなヌードなんです。彼女の個展で見るのは「生まれてきてくれてありがとう」「あなたはあなたの体のままでいい」というメッセージが込められた写真ばかり。ぜい肉やシミがついた体、下着の跡など、隠したいものが一切修正されていない写真なんです。

 

女性たちをそのまま撮影し「全員が違って、全員かわいい」と心から思える写真を撮っているのが花盛さんです。彼女が伝えていることは、私自身がずっと伝えたいと感じていたことそのもの。「生まれてきてくれて、 みんなありがとう」という、まさに命への賛美です。

 

 

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クレジット:Women’s Health

 

「ボディポジティブ」から「ボディニュートラル」へ

−−この写真展を「心の処方箋」と表現していますが、写真展を開催することで、どんなメッセージを送っているのですか?

 

「ボディポジティブ」という言葉をご存知ですか。「ボディポジティブ」は、自分の体を大好きになって、太っていてもそのままでもいいよというメッセージですね。そこから派生して、 毛深いとか体に傷があるなどの特徴、障害や年齢、人種などの多様性を肯定しようという考えにまで広がっていると思います。

 

 

“「ボディポジティブ」が外見を肯定する考え方であるのに対し、「ボディニュートラル」は体の機能や働きに感謝することで、誰もが無理なく自分の体を受け入れられるようにする考え方です。”

 

 

その一方で、自分のありのままの外見を愛そうと言われても、なかなかそうはなれないよ、という声がすごく多いんです。だから、変にポジティブさを強調するのは、 多くの女性の気持ちと違う気がしていました。そんな時に「ボディニュートラル」という考え方に出会いました。

 

この「ボディニュートラル」は、体がご飯を消化してくれる、この手が動くから愛する人を抱きしめられる、足が動くからランニングができるなど、体の機能に注目して感謝するというものです。この「ボディニュートラル」という考え方なら、誰でもすんなりと受け入れられると感じました。この考えがより広まれば、もっと楽になれる人がたくさんでてくるのではないかと、そう思ったんです。

 

−−「ボディポジティブ」を強要しないというメッセージですね。

 

そうです。「無理にポジティブにならなくてもOK。ネガティブな感情もそのまま受け入れ、自分を生かしてくれる体の働きに目を向けよう」ということです。自分の体は一生の相棒ですから、親友のように接してほしいんです。

 

自分の体をそのまま愛そうとは言っても、不健康だけどそのままでいいという堕落した感じとは違います。それでは、自分の肉体をリスペクトしていないし、生まれ持ったポテンシャルを生かしきれてないと思うんです。

 

あなたが持って生まれたものを磨き、それを1番に輝かせることができるのはあなた自身なんです。でも、最近は、遠慮してしまう人が多い気がします。人からどう見られているかとか、自分の体型を変えなきゃという感覚があると、自己肯定感は下がってしまうでしょう。

 

憧れのあの人みたいになりたいという気持ちも悪いことではないですが、そこをストイックに目指しても、 自分の良さを発揮できない気がします。誰にも遠慮せずに生まれ持った輝きを思いきり放てる、そんな世の中になってほしいというメッセージです。

 

コンプレックスから解放され「楽になった」

−−参加者からの印象的な感想は?

 

自分の体は「不完全だからこそ美しいし、愛おしい」と気づいたという手紙をもらいました。参加した他の方たちからも「言葉に救われた」「楽になった」「勇気が出た」といった声をもらっています。ジムで体作りを頑張っていた参加者には「体を育てることが本当は苦しかった」と泣いている人もいました。逆に「自分の体は思い通りの外見ではないけれど、そんな自分をもっと愛してあげようと思った」とか「許されたような感覚があった」という意見もありました。

 

誰からも言われていないのに、自分の体型は世間から許されていないとか、周りに認められない外見だと思ったり、コンプレックスを持っている人も多いと思います。だから、例えば、おっぱいが大きくても小さくてもどちらでもいいし、その大きさは誰と比べているの、ということです。そのあたりがイベントで伝えられたと思います。

 

クレジット:Women’s Health

 

−−「みんな違ってみんないい」という意識は、少しずつ日本にも根付いていると感じますか?

 

私自身は根付いてると感じていました。例えばSNSを見たり若い世代の人と話していると、多様性を認める意識が浸透していると感じます。ウィメンズヘルスの仕事では、多様性を受け入れているフォトグラファーやアーティストと一緒に仕事をすることが多いんです。だから、そういう多様性は身の回りでは当たり前に感じていました。

 

 

“多様性を受け入れる意識は若い世代やクリエイティブ業界で広がっている一方、海外経験を通じて初めて「人と違っていい」と実感する女性も多く、日本ではまだその意識が十分に根付いていないと感じています。”

 

 

私自身は海外に住んだ経験がないのですが、インタビューした女性たちには「海外に行って意識が変わった」という方が多いんです。日本では太っているからといじめられていた女性は、海外に行ったら体型を気にしなくなったと言っていました。他にも、「あなたは何をしてると幸せなの」「何が好きなの」とよく聞かれた、など、海外の人は、自分がどう感じるかを大切にしていると話してくれた女性もいました。日本にいるときはそういう意識はなかったので、海外で自分は変わったと話してくれる女性がとても多いんです。彼女たちの話しを聞くと、日本での「人と違っていい」という意識の浸透はまだまだなのかな、とも感じます。

 

−−今回の写真展を終えて、次にやりたいと思っている企画はありますか?

 

ウィメンズヘルスは「心と体と地球を健やかにする」というのがミッションのメディアです。そして、このミッションはそのまま私のやりたいこととぴったりで、そんなぴったりな仕事で嬉しいなといつも思っています。次に企画をやるなら、また、何か世の中の役に立つことができないかと思っていますが、まだ模索中です。

 

自分の仕事も楽しくやりながら、それで世の中の役に立ったら最高ですよね。例えば、ウィメンズヘルスでは、古着でワクチンの寄付ができる「オクルヨバッグ」という古着回収サービスを立ち上げました。古着の回収は、ゴミ問題を生んでいるとか、実は地球のゴミが別の場所に移動しているだけだと批判されることもあります。

 

今年で2年目になるこのサービスは、発展途上国の子供にワクチンを寄付できたり、古着も捨てるのではなく、売って活用してもらったり、日本国内の障害者の方に梱包作業という仕事を提供することで雇用を生んだり、社会の経済が回り途中で誰かが役に立つというのが良いなと思っています。

 

あと、熱い想いを持った作り手さんの商品をウィメンズヘルスショップというウェブショップで一緒に販売しています。ここでは、健康だけではなく、地球環境につながるものを作っている人を見つけて、それを世に広めたいと思っています。

 

 

タンザニアの女性から教えてもらった「もっとわがままでいい」

わがまま」と聞いて、あなたはどう感じますか?

 

この言葉はネガティブなイメージを持たれがちですが、実際の意味は「我がまま」つまり「私の意志のままに」というもの。

 

私はタンザニアの女性たちと出会って、この「わがまま」について考える機会が増えました。

 

私たちは、もっと自分に「わがまま」を許しても良いのではないかと感じたんです。

 

タンザニアの女性たちの生き方には、あなたが、もっと自分のわがままを許せて、もっと楽に生きていくヒントが隠されているように感じます。

 

自由な自己表現

タンザニアの女性たちは、女性としての楽しさを誰に気兼ねすることもなく存分に味わっていると、日々そんな風に感じます。

 

例えば、我が家で働いてくれているお手伝いさんのローズマリー。

 

普段はとてもおとなしくて仕事をテキパキやってくれる彼女。ある日、彼女の意外な姿を目撃しました。

 

私が在宅で仕事のミーティングがあった日、ローズマリーには別室で子どもと一緒に遊んでもらっていました。

 

ミーティングが終わると、子どもの部屋から楽しそうなダンスミュージックが流れてきたのです。

 

ドアを開けたら、いつもおとなしいローズマリーが、3才の息子に負けないくらいノリノリでダンスをしていました。

 

息子もとっても嬉しそう。「あら、ごめんなさい。ダンスが楽しくて、踊りすぎちゃったわね」と、ちゃめっけたっぷりの彼女。

 

私自身、ダンスがうまくないということもありますが、こんな風に自然にクリエイティブな自己表現ができて、こうやって楽しめるなんて、うらやましいなと感じました。

 

▶︎タンザニアで学んだ「自分に許可を出して幸せになる」方法

 

苦労を楽しみに変える強さ

 

タンザニアの女性の自己表現は、ダンスだけではありません。髪型も自分を自由に表現するツールとして楽しんでいます。

 

例えば、スワヒリ語の先生のクララ。

 

週に2回会う彼女は、会うたびに髪型を変えています。

 

それがまたとても似合っていて素敵なんです。

 

ある時は三つ編みにしたヘアをトップでまとめて、またある時は髪に明るい色のハイライトをいれたり、またはウィッグで短髪にして突然のイメージチェンジなど。

 

ひんぱんに長さやスタイルを変えて、新しい髪型をいつも楽しんでいます。

 

私自身は、子育てが忙しくなってからは、手入れしやすい短めの髪型を続けています。

 

しかし、子育てをしながらも、自分のオシャレを楽しむ余裕を持っている彼女を見ていると、髪型を少しチェンジさせたら私も日々のワクワク度がアップするのではないかと気づきました。

 

タンザニア女性の髪は黒人特有の縮毛であるため、日々のお手入れが欠かせません。

 

しかし、彼女たちはこの手入れがめんどうであるという苦労を、女性のファッションをさらに楽しむツールへと変えているのです。

 

さらに彼女たちは髪型をひんぱんに変えることで、自己表現の幅も広げています。

 

髪を編んだり、結んだり、アフリカ布のヘアアクセサリーを使ったりすることで、個性的で洗練されたスタイルをつくり出しています。

 

彼女たちのこういう髪型を使ったファッションは、個性を表現し、自信を高める素晴らしい手段となっています。

 

▶︎タンザニアで学んだ幸せになるコツ

 

必要なサポートは遠慮せず活用

 

タンザニアの女性が生き生きとしている理由の一つに、お手伝いさん文化があると私は考えます。

 

お手伝いさんを雇う習慣は、タンザニア社会に根付いており、お手伝いさんは通常、家族の一員のように家に泊まり込んで働いています。

 

私自身、この文化に慣れていないせいか、当初は、家事を他人に任せることに抵抗がありましたが、アフリカで経験できるせっかくの体験だと、思い切って雇ってみました。

 

自分が得意ではないことは他の人に任せてみたらいい」「本当に大切なこと以外はやらなくていい」そんな理想論をどこかで聞いたことはあっても、実際には無理なことだとあきらめてきた私。

 

しかし、お手伝いさんのおかげで、この「理想論」を実現できたのです。

 

その結果、何年も「忙しいから」を理由に伸ばし伸ばしにしていた活動を始めたり、子どもたちと過ごせる時間が増えました。

 

このお手伝いさん文化は、タンザニアの女性のエンパワーメントの役割を担っています。

 

お手伝いさんの存在によって、働くママたちは仕事に行きやすくなります。

 

つまり、子育てや家事に追われることなく、自分のキャリアや個人の成長に専念することができるのです。

 

「家事育児は女性の仕事」という社会通念がまだまだまかり通っているタンザニア社会。

 

お手伝いさんの存在によって、タンザニアの女性たちは、時間とエネルギーを自己成長や自己表現に注ぎ、女性たちの夢の実現や経済的な自立に大きく貢献しています。

 

▶︎SHOGENの視点:🏳️‍🌈日常を大切にしていたタンザニアの人々

 

「わがまま」と決めつけずに

タンザニアの女性たちは、男尊女卑という今も残る社会的な制約にもかかわらず、こうやって生き生きと輝いています。

 

それは、自由に自己表現をする彼女たちのパワーと、お手伝いさん文化という社会から与えられた機会に支えられています。

 

自己表現したりサポートを受け入れることを、私たちは「わがまま」と決めつけて、我慢しがちではないでしょうか。

 

タンザニアの女性たちの生き方から、この「わがまま」と片づけてしまいがちな視点を見直すことができそうです。

 

つまり、私たちも自己表現をもっと大切にし、必要な支援を受け入れることで、より充実した生活を送ることができるということです。

 

ぜひ、日々の生活の中で、こういった視点を取り入れてあなたの考え方を更新できる部分がないか、考えてみてくださいね。

 

女性に優しい国ナンバー1のスウェーデンに学ぶ『ありのままの自分を受け入れる方法』

 

北欧の国スウェーデンは「世界でいちばん女性に優しい国」のトップに毎年選ばれています。

 

そんなスウェーデンの出身で、今では世界中のクライアントにヨガを教えているアンナ・スヴァルドフェルトさんに、ハミング代表の永野 舞麻(ながの まあさ)がインタビューをしました。

 

女性の権利が擁護され、働く女性が家庭と仕事を両立させられるように充実した育児休暇の仕組みが整っているスウェーデン。

 

そんな国で育ったアンナさんの体験から、わたしたち日本人が学べることも多いのではないでしょうか。

 

 

Q1:なぜ、スウェーデンは女性に優しい国のトップだと思いますか?

 

 

スウェーデンでは、「女性と男性は平等な役割を持ち、お互いがお互いを必要としている」という意識が根付いています。

 

それは、女性の雇用の機会にも表れており、医者でもバスの運転手でも、全ての分野において女性が活躍しています。

 

 

Q2:日本では、子供を持つ母親が仕事と家庭の両立に苦労していますが、スウェーデンの状況は?

 

 

“スウェーデンでは子供が生まれると、女性だけではなく男性も育休をとることが普通です。また、スウェーデンの働く女性が子育てと仕事の両立というプレッシャーを職場で感じることはほとんどありません。なぜなら、子供を持つ母親はフルタイムで働かなくて良いからです。

 

そもそも70%くらいの女性は、出産後はフルタイムで働きません。子供を持つ親にとって子供との時間が大切であることを会社が理解しているからです。”

 

そんなスウェーデンで、今は19才と21才になる2人のお子さんを育ててきたアンナさん。

現在はスウェーデン在住で、アシュタンガヨガとアーユルヴェーダの先生をしています。

アンナさんは、ヨガの先生を始める前から長い間、彼女の人生やヨガの教え方に大きな影響を与えた生き方をすでに行っていたと言います。

 

“11歳の時の日記に、ヨガを始めたいと書いたことがあるのですが、当時ヨガが何か分かっていませんでした。40代になってその日記を読んだ時、まさか本当にヨガを続けるだけでなく先生になっているとは、とびっくりしました。

 

18歳の時にオーストリアで夏を過ごし、70歳の聡明な女性に出会いました。彼女はマクロビオティック食を食べるなど、様々なことに興味のある女性でした。彼女が実践していることはどれも当時の私にとって新しいことばかりでした。彼女と様々なことを一緒に体験し、自分の内面が変わっていくのを感じました。

 

その頃に私はヨガに出会い、ヨガが誰でもできることなのだと知ったのです。私はその女性とはその後さらに親しくなり、彼女は96歳まで生きました。彼女は当時の私のボーイフレンドの祖母だったのですが、彼女との出会いは運命的でした。

 

10代の頃、私はひどい自動車の事故にあい、それが原因で背中にひどい痛みが残りました。色々な治療を試しましたが、その痛みに慣れてしまい、一生この痛みをひきづっていくのだろうと思っていました。その後、会社員として働いていた時も、まだ背中に痛みがあり、何かしなければと思い、再びヨガを始めたのです。その時に、70歳のヨガの先生に出会いました。

 

当時の私は、かなりのストレスを感じていました。しかし、再びヨガを始めたことで、調子が良くなっていることに気づいたのです。ストレスが減っただけでなく、良く眠れるようになりました。すべてのことがうまくいくようになって、背中の痛みも和らいでいることに気づいたのです。

 

最初の子供ができたとき、私は家にいて子供を自分で育てたいと考えていました。そして、すぐに2人目を妊娠し、会社員としてもう復帰しないことに決めました。周りの人は私の頭がおかしくなったのかと思ったようですが、私はただ子供たちと一緒にいたくて自分を大切にしたかっただけなのです。

 

 

“交通事故による背中の痛みとストレスに苦しんでいた彼女は、ヨガとの再会をきっかけに心身の調子を取り戻し、母となった後は自分と家族を大切にする生き方を選びました。”

 

 

20年前は、子供のために仕事をやめるなんて考える人はほとんどいませんでした。人々から「いつ仕事に戻るの?」と尋ねられることが7年間も続きました。でも、これが私にとって大きな転機だったのです。この頃から、私は家族を連れてインドにも行くようになりました。

 

子供たちが成長してきたので、私はヨガの先生としての仕事をスタートしました。自然にそうなっていったのです。自分自身を無理に追い詰めることはなく、自分の直感に耳を傾けただけです。

 

自分が会社員として働いた経験があることはとても幸せに感じています。この経験により、ストレスを感じている人々を理解し、共感しやすくなりました。”

 

 

Q3:ヨガ、瞑想、そしてマインドフルネスを取り入れたいと考えている人々へのアドバイスはありますか?

 

“大切なことは、どれだけの時間をかけるかではなく、「したい」という強い願望を持つことです。その願望を育ててください。瞑想をしなかった日があったからといって、自分を責めるとストレスがたまります。

 

自分の心のメインテナンスと瞑想という点で大切なのは、自分の願望に耳を傾け、できることから始めるということです。多くの計画を立て過ぎないようにし、心の声に従って進んでください。常にまじめでいようとすると、感情がないロボットのようになってしまいます。”

 

 

▶︎マインドフルネスをやってはいけない人の特徴|PTSDやうつ病の人は危険?

 

 

Q4:あなたはどのようにして、心を開いたり直感を聞くことができるようになったのですか?

 

“私は子供の頃からそういった願望を持っていました。また、車の事故も影響を与えたと思います。この事故を経験したことで、自分の心の声を聞かざるを得なくなりました。

 

さらに、会社員として忙しく働いていた時は、自分が偽っているような感覚を持っていました。全く重要性を感じないことをして、どうしてこれほど多くのお金を稼げるのか、という感覚です。なぜなら、私自身はすでに人生で本当は何が大切なのかを知っているからです。それは、自分が愛する人たちのそばにいて、自分を大切にすることです。

 

私は誰もがヨガの先生である必要はないと思います。しかしヨガのプロセスを通じて、自分を大切にする方法を見つけることができます。ヨガを実践することで不安が少なくなり、その結果、他の人々の行動にも影響を与えることができるのです。

 

ヨガの先生になるためには、まずは自分について知る必要があります。その意味で、私たちは皆が生徒なのです。自分を先生だと思ってしまうと、もう先生ではありません。ですから、私は自分のことも生徒として見ています。”

 

 

Q5:ヨガとアーユルヴェーダは、どのような形で人々の役に立つのでしょうか?

 

 

 

“自分に焦点をおいていると、あまり多くのエネルギーを使う必要がありません。ヨガとアーユルヴェーダは『私たちがエネルギーを消耗する原因は、私たちが無意識に行っていることや考え方にある』と教えてくれます。

 

多くの人がヨガに来て「うまく息つぎができない」と言いますが、もちろん呼吸はしています。彼らが自分の呼吸に集中し始めると、自分が考えすぎていることに気付き、より落ち着けます。ストレスを抱えると自分を見つめる方法を見失いがちですが、単に自分の呼吸に集中するだけで、自分を探求することができるのです。

 

 

“ヨガとアーユルヴェーダは、呼吸に意識を向けることで無駄な思考やエネルギーの消耗を減らし、自分の本質とつながって本来の自分を取り戻せることを教えています。”

 

 

私たちは生まれてくるときに息を吸い、この世を去るときには息を吐きますよね。つまり、生まれてからこの世をさる間に、どのように呼吸をするかが重要なのです。

 

ヨガはあなたに呼吸というツールを与えるので、瞑想ではこの呼吸に集中します。あなた自身と繋がることができなければ、あなたは偽りの人格の中で生きていることになります。これを長く続けていると幸せから遠のいてしまいます。しかし、呼吸を学ぶことで本当の人格に目覚め、自分が本来どういった人であるかを感じることができるのです。”

 

 

▶︎アーユルヴェーダって何?どうやったらすんなり今の生活に取り入れられる?

 

 

Q6:より良い人間になるためには自然に没頭する必要があると言われています。自然と近くなることは、あなたにとってどういう意味がありますか?

 

“スウェーデンは、人が少なくて、自然が多いです。食事をとるのと同じように私たちは自然を摂取する必要があるのです。そうすることで、自分の心に正直に生きやすくなります。自然をもっと取り入れるという方法は、毎日やる必要はありませんが、一度やるともっとやりたいと思うようになります。頭で考えるのではなく、まずは行動してみることが大切です。経験すると、知識が自分の糧になります。

 

現代社会を見渡すと、多くの人々が真実から遠く離れ、自然から遠ざかっています。その結果、周りの人々がしていることを真似をして、自分を見失い、結果として不健康な社会を作り出しています。もし、あなたが自分自身を育てるようになれば、社会も世界も良くなっていくでしょう。

 

瞑想がいかに有益であるかという体験がなければ、物事に圧倒されたときに瞑想を続ける方法がわからないのと同じです。他人の言うことに頼ってしまう。例えば、経営者が自分自身と調和していないと、会社の経営事態も調和していないものになってしまう。だから、それぞれの人が自分を大切にすることがとても大事なんです。”

 

 

Q7:最近とても幸せだと感じたことは何ですか?

 

“マインドフルネス(今に集中している)ときは幸せです。今を大切にすればするほど、幸せになれるのです。何かを買ったり、特別な人に会ったりする必要はありません。私は今、すでに幸せなことに気づくだけでいいのです。

 

誰かが自分の元を去っていくとき、あるいは死んでいくとき、本当に悲しいときには心を開くから、自分を知るチャンスになるんです。そんな時は、悲しいことも嬉しいことも同時に起こっています。悲しいのはその人に会いたいからで、嬉しいのはそうやって自分自身と向き合えるから。誰かがいなくなったからと言って、被害者になることはありません。”

 

Q8:幸せでないとき、それを体感しますか?

 

“子供のことで忙しくしていたりと、自分のための時間をとっていない時は、自分が不安感に駆られていることに気づきます。

 

そんな時は、自分のための十分な時間をとっていないというサインだと思って、意識してリラックスする時間を設けるようにしています。”

 

Q9:そのままの自分を受け入れたり、愛せないと感じている日本の女性たちへのアドバイスはありますか?

 

“自分を愛することは非常に大切です。自分を愛せないと、他の誰かを愛することはできません。もしそれができなければ、まずは瞑想を始めましょう。どれだけ他の人を手助けしたいと思っても、まずは自分を助けることから始めなければなりません。

 

自分を知る旅とは、まさに充実した人生への旅を意味します。そして、この旅は一生続くものなのです。あなたの中にある命の力「プラーナ」がより多ければ多いほど、あなたの人生は充実したものとなるでしょう。

 

人生を思いきり楽しむためには、変化を受け入れる寛容さを持つことが大切です。例えば、恋愛関係が上手くいかなかったとしても、失敗だと感じる必要はありません。なぜなら、私たちは常に成長して変化し続けているからです。一緒に過ごした時間に感謝しましょう。

 

もしもあなたがこのことに気づいていないとしたならば、あまり変わることはできないでしょう。今の時代は、より多くの人々がこのことに気づきはじめており、多くの人々が日々、変わっています。そのため、人々が一生涯ずっと一緒にいることが以前ほど一般的ではなくなっているように思います。”

 

 

▶︎【自己受容】弱くてダメな自分を認めて受け入れるトレーニング方法

 

<参考>

BAV Consultingとペンシルバニア大学ウォートン・スクールの2022年調査

 

タンザニアで学んだ「自分に許可を出して幸せになる」方法

なかなか自分に許可が出せない

 

普段の生活の中で、こんな風に感じることって意外と多くないでしょうか。

 

「あのお化粧、私の歳にはあわないよね」

 

「あんなこと、私がやったら周りの人に笑われちゃうかな」

 

興味があっても、自分には無理だと無意識にブレーキをかけていることはありませんか?

 

でも、自分に「やってもいいよ」という小さな許可を出すだけで、それは自分が望む幸せに1歩近づいているのです。

 

なぜなら、自分を止めているブロックというのは、自分が心の奥で、本当はやりたいと思っていることだったり、ずっと気になっていることだったりするからです。

 

自分をとめているブロックは、自分の本質を映しだしていることが多いのです。

 

私はここタンザニアで、今まで自分になかなか出せなかった小さな許可を出したことで、長い間感じたことのない幸せな気持ちになりました。

 

この記事を読むと、あなたも日々の生活にちょっとした勇気をとりいれる方法がわかり、日常をさらに幸せにするヒントが見つかります。

 

「私にはムリ」と思ったアフリカ布との出会い

 

 

タンザニアに来て、まず私の目を引いたのは「キテンゲ」というアフリカ布を身にまとったタンザニア人女性の美しさ。

 

この「キテンゲ」は、赤、青、黄色などのカラフルな色と、動物やフルーツなどの大胆な柄が特徴的なデザインの布です。

 

タンザニア人女性の肌の色に、この明るい色が絶妙なコントラストでとても素敵なのです。

 

でも、日本人のわたしが着るには、キテンゲは派手すぎて無理だなあ、と考えていました。

 

その一方で、日本人を含む外国人の友達が、このキテンゲのワンピースを上手に着こなしている姿をみて「うらやましいな」「わたしもトライしてみたいな」とも感じていました。

 

 

“無難な色ばかり選んできた彼女は、友人に誘われて訪れた店でキテンゲ布の鮮やかな美しさに魅了され、迷いながらも自分のために初めてそのカラフルな布を手に取りました。”

 

 

そうはいっても、今まで黒、白、ネイビー色などの無難な色を着ていたわたし。

 

もう40代だしこんなカラフルな色を着たら周りからどう見られるだろう、とやはり抵抗がありました。

 

ある日、友達がアフリカ布を買いに行くということで私も一緒についていきました。

 

そこで出会ったキテンゲの美しさに改めて魅了されたわたし。

 

気付いた時には、買う予定のなかったキテンゲを自分用に購入していました。

 

そこからは、もう早かったのです。

 

すぐに仕立て屋さんに娘とわたしのおそろいのワンピースを作ってもらい、あこがれていたキテンゲのワンピースが出来上がりました。

 

はじめての娘とおそろいのワンピースを手にいれた私。

 

まるで宝物を手に入れたようにワクワクしていました。

 

娘からの「一緒に着ていこうよ」の一言にさらに勇気をもらい、早速このワンピースを着て出かけました。

 

友達に「とても似合うよ」とほめてもらったわたしは、服をほめてもらってくすぐったいような、でもほんわかと幸せな気持ちをかみしめる少女に戻っていました。

 

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タンザニアの女性の味方

 

最初はハードルが高いと感じていたこのキテンゲのワンピースですが、少しの勇気で自分も着用してみたら、大きなときめきとワクワク感と予想しなかった幸せを感じることができました。

 

こんな外国人の私に幸せをもたらしてくれたキテンゲは、タンザニアでも女性の味方です。

 

キテンゲは、タンザニアではカバンや小物などにも使われている布ですが、圧倒的に女性のワンピースとして活躍しています。

 

 

“キテンゲは、母から娘へ受け継がれ、団結や幸せを象徴する布として、男性優位のタンザニア社会で女性の自己表現とエンパワメントを支える重要な存在です。”

 

 

 

男性優位のタンザニア社会で、このキテンゲはタンザニアの女性のエンパワメントにとても重要な役割を担っています。

 

例えばクリスマスのようなイベントでは、女性たちが同じ柄のキテンゲでおそろいのワンピースを着て女性たちの団結と強さを表現します。

 

また、自分の娘たちが5~6歳くらいになると、母親は初めてのキテンゲをプレゼントし娘の幸せを願います。

 

出産する女性たちの必需品にもキテンゲが含まれます。

 

赤ん坊が産まれた時に最初に新しい命を包む神聖な布がキテンゲなのです。

 

キテンゲは、タンザニア人女性が着用して自己表現をする手段であり、男性優位の社会で女性が強く自立していくための仲間のような存在なのです。

 

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自分を解放するための「許可」

こんなキテンゲから、大きな幸せを得ることができた私は、「40代なんだから、こういう色の服を着るべき」という固定観念から解放され、自分に許可を出すことができました。

 

あなたも普段の生活の中で、ずっと気になっていたけど勇気がでないこと、こんなことしたら恥ずかしい、……と自分に許可を出せていないことはありませんか。

 

とっても小さな勇気で小さなステップを踏んでみることで、おもいもよらない大きな幸せを感じることができるものです。

 

ぜひ一度トライしてみてくださいね。

 

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SHOGENの視点:🏳️‍🌈日常を大切にしていたタンザニアのブンジュ村の人々

 ブンジュ村には嘘のような本当の話がたくさんあります

 

皆さんこんにちは!

 

ペンキ画家のSHOGENです。

 

僕は、アフリカのタンザニアのブンジュという200人の小さな村で、村人と生活を共にしながら絵を描き続けていました。

 

ある日、村人の皆んなを束ねる70歳の村長にこのような質問をされました。

 

SHOGENは2日前のお昼ご飯に何を食べた?』

 

僕は覚えていなかったので、『覚えていない』と答えました。

 

すると村長が、『SHOGENにとって食べるということは作業なんだね。食べることが、食事が作業になった時に、生活・暮らしそのものが作業になってくるんだよ。

 

確かに2日前のお昼ご飯の時、俺の家族と一緒に食べていたよね?

 

でもね、SHOGENを見ていて思ったよ。

 

お前はそこにいなかった。お前の心はそこにいなかったんだ。

 

そこにいた俺の孫たちもみんなそう言ってたぞ。

 

SHOGENはその時一緒にご飯は食べていたけど、おそらく頭の中は明日のことを考えていただろうし、1週間後の予定のことを考えていたにちがいない。

 

SHOGEN、誰がどう見てもお前の心はそこにいなかった。

 

生きるということはどういうことかわかるかい?

 

生きるということは、その時、今、その瞬間瞬間をじっくりと味わうということなんだよ。

 

今の日本はものすごく忙しいのか?

 

お前みたいな人ばかりなのか?

 

  • 明日何をする?
  • どこに行く?
  • 何を食べる?

 

といった作業の会話であふれているのか?

 

SHOGEN、お前の会話は作業の会話が多すぎる。

 

このブンジュ村に住む人たちの会話をよく聞いてみてごらん。

 

  • それをして、どう言う気持ちになったのか。
  • それを食べて、心がどう感じたのか。

 

という心の会話が多いだろ?

 

SHOGENも、もっと心の会話ができるように日常を味わいながら生きていくべきだと思う。』

 

僕は今まで生きてきた人生の中で、こんな質問をされたことがありませんでした。

 

小さい頃から学校では、

 

「給食は時間内に残さず食べなさい。早く食べて掃除に取りかかれる準備ができるようにしなさい。ゆっくり食べて周りの人に迷惑をかけないように!」

 

と言われ続けてきた僕は、何を食べたのか覚えていたことは一度もなかったし、給食を味わって食べた記憶もありませんでした。

 

生きる上で最も大切にしなければいけない食事という時間。

 

ブンジュ村の人々にとって食事の時間とは、日常を豊かにしてくれ、生きる喜びを感じさせてくれる大切な時間だったのです。

 

ブンジュ村には嘘のような本当の話がたくさんあります

 

皆さんは、昨日食べた夜ご飯を覚えていますか?

 

2日前に食べたお昼ご飯を覚えていますか?

 

その時、あなたは誰と食べましたか?

 

一緒に食べていた人は、どんな表情で、どんな会話をして食べていましたか?

 

その時にあなたが食べたものは、どんな味がしましたか?

 

生きるということは、今、その時、その瞬間に自分の心がそこにいるということ!

 

今あなたは何をしていますか?

今あなたの心はそこにいますか?

今あなたは今を生きていますか?

 

🔻SHOGENのInterview動画はこちら🔻

 

 

タンザニアで学んだ幸せになるコツ

タンザニアの八百屋さん(写真:著者提供)

 

あなたが最近「ありがたいな〜」と感じたのはいつですか?忙しい日々の生活で、こういった感謝の気持ちを実感することは難しいかもしれません。

 

私は、タンザニアでの生活を始めて、日本では当たり前だったことが、この国では当たり前ではないことを日々実感しています。

 

アフリカに住むわけなので、このこと自体は覚悟していました。

 

しかし、予想していなかったことがあります。

 

それは、当たり前だと思っていたことのありがたみに気づくことで、幸せ度がアップすることです。

 

当たり前のものがないタンザニア

タンザニアの町を歩く女性たち(写真:著者提供)

 

アフリカの生活を始めると、当たり前だと思っていたものがここにはない、というびっくりする体験をよくします。

 

例えば「水泳」。タンザニアには、大人になっても泳げない人がたくさんいます。

 

なぜなら、学校で水泳を学べないからです。

 

子供に泳ぎを教えたければ、学費が高い私立の学校に通わせるか、放課後に水泳レッスンに通わせなくてはいけません。

 

そのため、タンザニアで泳げる人は、ごく一部に限られます。

私はこの事実を、友達の子供にギフトとして水着をあげた時に初めて知りました。

 

 

“日本では当たり前の泳ぎや貯金が、タンザニアでは一部の人だけが享受できる特権であり、そこでは家族や地域の助け合いによって経済が支えられていることを知りました。”

 

 

 

「せっかくもらったけど、うちの子は泳いだことがないわ。

 

でもせっかくだし、子供を水泳教室に通わせようかしら」友達はそう苦笑していました。

 

日本では子供の時に当たり前のように習う泳ぎ。

 

タンザニアでは、一部の人だけが享受できる特別なスポーツだったのです。

 

知らない間に泳げるようになっていた私は、小さい時に泳げるようになっていたことをありがたいと感じました。

 

もう1つのびっくりした体験は、お金にまつわるもの。

 

日本では当たり前のようにしている「貯金」。

 

貧しいため、その日暮らしをしている多くのタンザニア人にとって「貯金」とは、余裕のある人だけができる贅沢なことです。

 

こういった背景から、仕事のある人が、失業していてお金のない人を助けたり、お金が必要になったら、家族でお金のある人がサポートをしたりというやり方で、住民の経済はなんとか成りたっています。

 

わたしたち日本人にもお金の心配はありますが、貯金という当たり前があるから、そうはいっても、安心なのだと感じます。

 

感謝に気づく事のメリット

当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったのだと、タンザニアでの生活を始めて気づいたことは、他にもたくさんあります。

 

こういった事実を知り、ありがたいと感謝することで、幸せな度がアップしている自分に気がつきました。

 

感謝をすることで、幸せを感じられるのはなぜでしょうか。

 

メリット①

1つ目は、心をポジティブな状態にできるから。

 

当たり前のことを当たり前に考えず感謝することで、ポジティブな生き方をすることができます。

 

今に注意を払うことで、自分が何を持っているのかに気づき、心の中にポジティブな感情が生まれ、ストレスや不安を軽減することができます。

 

メリット②

2つ目は、感謝することで自己肯定感を高めることにもなるという点。

 

自分が持っているものに感謝することは、自分自身を受け入れることにもなるからです。

 

今の自分を客観的にとらえることで、自分自身に対する理解を深めることができます。

 

その結果、自己肯定感が高まり、自信を持って日々を過ごすことができます。

 

メリット③

3つ目に、感謝の気持ちが、人間関係にも良い影響を与えるということがあげられます。

 

今まで当たり前に受け取っていたもの、他人が自分のためにしてくれることに感謝することで、相手に対する感謝の気持ちが生まれ、相手との関係が改善されるという側面があります。

 

あなたも、感謝できることを1つ見つけてみよう

タンザニアでの私のこういった気づきは、そもそも日本に生まれたこと自体が感謝することなのだと考えるきっかけにもなりました。

 

私は、起床したらまず、感謝することを紙に書くということを日課にしています。

 

 

“感謝の気持ちを持つことは自分を受け入れることにつながり、自己理解を深めて自己肯定感や自信を高めることができます。”

 

 

こうやって言語化することで、自分がどれだけたくさんの、ものやことを与えられているのかに気づけるようになります。

 

感謝という視点を持って自分の周りを見回すと、景色はずいぶんと違って見えるのではないでしょうか。

 

つまり、あなたの周りにあるものは、どれも感謝できるものばかりなのです。

 

屋根のある家、毎日着替えができるきれいな服、安心して眠ることができるベッド、朝起きれば食べられる朝食、いつでも不自由なく飲める水。

 

あなたも、ぜひ、自分が当たり前に受け取っていることを一度書き出して、あなたがどれだけ幸せなのかに気づいてください。